第14話 抜け落ちた牙(きば)
宏也は竿の穂先から目を離さずに言った。
「実は俺、部下にパワハラで訴えられたんだ。そいつ、全然仕事ができないくせに、理屈ばかり並べる奴でね。つべこべ言わずに仕事しろ、と皆の前で大声を出したら、相談窓口へ飛んで行きやがって」
小川のせせらぎがチョロチョロと聞こえていた。
「俺は本当に頭にきてたから、上司にたしなめられても、奴にだけは頭を下げる気にならなかったんだ。そのままにしていたら、俺のせいでうつ病になったと言って会社に診断書を提出してきやがって。三か月の自宅治療を要す、だって。俺は謝罪文を書かされた上で出勤停止処分になった。この前、父さんに電話をした日のことさ」
清治は宏也を慰められるものなら慰めたかった。自分もできの悪い部下に何度罵声を浴びせたことか。部下の歓心を買うことなど考えたこともなかった。成果を上げることこそが会社のためであり、自分のためであり、また、彼らのためでもあると割り切って、私情を挟むことなく徹底的に鍛え上げた。
それができない上司は管理職失格だとさえ思っていた。ただ、今と違う点と言えば、当時はうつ病という病が顕著ではなかった。社員は家族を養うためにひたすら我慢したか、仲間内で飲んで上司の悪口を言い合って消化したか、辞めたかのいずれかだった。
だが、もう世の中が変わってしまったのだ。現代はパワハラ、セクハラ、マタハラなど、ハラスメントだらけだ。宏也は部下を持つ身なら分かっていたはずなのに、よほどできの悪い相手だったのだろう。たとえそうであれ、会社から謝罪文を書けと言われれば、従わざるを得ない。
息子の辛い思いを察すると胸が痛かった。
清治が我に返ると、傷ついた息子を前にして、無力でしかない自分がいた。
助言できることなど何もなく、ぽつりと言った。
「大変だったな」
宏也は会社から処分されたことを清治に伝えておこうとは思ったが、もう子供ではないのだし、かつてのように上から目線であれこれ言われるのが嫌で先延ばしにしていた。話をしに来る気になったのは、ベッドに入ったときに小さいころの思い出が頭に浮かんだからだった。
「父さんは、昔、海釣り公園で思い切り頭を撫でてくれたよね。あれは、俺が初めて釣った魚をバケツの中で触って喜んでた時のことだった。俺は、あのときの優しかった父さんのことを忘れてないよ。どんどん昇進して性格がきつくなっていった父さんより、魚釣りに連れて行ってくれた、あの日の父さんが一番好きだった」
宏也は会社の処分が骨身に染みたのか、かわいそうなほど憔悴していた。昔の清治ならそこは思い切り鞭を叩いて、男がいちいち凹んでてどうする、しっかりしろ、と追い返したかもしれない。けれど、もうそういう気にはならなかった。
支配人に言われたとおり、自分に染みついた上乗せの嫌な性格を無理に削ぎ落とそうとしたからではない。かつての鋭い牙は自然に抜け落ち、残っているのは、純粋に我が子を思いやる気持ちだけだった。
「ああ、そんなことがあったよな。よく覚えてる。童心に帰って楽しかったからな。俺は、家族のことより仕事を優先させてばかりで、本当に悪い父親だった。許してくれ」
宏也は、清治からそんな言葉が聞けるとは思いも寄らなかった。ずっと傲慢だった父親の影が薄れ、あの日の優しさに抱かれた気がしてむせび泣いた。
清治は、自分になぜ人望がないのかを宏也の光る涙が教えてくれた気がした。辛辣な言葉を浴びせ続けた日々。一定の成果によって彼らを大いに褒めたり、心の底から慰撫したりすることなどなかった。
今からでは取り返しがつかない。絶望の淵に立っている自分が偉そうなことを言えるはずもないが、してやれることはあると気がついた。それは、宏也の思いをとことん聞いてやることだった。
「しばらく俺の部屋に泊まっていけばいいさ。時間はあるんだろう?」
宏也は三泊したあとの早朝、清々しい顔をしてアパートへ帰って行った。
ちょうどその日の午後、台風が房総半島を直撃した。




