前編 帝都の朝と開戦前夜と戦端
昭和十六年六月――帝都東京の空は灰色の雲に覆われ、朝靄が皇居の森を湿ったベールのように包んでいた。
街路には新聞配達の少年たちが駆け、徴兵検査を終えた若者たちが国防服を羽織り写真館へ向かう。商店街では店主たちが客と声を交わし、ラジオからは対米交渉や南方資源地帯の重要性に関するニュースが流れる。
だが、その平穏な光景の背後には、異常な空気が静かに流れ始めていた。
午前五時二十分。
陸軍省通信室で当直を務める若い少尉が通信盤の異変に気付く。全ての受信ランプが一斉に消灯したのだ。
「……回線、全断か?」
部下が慌てて予備線に切り替えるも、応答はない。
台湾、朝鮮、樺太、満州、南洋群島――帝国の領土全てとの通信が途絶していた。
少尉の背筋に冷たいものが走る。単なる通信障害ではない。外地全域との同時断絶など、前例のない事態だった。
午前五時四十五分。
海軍省からも同様の報告が入る。国内の横須賀、呉、佐世保とは連絡可能だが、外地への回線は完全に沈黙している。
参謀たちは顔を見合わせ、眉をひそめた。
「何者かの妨害か……いや、規模が大きすぎる」
「通信障害の域を超えている……」
陸軍本部地下の暗い作戦室では、戦略参謀たちがすでに動き始めていた。地図が広げられ、各外地に配備された部隊の戦力表が照らし出される。
「台湾、朝鮮、満州、南洋諸島――全て日本領だ。通信は途絶しているが、陸海空の兵力はそのまま存在する」
「だが、情報がない以上、敵か味方かも分からない状態だ」
航空参謀が口を開く。
「偵察機を全機緊急発進させます。南洋群島、台湾、朝鮮、満州、全方位の空中確認を実施します。状況によっては艦隊も待機命令です」
午前六時、横浜港と晴海埠頭では、市民が異変を察して集まり始めた。
遠方の南洋方面に浮かぶ艦影を港湾監視隊の望遠鏡が捉えた。見慣れぬ艦船が太陽を反射して光っている。
市民の間に恐怖が広がる。
「艦が……艦が!」「空が変だ!」
叫び声が港湾施設に響き渡り、民衆の動揺は瞬く間に広がった。
軍人たちは市民を押し戻しながら、港湾と防衛線の警戒態勢を整える。
参謀本部から緊急命令が下る。
「防空準備、空襲想定、即時全機待機。陸上自衛部隊は市街地警戒を強化」
防空警報が鳴り響き、東京中に赤色灯が点灯する。市民は恐怖に駆られ、道路は車や人で溢れかえった。路面電車は停電で立ち往生し、倒れかけた電柱の隙間を縫うように避難する群衆の混乱は、戦時訓練を受けた軍人たちですら制御困難だった。
午前六時三十分、海軍航空隊の偵察機が台湾方面に到達する。
帰投した搭乗員は息を切らしながら報告した。
「陸地は確認しました――台湾、朝鮮、満州、南洋諸島は全て存在しています。しかし、未確認の航空機や艦船が確認されました。現地は安全とは言えません」
参謀が問い詰める。
「敵か味方か?」
「識別符号が一致せず、通信も解析不能です。明確なのは、日本領土として存在するということだけです」
首脳たちは瞬時に悟った。領土は守れる、しかし世界は想像を超えた未知の勢力で満ちている。
午前八時、陸軍・海軍合同で緊急作戦会議が開かれる。
会議室には地図が広げられ、各部隊の動線と作戦計画が重ねられる。
参謀は声を荒げる。
「南洋方面の艦隊には、初期は射撃を控え、航空偵察で情報収集を優先せよ」
「台湾・朝鮮には、上陸を想定した防衛線を展開」
「満州・北部陸軍は鉄道輸送路と通信線の確保を最優先」
同時に、市街地防衛部隊には市民避難の指示が伝達される。
民間ボランティア、警察、憲兵隊、軍警――総動員の指令が飛ぶ。
しかし、情報不足と混乱により作戦は難航。
港湾では、見慣れぬ艦艇に群がる市民、空港では飛行機を見上げる群衆、路上では避難の群れが車道を埋め尽くす。
軍は秩序を維持しつつ、帝国領土防衛を最優先で指揮せねばならない。
午後一時、航空隊の偵察機は台湾沿岸で異様な光景を報告する。
日本の艦隊に似た大型艦船があるが、細部の構造が異なる。砲塔、航空機発着設備、推進機関――我が国の艦艇とは全く違う技術だ。
参謀たちは、艦艇の行動範囲、速度、火力を即座に分析。
