第19話 そば処たしろ(自己紹介)
店の定休日と土日祝日以外は毎日集まっているというのに、全く途切れそうな気配がない。その場を仕切っているのは最長老の小西だった。頭髪は真っ白なオールバックで、やけに眉毛が黒い。迫力ある風貌が睨みを利かせているのか、人の悪口を言って憂さ晴らしをすることは一切なく、初参加の清治も居心地が良かった。
彼らの中に、耳に手のひらを当てて話を聞いている色の白い男がいた。皆が笑ったのに合わせようとして少し遅れて笑っている。見た印象では、何がおかしいのか分からずに頬を緩めているように思われた。
誰も彼に話しかけたりはしない。それでも人懐っこい表情で本当に愉快そうにしていた。時折話が聞こえるのか、手を上げて口を挟むことがあった。彼の話が終わると、必ず誰かが大きな声で返事をし、話題をつないだ。
田代は清治の斜め左、議長席に座っていた。
「あの人は、サンちゃんっていうんだ。若く見えるだろ?あれで、もうすぐ七十なんだ。びっくりするよな。長い間パチンコ店で働いていて、次第に耳が悪くなったんだって。お察しの通り、話は半分も聞こえちゃいない。声を大きくして二人で話し込んだことがあるんだが、職場でパワハラを受けたことがあるそうだ。一生懸命働いていただけなのに、それが気に入らない先輩がいたようでね。まあ、よくあるいじめだね。だから、嬉しいんだってさ。こんな和やかな場に参加することが」
田代は誰にも聞こえないように清治の耳元で言った。清治はパワハラと聞いて胸が騒いだ。だが、サンちゃんは被害の傷跡を微塵も感じさせず、難聴を理由に皆に迷惑をかけている様子もなかった。
「栄ちゃん、良ければ、そこにいる人を紹介してくれないか?」
真ん中にでんと座っている小西がせっついた。隣にいる眉毛の薄い得ちゃんも同調して首を縦に振っている。田代は、どうするかと清治に目で訊いてきた。それじゃあ、と軽く頷いて立ち上がった。
「みなさん、はじめまして。岡谷清治と申します。年は七十二歳、来月の十二月で七十三歳になります。妻を亡くし、市内のグランドライフビューという有料老人ホームで暮らしております。職歴は、長年にわたり都市銀行の支店長などを歴任し、ニューヨーク駐在を経て、最後は子会社の自動車関連企業で代表取締役を務めて退任しました。田代さんとは市原の海釣り公園で親切にしていただいたご縁でお付き合いが始まり、ここで楽しいお喋りの会があるとお聞きして、本日初めて参加させていただいた次第です。どうぞよろしくお願いいたします」
清治は正面の右から二番目に座っているサンちゃんを意識して、端っこの席からでも聞こえるよう、腹に力を入れて話した。頭を下げて着席すると、一同から羨望のまなざしを向けられた。
サンちゃんが最初に声を出した。
「へー、岡谷さんて、社長さんだったんですか。そんな立派な方にお会いできるなんて光栄です。サ、サイン、いただけますか?」
色紙を出す振りをして目が笑っていた。清治はサンちゃんが緊張をほぐそうとしてくれているのがありがたかった。「いえいえ芸能人ではないですから」と手を横に振って恐縮したところへ、サンちゃんの向かいでビールを飲んでいた鼻の穴の大きい男から質問が飛んで来た。
「都市銀行って、大都市にだけある銀行のことだろ?俺なんか、入ったこともないよ。しかも、支店長だったんだからすげーな。巨額の融資とかしてたの?」
彼は呉服屋のご隠居で、名前は大崎だと田代がこっそり教えてくれた。道理で和服姿がよく似合っている。
「それより、グランドライフビューって、お金持ちしか入れない超高級老人ホームでしょ?いったい、いくら払えば入れるのかしら」
さきほどお茶の世話をしてくれた紅一点だった。質問が次から次へと飛び交っているが、どれも関連性がなかった。
「まあまあ、吉江ちゃんまでも一緒になって。みんな、バラバラに質問を浴びせるから困ってるじゃないか。ねえ、岡谷さん」
助け船を出してくれたのは小西だった。実のところ、清治は本当に困っていた。どの質問にどう答えるかについてではなく、相手に馬鹿にされないよう、つい経歴をひけらかしてしまったことの後始末をどうつけるかについて困っていた。
退職してずいぶん経つのに、まだ昔の癖が抜けていない。ここに参加する人の職歴などを詳しく聞いておくべきだった、と後悔しても後の祭りだった。
「なあみんな、ちょっと聞いてくれないか。一昨日、ここにいる岡ちゃん、いや、岡谷さんは、海釣り公園でF六の太刀魚を釣ったんだ。全長百二十五センチだぜ。長年釣りをやっている俺だって驚いたよ」
田代が清治の堅い印象を和らげようと話題を変えた。
「なんだ、岡谷さんって庶民的な趣味を持ってるんじゃないか。しかも、腕がいいんだな。F六なら、まさしくドラゴンだ。かつて、栄ちゃんの親父さんがF五を釣って自慢してたのが目に浮かぶよ。釣り場では、いつも茶色の野球帽を被ってたよな」
先代とよく釣りに行っていた最長老の小西が、鴨居にかかった写真を見上げて言った。
清治がその写真を見た瞬間、持っていた冷酒のお猪口が手から滑り落ちた。田代が酒で零れたテーブルを慌てて拭いた。
「どうかしたかい?」
「い、いえ、あの右頬のアザに見覚えが……」
ちょうどそこへ、頼んでおいたタクシーが到着した。
「もう帰るのかい?もっとゆっくりしていけばいいじゃないか」
ほろ酔いのご隠居が小鼻を膨らませて引き留めた。
「またいつでも遊びにいらっしゃい」
こぞってかけてくれる声が清治の耳に優しく響いた。




