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第22話 クロダイ釣り

 時は過ぎ、清治が夏の暑さを部屋のエアコンで凌いでいるうちに、いつの間にか九月になっていた。

 清治は七十歳を過ぎてからの時の流れを異常に早く感じていた。終わってみれば現役時代もあっという間だったが、その時代は振り返れば必ず節目があった。銀行の命運をかけたプロジェクトのマイルストーン、人事異動、海外赴任、子会社への転籍、粉飾の後始末。

 それに対し、退職後を顧みると鮮明に記憶に残る出来事が少なすぎた。自分が主体的にしたことを近い順から思い出してみた。妻の墓参り、「そば処たしろ」訪問、魚釣り、ホームでの葬儀参列、それ以前はグランドライフビューへ転居した一昨年の四月まで遡る。さらに言えば、この先も全く予定がなく、無味乾燥な日々が待っているだけだった。

 そうだ、楽しく時間を潰しているグループがいた。今年の初めまでちょこちょこ行っていた「そば処たしろ」へ顔を出してみよう。

 清治は田代に電話をして、

「次の木曜日の十五時に、店にお邪魔してもいいですか」と訊いた。

 電話の向こうから、

「もちろんいいけど、その前の日に海釣り公園に行こうよ」と誘いを受けた。

 清治に断る理由はなかった。

 九月第二週の水曜日は曇りで朝から風が出ていた。田代は清治にクロダイ釣りの醍醐味を味わわせてやりたくて、それ専用の竿と仕掛けを用意してくれていた。

「いいか、クロダイは橋脚についた貝やカニを食べに寄ってくるんだ。そこを狙って針に青イソメを一匹つけて流してやる。おもりはいらない。釣り糸と生き餌の重みだけで海中をうまく漂わせるのがコツなんだ。潮の流れがあるからそれを早く掴んで、餌を橋脚から離さないことだ。一か所でダメなら粘らずに次の橋脚に移ればいい。ただし、他の釣り人の竿や道具を踏まないよう、気を付けなきゃいけないよ」

 田代は清治用のタモ網を置いて、一人で千葉側へ歩いて行った。

 清治は言われた通りにできるかどうか不安だった。まずは近場で始めることにした。餌を落とすといきなりググっと食ってきた。

「どうしよう、どうしよう。師匠、助けてよ」

 ドキドキしながら竿を立ててリールを巻く。糸の緊張が極限に達した瞬間、引きが消えた。ばらすとか、ばれるとかはこういうことを言うのか、と脱力感の中で知った。

 少し経って一匹釣った田代が戻って来ると、清治が放心状態で座り込んでいた。訳を聞くまでもなかった。清治に貸した竿の仕掛けが壊れている。

「それが、強い引きがあってびっくりして巻いたら、糸がキンキンに張って魚が逃げちゃったんです」

 田代は真っ先にリールを疑った。自分が貸したリールだが、しばらく調節していなかったのを思い出した。睨んだ通り、糸の張りを調節するドラグが締まり過ぎている。緩め過ぎないよう、適度な加減が必要だった。

 ドラグを緩めると、強いアタリの場合は自動的に糸が出て、魚の引きに耐えることができる。

 もう一つの利点は魚を泳がせて弱らせることだ。清治は田代にもう一度仕掛けを作ってもらい、一緒に釣り場を動くことにした。時計台近くで仕掛けを下ろすと、一分もしないうちに田代の竿にアタリがきた。

「岡ちゃん、竿を置いてこっちへ来なよ」

 否応なしに田代の竿を手渡された。ググググっという力強い引きだ。柔らかい竿の先端が激しく曲がり、リールの糸がギイギイと音を立てながら引き出されていく。これぞ魚との格闘だ。

 しばらく楽しめるものと喜んだところへ、「魚はすぐ下まで来てるから、ゆっくり海面まで巻きあげて」と声がかかった。田代が強風の荒波の中にタモ網を入れて捕獲した。クロダイだった。その後、師匠だけが二匹釣って納竿となった。

「よし、明日はみんなに刺身を振る舞ってやれるぞ。これが大好きだったあいつにも食べさせてやりたかったなあ」

 田代の心の中には、狙った獲物が釣れた喜びと寂しさとが入り混じっていた。


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