第15話 青潮
田代と約束の水曜日が来た。清治は午前三時に目が覚め、それ以降は一睡もできなかった。新品の釣り道具で師匠の田代と一緒に魚釣りをする、と想像しただけで脳が冴え渡り、まぶたが閉じなくなったのだ。
「岡ちゃん、今日はだめかもよ。台風で大量の雨が降ったんで、養老川から濁った泥水が入ってくるからな。それに、青潮が発生しているらしいし」
迎えに来た田代が開口一番に言った。釣りの上級者は事前の情報収集が早い。結果をその日の運と決めつける清治とは、釣りに行く前の姿勢から異なっている。だいいち、釣り道具が新しければ釣れると期待するほうが甘い。
真っ暗なうちに出発したのに、現地に着くころには薄明るくなっていた。入場を待つ列に並んで、スタッフから三十七番、三十八番の入場整理券をもらった。やがて凛とした夜明けが開場を知らせた。
二人並んで釣り座を確保し、清治が仕掛けを作って海に投入したときには、田代はすでにカタクチイワシを八匹釣っていた。とにかく釣ったあとで再度仕掛けを投入する手際が良い。清治が感心して見ているのに気がついて、「これを手返しの速さと言うんだよ」とはにかんだ。バケツの中の魚は早くも二十匹を超えていた。
空がみるみる明るくなってきた。二日前に房総半島を襲った台風が嘘のような秋晴れだった。天気予報では風速七メートルと出ていたのに、ときおり吹き流しが横を向くほどの強風が吹いて白波が立ち始めた。
「やっぱり青潮はだめだね。酸欠で死んだシーバスが流れてきたよ」
清治の眼下に横向きの魚が浮いていた。ひれがぴくりとも動かない。青潮は生物兵器のように恐ろしいものに思えた。
「本当に酷い潮なんですね。せっかく早起きして朝まずめを狙ったのに」
清治は青潮の詳しい意味は帰ってから調べることにして、泥水が混じった海を恨めしそうに見つめた。風速はあっという間に十五メートル近くになり、田代の野球帽が飛ばされそうになった。
ほどなくして本日の営業は中止との放送が流れた。
「まあ、潮もそうだし、この風じゃあしょうがないよなあ。諦めるとするか。でもなあ、俺みたいな商売人は定休日しか来られないんだから」
田代は波の荒い沖合を睨んだ。大型の貨物船が白波などものともせずに悠然と進んでいた。「ちくしょう」と一言叫んで六本針の仕掛けを外し、納竿をしてからバケツの中に目をやった。
「これくらいの数なら海に返してやりたいところなんだけど、死んじゃったやつは持って帰るしかないしなあ。しばらく店の冷凍庫で眠ってもらうとするか」
バケツの底に、横になって動かないカタクチイワシが何匹もいた。清治はかつて聞いた話だと思いつつ、新品のマイ釣り道具を片付けるのが忙しくて受け流した。
二人は翌週の夕暮れ時を狙って出直すことになった。清治は一週間後に田代に再会できることが無性に嬉しくて、七十二歳になってようやく真の友を得たという実感が湧いた。
その日の夜、宏也から電話があった。受話器から聞こえてくる生き生きとした声が、会社に辞表を出したと報告した。
清治は、それもありだなと独り言を言って、サイドボードからお気に入りのワイングラスを取り出した。寝不足と疲れのせいか、ソファーに座って一杯飲んだだけでまどろんだ。




