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ただ歩いて息をして

作者: P4rn0s
掲載日:2026/03/27

気づいたら、みんな名札を欲しがっていた。

名前じゃなくて、肩書きのほうだ。


「何してる人?」


その一言は、挨拶みたいな顔をして喉元に刃を当ててくる。

答えられないと、透明になる。

何もしていない人間は、

ここには存在していないことになっているらしい。


駅のホームで、スマホを見ながら歩く人たちは、

どこかへ急いでいるというより、

何者かへ変身し損ねるのを恐れているように見えた。


止まったら終わりだ。

立ち止まった瞬間に、「ただの人」に戻ってしまう。

そのことが、なにより怖い。


昔は、もう少し雑だった気がする。


あの人は近所の人で、

あの人はよく笑う人で、

あの人は夕方になると犬を散歩させている人だった。


それで充分だったはずなのに、

いつの間にか、それだけじゃ足りなくなった。


「夢は?」

「目標は?」

「将来どうなりたい?」


質問の形をしているけれど、これは確認作業だ。


ちゃんとレールに乗っているか。

ちゃんと前を向いているか。

ちゃんと“何者か”になろうとしているか。


何者かにならない人は、怠けていることにされる。

選ばないという選択は、選択肢として数えられない。


タイムラインを開くと、成功談が流れてくる。


夢を叶えた人。

評価された人。

数字を持っている人。


彼らは悪くない。

ただ、彼らの存在が「そうならなかった人」の輪郭を、

やけにくっきりさせてしまうだけだ。


僕は、コンビニの前で缶コーヒーを飲みながら、それを眺めていた。


夜風が冷たくて、

甘い缶の匂いがして、

それ以上でも以下でもない時間だった。


その瞬間、僕は誰でもなかった。


役に立っていないし、

評価もされていないし、

未来に向かって踏み出してもいない。


でも、ちゃんと生きていた。

心臓は動いていたし、味も感じていた。


それなのに、どこか罪悪感があった。


「こんなことをしていていいのか」


という声が、頭の奥で鳴る。


誰の声かはわからない。

親でも上司でもない。

もっと曖昧で、もっと大きな声。


社会、と呼ばれるやつだ。


何者かにならなきゃいけない、という空気は、

命令じゃない顔をしているから厄介だ。


強制じゃないですよ、自由ですよ、と言いながら、

なれなかった場合の扱いだけは、やけに冷たい。


何者かになった人は拍手される。

なれなかった人は、自己責任と呼ばれる。


でも本当は、誰もが最初から「何者か」だったはずだ。


名前があって、体があって、癖があって、

どうでもいいことに心を揺らして、

どうしようもなく眠くなる夜がある。


それ以上の証明が、必要だっただろうか。


ベンチに座って、通り過ぎる人を眺める。


あの人は、今日うまくいかなかった顔をしている。

あの人は、少しだけ安心した歩き方をしている。

あの人は、何者かになったふりをしている。


誰もが必死だ。


何者かにならなきゃ、というより、

何者でもない自分を直視するのが怖いのかもしれない。


ラベルがあれば、説明しなくて済む。

肩書きがあれば、迷っている時間を省略できる。


「自分はこれです」


と言えれば、それ以外の可能性や不安を、切り捨てられる。


でも、切り捨てられたものの中に、

本当はいちばん大事な部分があったりする。


名前もつかない、

役にも立たない、

ただ静かに好きだったもの。


何にもならない時間。

誰にも評価されない感情。


それらは、履歴書には書けない。

だから、無かったことにされる。


缶コーヒーを飲み干して、立ち上がる。


相変わらず、僕は何者でもない。

でも、何者かになる途中ですらないこの瞬間を、

誰にも奪われたくなかった。


世界は今日も、

「なにになった?」

と聞いてくる。


僕は答えない。


代わりに、ちゃんと息を吸って、歩き出す。


何者かにならなくても、生きていていい。


その当たり前を、忘れないために。

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