第21話 妻の墓参り
二月になった。市原市は滅多に雪が降らないものの、やはり太陽の出ない日は昼間でも寒い。清治はベランダに出ようと窓を開けた。寒風が温められていた室内を一気に冷やしていく。フェアウェイには茶色に変色したままの絨毯が延々と敷かれていた。
宏也は時々電話をかけてきた。求職活動は予想外に厳しいらしく、いまだに無職のままだった。清治は就職が決まるまで自分の部屋で面倒をみてやりたかったが、ホームでは契約者以外はたとえ身内でも、一か月以上の同居はできない決まりだった。
清治がお金のことを心配して尋ねると、退職金と失業保険とで当分やっていけるから大丈夫との返事があった。
宏也は電話のたびに同じことを訊かれて閉口していた。
「父さん、呆けるにはまだ早いよ」と電話を切ったあとで毎回繰り返していた。
翌三月に入ってすぐのことだった。宏也から吉報が届いた。母校の高校教員に採用され、野球部の監督に就任することが決まったという。
「良かったな。おめでとう。しかし、厳しい指導をし過ぎて野球部員を怒鳴ったりしちゃだめだぞ」
そんなことを言われても、宏也の監督としての目標は、チームを鍛え上げて甲子園に選手を連れて行くことだった。
「なんだよ、いきなり。俺の夢を諦めさせないでくれよ。一番になれと厳しく育てられた昔と話が違うじゃないか」
宏也は就職が決まったことによる安堵からか、遠慮なく胸のうちをさらけ出して笑った。
「何がおかしいんだ?」
そう言いながら、清治も腹から息を出すようにして笑った。昔は厳しく言っていたのを認めないわけにはいかなかった。
「去年の秋に、俺がパワハラで処分されたことを打ち明けに行った日から、父さんは突然優しくなったよな。誰か、別の人と話をしてるみたいだよ」
宏也に言われた通り、清治は昔とは違う自分を感じていた。次の言葉が浮かばず、だんだん照れ臭くなってきた。
「じゃあ、元気で頑張れよ」
宏也を励まして短い電話を切った。
清治は多喜子の遺影に宏也の再就職の報告をした。遺影の横には記念写真があった。海釣り公園で、三人で撮ったものだ。多喜子の弾けるような笑顔が再就職を祝っていた。
切ったばかりの電話をかけなおした。
「宏也、言い忘れた。今度、一緒に母さんの墓参りに行かないか。もう長い間墓地の掃除に行ってないしな。俺は毎日が日曜日だからいつでもいい。そっちはお彼岸の予定とかはどうだ?」
春分の日の午後、二人は都内の霊園にある岡谷家の墓の前で待ち合わせをした。清治がお供えの花や線香、手桶、ひしゃくなどを持って着いた時には、それらはすでに用意されていた。宏也がチラッと清治を見上げた。しゃがみ込んで短い雑草を抜いている。
「宏也、早かったな。思ったほど草は生えてないようだ。墓石も汚れてないし。お寺のほうで掃除してくれてるのかな」
清治は満足気に墓を眺めたあとで、両隣の墓が荒れているのに気が付いた。
「俺が年に何回か掃除しに来てるんだ。母さんが死んでから、毎年」
宏也は当然のことのように言った。
「そうだったのか、すまなかったな」
清治はひしゃくで墓石の上から水をかけた。花を供え、線香に火をつけて線香皿に置く。清治がここにお参りに来たのは、一周忌、三回忌、七回忌だけだった。
自分が仕事人間だと分かってくれている多喜子なら許してくれるだろう、と勝手に甘えていた。
「今からでもいいから、父さんも母さんを大事にしてあげると、天国で喜ぶと思うよ」
「そうだな。その通りだ」
清治は柔和な目をして言った。墓誌に刻まれている多喜子の名前を見て、知り合ったころのことを思い出した。
「母さんは、なかなかの美人だったんだぞ」
宏也はきょとんとした。やにわに何を言い出すのやら。
「顔が丸くて、タレ目でな。俺の好みにぴったりの女性だったんだ。しかも気立てが良くて……」
宏也は清治の告白を聞いて、自分のことのように頬を紅潮させた。
「え?母さんの方からって聞いたよ。昔、母さんに」
つい成り行きで言ってしまった。
「それはそうなんだけど、実は、俺のほうが早くから惚れてたんだ」
「母さんに言ったことあるの?」
「あるわけないだろ。そんなの当時の俺が言えるもんか」
「父さんのバカ!」
清治は生まれて初めてバカと言われた。
多喜子に大腸がんが見つかったのは、清治が転籍したばかりの子会社で粉飾決算の後始末に追われているころだった。財務担当の取締役は、経営不振による前社長からの指示だと言い逃れをし、専務を始めとして役員のほとんどは知らぬ存ぜぬを通した。
清治は無責任な役員や、あぐらをかいている部長たちに怒髪衝天し、
「会社のために粉骨砕身の覚悟で取り組めない者は、今すぐこの場から去れ」と申し渡した。
銀行時代と同じく、転籍後も鬼のような仕事人間を通した。そのせいか、清治に仕事以外のことで相談する部下は一人もいなかった。
結局、粉飾の処理に関しては、最終的には孤軍奮闘に近い形で関係当局やマスコミに対応し、会社に近いホテルでの泊まり込みが続いていた。
ある日、宏也がトイレに鮮血が付着しているのを見つけた。嫌がる多喜子を無理やり病院に連れて行った時には、すでに末期だった。多喜子は、清治に深刻な病状を伝えないよう、宏也に厳命した。
結局、清治は一回しかお見舞いに行かず、次に病院に向かったのは亡くなった日だった。
「宏也も母さんとの思い出がたくさんあるんだろう。俺が先に白状したんだから、お前も教えてくれないか。今の俺なら、じっくり聞けそうな気がするんだ」
宏也はいまさら遅いだろうと思いつつ、母親の姿を思い浮かべながら話し始めた。
中学時代に野球部に入ったのを父親に隠してくれたこと。不登校になって打ちひしがれていた自分を励まし続けてくれたこと。大学野球で首位打者が確定した日に寮にお祝いの電話をくれたこと。プロ野球選手になると決まった時、一緒に仏壇に手を合わせて喜んでくれたこと。広島カープの二軍宿舎に毎月励ましの手紙を送ってくれたこと。意識が無くなる前に、自分らしい生き方をすればいいんだよと手を握ってくれたこと。
すべて、清治の知らないことばかりだった。宏也は母親の墓前でそこまで話すともう限界で、大粒の涙が頬を濡らした。
「お前の体も心も、全部母さんが育ててくれたんだな」
清治は嗚咽を漏らした。自分とは正反対の無償の愛が胸に染み入った。
「多喜子、何もかも、本当にありがとう」
震える手で線香に火をつけた。
「父さん、さっき自分で線香をあげたばかりだよ」
宏也が涙交じりの声で言った。