「遭遇戦になれば、こちらも未知の兵器に対抗せねばならぬ」と冷静に判断する。
陸軍も南洋群島に上陸している部隊に無線連絡を試みるが、応答は得られない。
通信の復旧を最優先としつつ、陸上部隊は敵性部隊の接近を警戒して陣地構築を開始する。
参謀本部地下室の空気は緊張に満ち、重い。
将校たちは知っていた――
「この世界で生き残るには、戦闘開始以前に情報と戦略優位を確立し、未知勢力に先手を打つしかない」
帝国の領土はすべて存在する。
だが、世界は未知の技術で満ちている。
戦争は避けられない。
国民は帝国時代の価値観を持つ。
国家の命令に従い、戦場へ赴く準備は整っている――
夜が訪れ、東京は赤い夕焼けに染まり、空には未知勢力の飛行体がシルエットを見せる。
市民の恐怖、軍の緊張、帝国領土の確保――全てが重なり、異界の戦争の夜は深まる。
昭和十六年六月十七日、深夜零時を回った東京。
帝国海軍軍令部地下指揮所は、昼間の混乱とは対照的に、張り詰めた静寂に包まれていた。通信機の断続的なノイズ、鉛筆が地図を走る音、そして士官たちの低い声が響く。
「南洋方面、第一哨戒線より報告――未確認艦隊、進路を北東へ変更」
通信士の声に、参謀たちの視線が一斉に集まる。距離二百五十海里、速度は二十五ノット以上。帝国主力艦隊の巡航速度を軽く上回る未知艦。識別符号は一切不明。
陸軍参謀本部でも、外地からの断片的な報告が届く。
満州北部:航空機編隊を確認、高高度・高速
朝鮮南岸:艦影複数、レーダー未配備のため目視のみ
台湾沿岸:艦隊発見、通信不能
参謀長は地図を見つめ、低く呟く。
「世界が我々を見つけた……」
帝国は消えていない。
だが、周囲の世界は未知の技術で満ち、帝国は孤立している。
南洋群島・トラック泊地
帝国海軍第八艦隊は臨戦態勢。
黒い夜の海に艦影が浮かぶ。見張り員が双眼鏡を握り締める。
「右舷前方……光、確認!」
「距離、縮まっている!」
敵艦は角張った艦体、低いシルエット、砲塔配置も我が国の常識とは異なる。
副長が呟く。
「撃つな! 発砲禁止!」
未知の性能を前に、先制攻撃は賭けでしかない。
探照灯が光を投じる。
敵は反応せず、光学・電磁探査のように観測しているだけだった。
台湾上空
帝国陸軍航空隊の九七式戦闘機編隊が、未知の航空機編隊と遭遇する。
速度差、旋回性能、機動力、全てが異常。
追撃は不可能、だが敵は攻撃しない。
ただ編隊を乱すだけで、通信・配置情報を読み取っているかのようだった。
航空参謀は静かに結論を下す。
「敵は戦争の意思を示す前に、我々の戦力を測っている」
朝鮮南岸・港湾防衛線
陸軍歩兵第25師団は港湾防衛に就く。
夜間、港外からの砲撃音と共に、小型高速艇が侵入を試みる。
「防御線展開! 重機関銃、機雷原警戒!」
指揮官の声が冷たく響く。
敵艇は狭い水路を進むが、陣地化した火砲により次々と撃退される。
だが、観測装置の精度は帝国陸軍を上回っていた。
数発の弾は逸れたが、敵は正確に我が部隊の配置を把握している。
外務省・外交戦
外務省臨時会議では、全ての通信回線が途絶している中、各国への電文作成が急がれた。
「我が国は現存する主権国家である。既存領土に対する干渉は即時敵対行為と見なす」
しかし、送信先は不明。
外交官は、各国が帝国の存在を認識し、未知の技術を持つ勢力として警戒していることを想定し、緊張感の中で文言を練り直す。
情報戦と心理戦
参謀本部では、通信傍受班が未知艦隊の電波を解析するも、信号形式は全く理解不能。
「敵は、我々の通信を完全に傍受している」
情報班長は冷や汗を流しながら報告。
同時に陸海空の司令官は、各部隊への命令を何重にも確認し、民間避難との調整も行う。
港では市民が群がり、交通は麻痺。
軍警・憲兵・民間ボランティアを動員しても混乱は収まらない。
それでも参謀は冷静に判断を下す。
帝国の結論
零時五十分、首脳たちは一致した。
「戦争はもはや避けられない。
しかし、開戦形態と時期は、我々の掌中にある」
帝国領土は全て存在する。
だが、世界は未知の技術で満ち、帝国は孤立している。
戦争は必然。
国民は帝国時代の価値観を持ち、国家の命令に従う準備が整った――
