ただ歩いて息をして
気づいたら、みんな名札を欲しがっていた。
名前じゃなくて、肩書きのほうだ。
「何してる人?」
その一言は、挨拶みたいな顔をして喉元に刃を当ててくる。
答えられないと、透明になる。
何もしていない人間は、
ここには存在していないことになっているらしい。
駅のホームで、スマホを見ながら歩く人たちは、
どこかへ急いでいるというより、
何者かへ変身し損ねるのを恐れているように見えた。
止まったら終わりだ。
立ち止まった瞬間に、「ただの人」に戻ってしまう。
そのことが、なにより怖い。
昔は、もう少し雑だった気がする。
あの人は近所の人で、
あの人はよく笑う人で、
あの人は夕方になると犬を散歩させている人だった。
それで充分だったはずなのに、
いつの間にか、それだけじゃ足りなくなった。
「夢は?」
「目標は?」
「将来どうなりたい?」
質問の形をしているけれど、これは確認作業だ。
ちゃんとレールに乗っているか。
ちゃんと前を向いているか。
ちゃんと“何者か”になろうとしているか。
何者かにならない人は、怠けていることにされる。
選ばないという選択は、選択肢として数えられない。
タイムラインを開くと、成功談が流れてくる。
夢を叶えた人。
評価された人。
数字を持っている人。
彼らは悪くない。
ただ、彼らの存在が「そうならなかった人」の輪郭を、
やけにくっきりさせてしまうだけだ。
僕は、コンビニの前で缶コーヒーを飲みながら、それを眺めていた。
夜風が冷たくて、
甘い缶の匂いがして、
それ以上でも以下でもない時間だった。
その瞬間、僕は誰でもなかった。
役に立っていないし、
評価もされていないし、
未来に向かって踏み出してもいない。
でも、ちゃんと生きていた。
心臓は動いていたし、味も感じていた。
それなのに、どこか罪悪感があった。
「こんなことをしていていいのか」
という声が、頭の奥で鳴る。
誰の声かはわからない。
親でも上司でもない。
もっと曖昧で、もっと大きな声。
社会、と呼ばれるやつだ。
何者かにならなきゃいけない、という空気は、
命令じゃない顔をしているから厄介だ。
強制じゃないですよ、自由ですよ、と言いながら、
なれなかった場合の扱いだけは、やけに冷たい。
何者かになった人は拍手される。
なれなかった人は、自己責任と呼ばれる。
でも本当は、誰もが最初から「何者か」だったはずだ。
名前があって、体があって、癖があって、
どうでもいいことに心を揺らして、
どうしようもなく眠くなる夜がある。
それ以上の証明が、必要だっただろうか。
ベンチに座って、通り過ぎる人を眺める。
あの人は、今日うまくいかなかった顔をしている。
あの人は、少しだけ安心した歩き方をしている。
あの人は、何者かになったふりをしている。
誰もが必死だ。
何者かにならなきゃ、というより、
何者でもない自分を直視するのが怖いのかもしれない。
ラベルがあれば、説明しなくて済む。
肩書きがあれば、迷っている時間を省略できる。
「自分はこれです」
と言えれば、それ以外の可能性や不安を、切り捨てられる。
でも、切り捨てられたものの中に、
本当はいちばん大事な部分があったりする。
名前もつかない、
役にも立たない、
ただ静かに好きだったもの。
何にもならない時間。
誰にも評価されない感情。
それらは、履歴書には書けない。
だから、無かったことにされる。
缶コーヒーを飲み干して、立ち上がる。
相変わらず、僕は何者でもない。
でも、何者かになる途中ですらないこの瞬間を、
誰にも奪われたくなかった。
世界は今日も、
「なにになった?」
と聞いてくる。
僕は答えない。
代わりに、ちゃんと息を吸って、歩き出す。
何者かにならなくても、生きていていい。
その当たり前を、忘れないために。




