声を手放した夜
レンガの道を男は早足で歩いていた。
「チ、どいつもこいつも偉そうにしやがって」
カツ、カツ、革靴がレンガの道を打つたび、苛立ちが夜に跳ね返った。
男はその日、湯呑みを職場の給湯室に洗わずに置いていた。いつもには退社時には誰かが洗っておいてくれるのに、今日は男が置いた時のままの姿でずっとそこに居座っていた。
「なんで誰も俺の湯呑みを洗っていないんだ」
男は給湯室から顔を覗かせて、すぐ隣のオフィスにこうやって怒鳴り声を上げる。自分が瞬間湯沸かし器のようだ。
社員は若いのから、定年間際まで(中年はあまりいない)いるはずなのに一様にのっぺりとした目で男を見たような気がした。
「今は、自分で使った湯呑みは自分で洗うんです。コンプライアンス……いや、人として当たり前のことですよ」
最近配置されたばかりの、年下の生意気な上司がこう言った。
男は上司を睨みつけると、湯呑みをゴミ箱に叩きつけて会社から飛び出した。
「イライラする、誰か俺の話を聞いてくれる女はいないのか」
レンガの上で男はキョロキョロする。オフィス街に佇む赤いキッチンカー、店主は……チッなんだオヤジか。
ジジイのくせにコーヒーなんてこまっしゃくれたもの売りやがって。
男は鼻息を荒くして、レンガの上を歩き続ける。
しばらくすると、無機質だったオフィス街の一角にカラフルな空間があらわれた。
「しめた、花屋だ。そこの店員は女に違いない」
男は高揚しながら店に近づくと、そこには背の高い筋肉質な男がいた。その店員は男の視線に気がつくと。
「何か御用ですか? すみません、いま奥で薔薇の棘を抜いてたもんで」
と、話しかけた。
男は、ぶたれたかのようにハッとすると、顔を顰めて何も言わずに走り去った。
そのまま男は街頭の下を走り続ける。
男はひと気のない道を選び、女が一人で歩いていないか探す。
……なあに、俺がそうしてやると女は喜ぶんだ、そういう顔してるだろ。それじゃあ何も悪いことじゃない。
しかし、いくら探しても女は見つからなかった。
「くそ、なんで俺の周りに女がいないんだ」
男は、イライラが達して咆哮を上げる。その叫び声で夜空が裂けてしまったかのようにぽっかり三日月が浮かんでいた。
男は今日も通勤路を歩いている。花屋は開いていない。誰かが香水をこぼしたような匂いだけが残っていた。
オフィスに入ると、なんだか職場の雰囲気がいつもと違った気がした。
机と人数が合っていないような気がする。このオフィスにはもっと人がいたような。
「まあ、いいか」
モヤモヤを抱えたまま、男はめんどくさい仕事に向き合った。
◆◆◆
その時何が起きていたのでしょうか。
男が通りかかろうとしたその時、お父さんと一緒にこだわりのコーヒーを売って、いろんな街を巡り、この味を一人でも多くに届けたいと思っていた娘さんは、眩しいくらいの光の粒になって、空を登って行きました。
空気に乗って小さな水の粒子に変わった彼女は、やがて朝露になってこの街の景色を逆さまに映し出します。
男が、興奮して近寄ろうとした時、花屋の女性主人は花の「香り」になって漂います。
夫である男性主人は、どうして花が好きだったかをどうしても思い出すことができません。
妻はやがて風に乗って遠くの国へ渡り、新しい物質へ生まれ変わるのです。
彼女たちはもう何ものにも傷つけられない姿を取ることに決めたのです。
なぜそんな不思議なことが起きたのでしょうか。
それはきっと誰にもわかりません。
ひょっとすると、彼女たちの集合的無意識がそう囁き掛け、もう傷つけられないようにと手を引いたのかもしれません。
海面をすべる光の粒。朝の霧。風に転がる落ち葉のざわめき。
それらすべてが、かつて誰かがいた証だと気づく者は、どれほどいるでしょうか。
〈了〉