夜明け前、東京の街は不安に包まれ、港湾・空港・街路は嵐の前の沈黙に覆われる。
遠く南洋の波間、台湾の空、朝鮮の港湾で、帝国と未知勢力の初接触戦はすでに始まっていた。
昭和十六年六月十八日、午前四時。
帝都東京、防空警報の赤色灯が揺れる中、参謀本部は昨日から続く緊張の極限にあった。
海軍、陸軍、航空隊の各司令官は、これまでの偵察情報を整理し、初めて未知艦隊・航空編隊・小型部隊との直接接触戦の具体策を練る。
「敵艦は依然として南洋方面に展開中。識別不能。戦闘を避けつつ、情報を取得せよ」
海軍参謀が低く命じる。
同時に陸軍本部では、朝鮮・台湾・満州方面の師団に限定的交戦許可が下される。
敵性勢力の接近を阻止し、兵力・装備・配置の把握が目的だ。
攻撃は最小限に抑え、敵の戦術を分析するのが最優先であった。
南洋群島・トラック泊地
帝国第八艦隊は緊張の中、未知艦隊との距離を詰めていた。
夜明け直前、敵艦が艦列を分割し、周囲の海域を測定する動きが見える。
艦長は艦橋で冷静に指示を出す。
「主砲は射界に入れず、監視射撃は待機。小口径砲のみ、必要時に使用」
「航空偵察機、南方に発進。敵編隊の編成と推定装備を確認せよ」
海上の静けさの中、雷撃艇が接近する。
数発の砲火で迎撃するが、敵は奇妙に正確に配置を把握しており、帝国の砲撃は完全に観測されている。
副長が低く呟く。
「……これは戦争ではない、測定だ」
敵の行動は、発砲も攻撃も伴わず、帝国艦隊を包囲し、戦力の実測を行っているかのようだった。
台湾沿岸・空中戦
台湾沿岸では陸軍航空隊が再び未知機と接触。
編隊は速度・旋回性能で圧倒されるが、敵は依然攻撃しない。
観測・牽制・情報収集のみ。
しかし、この間にも小型艇が港湾侵入を試み、機関銃・小口径砲で撃退される。
敵は撤退するが、部隊配置、武器配備、航空戦力の観測は完璧に行われている。
帝国参謀は冷静に分析。
「敵は直接戦闘よりも、我々の能力と反応を記録している」
同時に、台湾・朝鮮・満州の通信網が復旧し始める。
だが、全ての情報は断片的。
未知の勢力は、帝国の情報戦・心理戦の最前線に立っていた。
朝鮮南岸・港湾交戦
朝鮮半島南岸では、小型高速艇による港湾侵入試みが繰り返される。
帝国陸軍歩兵・海防隊は陣地を固め、砲撃・機関銃で阻止。
敵の速度・回避能力は高く、砲撃は完璧に避ける。
部隊長は冷静だが、緊張は隠せない。
「敵の正確性と技術は未知。だが、攻撃は控えよ。目的は我々の反応把握」
港湾防衛線は何度も試されるが、帝国兵は指揮系統に従い、最小損害で迎撃。
民間人は避難を続け、混乱は最小限に抑えられた。
満州北部・航空偵察戦
満州北部では、帝国陸軍航空隊が航空偵察任務に就く。
高高度で飛行する未知機編隊を追跡するが、速度差が大きく、捕捉不能。
しかし、敵機は攻撃せず、帝国機の動きを逐一観測。
地上の部隊からの報告も併せ、参謀本部は初めて、敵は攻撃よりも測定と情報収集を優先していると理解する。
外交・情報戦の同時進行
外務省は全通信網を駆使して、世界各国への警告と交渉文書を送信。
しかし、多くの国は既に帝国を「異質な戦力」と認識し、警戒態勢を強化。
米国・英国:南洋、台湾、朝鮮沿岸での帝国艦隊の動向を注視
ソ連:中国東北部・満州国境警戒
中国:沿岸都市への防衛線強化
帝国は孤立状態ながら、外交文書と軍事観測を同時に行う、極めて稀有な“総力戦初動”を経験していた。
帝国の初戦結論
午前八時。
帝都東京、防空壕と司令部の双方で緊張が続く中、首脳会議が開かれる。
「戦争は不可避。しかし、現時点での戦闘は限定的に抑え、情報収集を最大化せよ」
「未知勢力は、攻撃より測定を優先している。こちらも同様に、被害を最小化しつつ敵の能力を把握せよ」
市民、陸海空の司令官、参謀、外交官――全てが未知と恐怖の中で初戦を戦った。
帝国の領土は無事だが、世界は完全に変化し、帝国はその中心に取り残されている。
夜明け、東京は赤い朝焼けに包まれた。
南洋の波間、台湾の空、朝鮮の港湾、満州の平原――帝国の初接触戦は、戦争の本格的幕開けを告げる静かな戦場であった。




