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第9話 支配人との面談(探り合い)

 帰りのタクシーは正午前にホームの正面玄関に着いた。清治が車の後部ドアから左足を出したところへ、支配人が歩み寄って来た。

「岡谷さん、大漁ですか?」

 いつもより親しげに微笑んでいる。森山に魚釣りに行くと言った覚えはない。カウンター職員に伝えておいたのをすぐに思い出した。

 ホームではパソコンで入居者の外出、外泊先などが共有されている。また、自分の部屋にいるとカウンターの裏にある事務管理室のパネルに在室ランプが灯り、十二時間以内に動きが感知されない場合はブザーが鳴る仕組みになっている。

 清治は、支配人に声をかけられた「大漁ですか?」のひと言が単なる挨拶言葉だと分かっていても、しゃくにさわった。プライドの高い者が、釣れなかった時に「釣れたか」と訊かれることほど不愉快なことはない。

 ボウズだったと答える代わりにささやかな言い訳をした。

「いやあ、だめだめ。やっぱり釣りは朝まずめに行かなきゃ。日が昇ってからこんな年寄りに釣られる魚なんて、よっぽど腹の空いたハラペコバカウオですよ」

 半分はタクシー運転手の受け売りだった。

「朝まずめ、ですか?」

 清治は、支配人が魚釣りをしないのを読み取った。もういいやという顔をしてエレベーターに向かうと、あとを追ってきた。

「岡谷さん、ここでの生活が一年半を過ぎましたけど、何か私どもの方でお聞きしておくことなどございませんか?今日の午後は時間の余裕がありますので、私でよろしければ、ゆっくりお話を伺えますが」

 清治は藪から棒にそんなことを言われて困った。ホームに入居して一年が経過したころには、入居当時の不満や愚痴は頭の中で真っ黒に塗りつぶされていた。塗りつぶす前に何が書いてあったのかを思い出すことさえ億劫で、ホームで「してくれることとしてくれないこと」を書面よりも経験的に理解し、その範囲内で日々を過ごしている。

 どうせならもっと早く声をかけて欲しかったと思いつつ、せっかくのお誘いを断るのも大人げないので受けることにした。

「じゃあ、一時五十分からにしていただけますか?」

 多忙だと言わんばかりに勿体つけて中途半端な時間を指定した。我ながら嫌な性格だと横に目をやった。

 清治は時間通りに一階応接室のドアをノックした。支配人はニコニコして部屋の中に招き入れた。重厚感のある黒いテーブルと革張りの焦げ茶の椅子が大事な客人をもてなそうと待機している。

 深く腰掛けて壁の絵に目をやっているうちに、事務職員がコーヒーを運んできた。街の喫茶店と比べて、ホームの顔馴染みの職員が出してくれるコーヒーのほうがはるかにおいしそうに見えた。砂糖少々とミルクを入れてかき混ぜ、無言でコーヒーカップを口に運んで相手の出方を伺う。

 支配人はブラックが好みのようで、そのまま飲んでいた。

 こうして差し向かいに座るのは入居後初めてだった。支配人はダークグレーのスーツに、ネクタイはネイビーの無地を合わせていた。面長で鼻が高く、黒縁の高級メガネが聡明な印象を引き立てている。左から分けた髪には白いものが多少混じっていた。

 対する清治は長袖のチェックシャツに黒のチノパンだ。ひげは三日に一回剃る程度に伸びている。老眼鏡の奥にある鋭い目つきが元社長の貫禄を漂わせていた。お互いに隙はない。

 清治は自分から相談することなど一つも準備してこなかった。支配人は支配人で清治から話が出るのを待っていた。二人はその後も交代交代にコーヒーを飲んだ。囲碁の長考のようで、どちらからともなく「ハハハ」と笑った。

 このごろ、ホームで運営上のミスが頻発している。最上階にある展望大浴場の浴槽からお湯が階下に漏れたり、管理費の請求明細にミスがあったりで、ホーム側は平謝りの連続だった。

 いったん守勢に回ると、入居者が疑心暗鬼になって運営がきつくなる。清治は、次の問題が起こる前に、入居者一人一人との関係を構築しようとしているのかと邪推した。もしそうであれば、自分に声がかかった理由が分からないでもなかった。

 入居契約時に渡された任意提出の経歴書には細かなことまで書く欄があった。担当の事務職員からは、「個人情報なので任意で結構です」と言われた。清治は考えた末、都市銀行へ入行後、支店長や海外勤務などを経て、入居の二年前に子会社の社長を辞めるまでの詳細を隠すことなく記入した。

 そうすることで高級有料老人ホームに入居するにふさわしい人間であることをアピールしたかったからだ。それが、ホーム側から押さえておくべき人物として判断される材料になったのだとしたら、間違いなく藪蛇だった。

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