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第13話 息子の来訪

 翌日、木曜日の夜遅く、清治のところへ宏也から突然電話がかかってきた。明日話をしに来たいという声が沈んでいた。

 二人は何年も会っていなかった。前回連絡を取り合ったのは、一年半前に清治がグランドライフビューの契約に際して身元引受人を依頼したときで、郵送による契約書のやり取りだけで済ませていた。清治は何事かと気を回したが詳しくは訊かず、いつでも大丈夫だと返事をした。

 宏也はプロ野球の広島カープに入団後、一軍と二軍を行ったり来たりでレギュラーにはなれなかった。それでも一度だけ満員の巨人戦で代打サヨナラホームランを打ったことがあって、ファンの記憶に残る選手として引退した。

 七年間の現役生活を終えて、引き続き球団職員として残る道はあったが、同期入団の選手が華々しく活躍する姿を見るのは耐えがたかった。自らの意志で東京の実家に戻り、野球とは関係のない職業に就いた。母親が死んでからは自分でアパートを借りて一人暮らしをし始めた。

 もう四十代後半になるというのに、いまだに独身だった。選手時代に恋に落ちた相手は、宏也の引退が決まるやいなや、さっさと同じ球団の別の選手に乗り換えて結婚した。球団に残らなかった理由としてはむしろそのほうが大きかった。

 心機一転、東京で勤めた新しい職場で親しい女友達ができた。彼女との仲が恋愛関係に発展しなかったのは、別れた恋人の無慈悲な裏切りがトラウマになっていたからだった。

 次の日の早朝、宏也がやってきた。居間に飾ってある母親の遺影に手を合わせてしばらく動かなかった。「いつも応援してくれてありがとう」という声が小さく聞こえた。多喜子の臨終に立ち会ったときは声を上げて泣いていた。清治にはそれがつい昨日のことのように思えた。

 宏也は話したいことがあって来たはずなのに、「父さん、元気だった?」と言ったきり、何も切り出そうとはしなかった。「すこぶる元気だ」と返事をしたあとで沈黙が続いた。清治は話しかけるタイミングを掴みかねるというよりも、何を話せばよいのか適当な話題が頭に浮かばなかった。無理してプロ野球の話をしようとしても、どこのチームが優勝したのかさえ知らない。

 宏也は清治の心中を十分に察していた。早く言わなければと思いつつも、東京の戦場から千葉の平和な楽園へ逃れてきた安堵感にもう少し浸っていたかった。

 柔らかいソファーから窓際に目をやって、「なんだあれは」と叫んだ。壁際に買ったばかりの釣竿が立てかけてある。立ち上がって竿を手に取った。

「この竿、いいなあ。手に持ってるだけで、すごく癒される気がするよ。昔、母さんと三人で行ったよね、海釣り公園。父さんは釣りを始めたの?」

 宏也はかつての尖っていた頃より、物腰が柔らかくなっていた。清治も無意識のうちに宏也に似た口調になった。

「ああそうだよ。たまたま行ってみたら、とても親切な人に出会ってな。そうだ、格好だけの釣りをしてみようか。ホームの北側に小さな川が流れてるから、そこへ行こう」

 清治は釣り道具一式を手に取って、宏也と一緒にエレベーターに乗った。カウンターで裏の小川に釣りに行くと伝えて、玄関から芝生方向へ向かった。途中で後ろからの視線を感じて振り返った。やはり奇異に映ったのだろう。カウンター職員が事務管理室の窓から訝しげな目を向けていた。

 芝生の先に入居者が趣味で楽しんでいる農園があった。蛇行した小川が流れているのは、そこを越えて建物の北側に入ったところだった。

 清治は今まで川べりに来たことはなかった。川の深さは三十センチから六十センチくらいで幅は一メートルから三メートルだった。小さなサワガニが浅瀬の岩の間を動いているのが見えた。川面近くをすばしっこく泳いでいるのは小さなハヤだった。

 二人は腰を下ろすのにちょうど良い平らな岩を見つけた。一つは清治の好きな丸い形で、もう一つは四角い形だった。清治が竿を繋いでリールを固定し、器用に糸を結んでサビキの仕掛けを作っていく。宏也は全部済むまで感心して見ていた。

「いつの間に覚えたんだよ」

 言い終わらないうちに、声を出して笑っていた。清治も悪い気はしなかった。竿は空中でサビキの仕掛けを揺らしていた。

「いいから、仕掛けを川に入れてみてよ」

 清治は宏也の要望に応えて、仕掛けを川面からゆっくり沈めた。透き通った水の中でサビキ針が泳いでいる。

「なあ、父さん。父さんは人の上に立つ仕事をしてきて、我慢できないことってなかった?」


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