第7話 田代との出会い
三日後の水曜日、清治は朝食を済ませて一階に降りた。玄関には予約した時間より早くタクシーが来ていた。乗ると同時に、「海釣り公園まで」と告げた。高齢の運転手は手ぶらの清治に問うてきた。
「釣り場の見学か、または、貸し竿でのサビキ釣りですか」
清治は景色を眺めるだけなら見学という手もあることを知った。少し迷ったが心は決まっていた。
「釣りなんです。若いころを思い出しましてね」
「それなら、この時期はイワシ、アジ、サバ、コノシロ、サッパなどが釣れますよ。お楽しみに。でも、本格的にやるんでしたら、こんな遅い時間からじゃだめですよ。夜明けから日の出までの朝まずめを狙わなきゃ」
運転手は残念そうにルームミラーで清治の顔を覗いた。
「ずいぶん詳しいんですね。よく行くんですか?」
「ええ、釣りは私の唯一の趣味でしてね。若いころは伊豆の下田や沼津方面まで、ずいぶん遠征したものです。初心者はサビキ釣りでも面白いですけど、そのうちルアーを投げてみたくなると思いますよ」
「ルアーって、魚の形をした硬い疑似餌のことでしょ。聞いたことはあります」
運転手は一瞬戸惑った。
「お客さん、ルアーにはエビやカニの形をしたものもありますし、ソフトタイプもあります。ちなみに、サビキの針についているサバ皮やピンクスキンも疑似餌なんですよ」
タクシーは踏切を通過して二分で目的地に着いた。
「帰りにまた迎えに来て欲しいんですけど、どこに電話すればいいですか」
料金を払ってから尋ねた。
「ここに電話してください」
運転手は名刺を取り出して清治に渡し、「大漁を祈ってます」と言ってドアを開けた。
清治は受付の自販機で入場券を買った。六十五歳以上は割引があった。続けてリールの付いた竿を借り、売店で仕掛けやコマセを購入する。一連の流れをなんとなく覚えていた。海に落ちないことを祈って、ライフジャケットは借りなかった。
桟橋に下りて千葉側に進んだ。東京湾を臨む方に釣り座を決め、竿を置く。
「今日は波が荒いね」
隣で竿を出していた男が馴れ馴れしく話しかけてきた。白のポロシャツを着て茶色の野球帽を被っている。どこか懐かしさを感じさせる顔付きだった。
「さようでございますね」
清治は丁寧に答えようとしただけだった。いつの間にか染みついた慇懃無礼な言い回しが必要のない時に出て来た。その男との会話にはそぐわないことを直感して冷や汗をかいた。幸い相手はなんとも思っていないようで助かった。
釣り道具が入ったビニール袋を欄干に縛り付けて、あらためて男の顔をしげしげと見た。遠い昔にここで会ったような気がしてならない。
前に家族で来たのは四十年も昔のことなのに、何度繰り返し見ても日に焼けた四角い顔に乗った茶色の野球帽の風貌は、右頬のアザの有無を考えなければ、あの日のあの男そのものだった。だが、本当にあの男に会うならばタイムカプセルに乗るしかないのは分かっている。
「どうですか、釣れてますか?」
清治は良い返事を期待して問いかけた。男はしきりと桟橋の左右を見回してから口を開いた。
「今日はショボいんだよ、この辺りは。木更津側のほうが食いがいいようだな」
清治は「そうなんですか」と言って、恨めしそうに前方の海を見た。すると、昔見た風景に東京スカイツリーと東京湾横断道路が加わっているのに気が付いた。
自分のいた銀行の本店は東京スカイツリーの左手奥だろうと見当をつけた。かつて、多喜子が指を指して宏也に教えていた姿が目に浮かんだ。
清治は釣れないのを覚悟の上で共用のバケツに海水を汲み、仕掛け作りを始めた。釣り糸の結び方は前の晩にネットで研究しておいた。仕掛けを作ってコマセをカゴに入れた。準備万端。スルスルと海底に沈めた。
横に這わされた鉄のパイプに竿の上部を置いて一仕事終えた気分になった。禁煙する前ならタバコを一服するところだった。代わりに自販機で購入しておいた缶コーヒーのプルトップを引いた。一口飲んだだけで心が和む。安っぽいコーヒーでも、取引先に気を遣いながら飲んだドリップコーヒーよりはるかにおいしかった。
「だめだ。こっちまで群れが回って来そうにない。今日は小潮だし、あんまり動きがないからな。俺はあっちへ移動するよ」
隣の男が木更津側を指さして言った。海釣り公園は自由席なので、空いていればどの釣り座で釣ろうと勝手だった。清治は、移動すると聞いただけでその男が海釣り公園を熟知している常連に思えた。
せっかく釣り始めたところだったが、この場所で釣るより良さそうな気がして付いていくことにした。歩いて行く先に、横幅が丸々と太った大型貨物船が停泊していた。東京湾から出たらどこの海へ行くのだろう。気持ちが高揚して釣りには関係ないことまで思い描いた。
移動した釣り座付近は食いが活発で、何人かの竿がビクビクとしなって獲物を持ち上げていた。
男はさっそくカタクチイワシを釣り上げた。
「やっぱりこっちに来て正解だったな」
ニンマリして釣りバケツに入れているところへ、清治がいきなり話しかけた。
「突然ですみませんが、あなたにそっくりな人に、一度お会いしたような気がするのです。しかも、ずっと昔に」
男は、「えっ?」と言って清治の顔を見上げた。怪訝な表情で首を傾げ、すぐに視線を戻した。清治はついつい失礼なことを言ってしまったと恥じて頭をかいた。
罪滅ぼしも兼ねて、魚釣りは生涯二度目で右も左も分からないと正直に話した。年を訊かれ、隠すことなく七十二歳だと答えた。尋問を受けたわけでもないのに、岡谷という名前まで教えた。
男は思ったより気さくで、なんの垣根もなく話が弾んだ。名前は田代栄輔。清治より三歳年上だった。地元で二代目の蕎麦屋を経営しており、長年、町内会長をやらされていることなどを話して屈託なく笑った。人当たりが良い理由はそれで分かった。
「じゃあ、これから岡谷さんは、岡ちゃんだ。そう呼ばせてもらうよ。俺のことは栄ちゃんでいいよ。年の上下に関係なく、みんながそう呼んでるから。おっと、岡ちゃん、竿をよく見ておかなきゃ」
清治の竿の穂先が海に向かってグイグイ引っ張られていた。慌ててリールを巻くとサビキにイワシが六匹も食い付いてピクピクしている。
「おっ、イワシの鯉のぼりだよ」
田代は自分のことのように笑みを浮かべた。




