第12話 竜宮城
十月二十日過ぎの水曜日、田代がいつもの白のポロシャツ姿で清治を迎えに来た。自分の釣竿が欲しくなって田代に電話で相談したところ、二つ返事で昔馴染みの釣具屋に同行してくれることになったのだ。
田代は、清治がロビーのソファーに座っているのを見つけて手を振った。
「噂には聞いてたけど、岡ちゃんの住んでるとこって凄いな。天井から豪華なシャンデリアが吊り下げられてるし」
清治は首を横に振って、「自分が死んでも子供に相続させられない一代限りの借家ですよ」と謙遜した。
向かった児山釣具店はトラックが行き交う国道十六号線から、一本外れた目立たない場所にあった。田代が店に入って、「こんにちはー」と元気よく声をかけた。「よお、いらっしゃい」と店主がにこやかに返した。
清治は田代のあとについてアジングロッドと書かれた釣竿のコーナーに行った。値段は四千円から数万円のものまでたくさんの種類があり、何がどう違うのか見当もつかなかった。おまけに釣り具メーカーに関する知識もない。
店主が悪徳商人なら格好の餌食となり、何年も売れ残っている三流メーカーの品を売りつけられるところだった。田代に相談して正解だったと胸をなでおろした。
「岡ちゃん、これはどうかな。軽いし、竿の硬さもちょうどいい。海釣り公園で使うなら最適だ」
しきりに二万円の竿を勧めている。リールも高そうなものを選んでいた。もっと安いものもたくさんあったが、「やっぱり、いいものはいいよな」とつぶやいた田代の一言で竿とリールは決まった。
店主がレジのそばから出て来て、二人は何やら雑談をし始めた。館山の磯でカンパチが上がったとか、外房の船釣りでヒラメの泳がせ釣りがどうとか、話に夢中になっている。清治はその間に釣具屋の隅々まで見て歩いた。まるで竜宮城だった。何よりルアーの種類が多いのに圧倒された。
魚は疑似餌を本物の餌だと思って食いつくのだから気の毒なことだ。人間って本当に悪い生き物だ。ぶつぶつ独り言を言いながら一周しているうちに、田代がサビキのセットや袋詰めのコマセを多めに揃えてくれていた。クーラーボックスも買うかと訊かれたが断った。魚をホームに持ち帰っても自分で料理などできない。
「栄ちゃん、付き合ってもらったお礼に、何か一つプレゼントしますよ。好きなものをどうぞ」
田代は鍵付きのショーケースの中にある、十万円のリールを右手で指してヒヤッとさせたあと、魚のウロコ取りを手にして戻ってきた。
「じゃあ、お言葉に甘えて、これを」
田代がレジで、「いくらか頼むよ」と店主に声をかけた。「言われなくても分かってるよ」と十パーセント引きにしてくれた。田代が礼を言った後ろで、清治も頭を下げて店を出た。
店の脇にある犬小屋の前に雑種犬が立っていて、表札に「ガウくん」と書かれていた。犬好きな田代が口笛を吹いて、尻尾を振らせたあとで車に乗った。
「岡ちゃんはいいものを買ったよな。大事に使えば十年は持つよ」
田代はエンジンをかけると同時に太鼓判を押した。清治は車がホームに着くまで相好を崩したままだった。
「そんなに嬉しいのかい?まあ、気持ちは分かるよ。すぐにでも釣りに行きたい気分だろう」
田代は清治の心を弄ぶかのように言った。図星だった。翌週水曜日の朝五時にホームの正面玄関で待ち合わせの約束をして別れた。
部屋に帰って、買ったばかりの釣り具を広げてみた。リールにはすでに糸が巻かれている。二ピースの竿を繋いで一本にする。竿にリールを固定して糸をガイドの丸い穴に通していく。
そこまでやるとサビキもつけてみたくなった。仕掛けが完成したあとは釣り糸を垂らしてみたくなる。ベランダに出て外に竿を出した。ゆっくりとサビキを下ろしていると、糸が風で手前方向に押された。
下を覗くと洗濯物に針が引っ掛かりそうになっている。この年になって下着泥棒で捕まりたくない。しかも、下の階は九十近くのおばあさんだ。大急ぎでリールを巻いた。
その日に買った釣り具のセットは、清治の生涯の宝物となった。




