9.
あの日を境に、パパの様子は確実におかしくなった。
地下室にあった古い雑貨を仕事部屋へ運び込み、その代わりにキャンバスや絵具を箱ごと地下室へ投げ込んでいる。
ママとパパの口論が絶えず、クロエとノアは怯えた目でその様子を見つめている。
私はただ、冷静に両親を見ていた。このすべてが、この家の仕業に違いないと、どこかで確信していたからだ。
あの夢も、まだ終わらない。
パパが次々と家族を殺していく悪夢。初めはじっと見ているだけだったのに、最近では、私自身がその場から動動けるようになっていた。包丁が振り下ろされるのを目撃し、クロエの悲鳴を聞き、ノアが逃げ惑う姿まで──。
ある朝、廊下がやけに賑やかで目を覚ますと、私の部屋の外壁から踊り場まで、ビニールシートが敷き詰められていた。パパがペンキ缶を横に転がしながら、長い刷毛で壁をべったりと塗り替えている。
「朝から何やってるの?」
私は声に張りを込めた。シンナーのツンとした匂いが鼻を刺す。
「ここに手形があったんだ。ほら、見えるだろう?」
パパが指差す壁には何もなかった。
「踊り場まで続いてる。全部塗り直さないと」
言いながらも、パパの目は虚ろだった。
私はあえて口を挟まなかった。
小さな異常にばかり気を取られていると、本当に恐ろしい何かを見逃してしまう。 夢の中のパパのように――
この家に最も蝕まれているのは、他ならぬパパだ。
彼は日がな一日、地下室にこもって絵筆を握る。どんな絵を描いているのかは、キャンバスを絶対に見せないから誰も知らない。
ママは日に日に痩せ細り、疲労の影が顔に刻まれている。家族を繋ぐはずの父が、いまや家そのものを壊そうとしている──その恐ろしさだけが、私にははっきりと見えていた。
私は疲れていた。
家のどこかで起こる異変の“前兆”に気づくたび、心は擦り切れていく。
バスルームでシャワーを浴びれば、この疲れも少しはマシになるだろうか。
着替えを持って二階のバスルームに向かう。廊下の壁はパパが塗ったせいか、刷毛の跡がいくつも目立っている。
服を脱ぎ、シャワーカーテンを引いてシャワーの蛇口を捻る。温かなお湯が体の疲れを溶けて流れていく。
その時ふと、お湯がぬるついたのに気付いて目を開けると、視界が真っ赤に染まっていた。
体を見るとシャワーから出てくる血の飛沫にまみれている。
私は絶叫した。その声を聞きつけたママがバスルームに入ってくる。そして血塗れの娘を見てママも絶叫する。
ママは急いでシャワーの蛇口を捻って止めると、バスタオルで私の体を包み込む。そのまま一階に降りて、キッチン横のバスルームに私を入れて先に自分が先に蛇口を捻って水道水が出るのを確認すると、血塗れの私を入れて優しく洗い流してくれた。
呆然とする私とバスルームから一階に出ると、キッチンのテーブルに座らせてホットチョコレートを作って飲ませてくれた。
私な震える声で言った。
「ママ、前に言ったノアの話し、今なら信じてくれる?」
ママは私の隣の席に座って私の背中を擦った。
「えぇ、信じるわ。私はなんて愚かな母親だったのかしら。パパにばかり注意がいって、あなたをちゃんと見れてなかったわ、ごめんなさい」
私はホットチョコレートを両手で包み込みながら、その温かさに緊張が解れるのを感じた。
ママは二階のバスルームをもう一度見てくると言って二階に上がっていった。
私は疲れきってリビングに行ってソファーに体を預けた。
ママがすぐに一階に降りてきて、私の名前を呼んだ。
「こっちよママ……」
疲労困憊の私の声は掠れていた。
ママは荒い息をしていた。
「……なんの形跡も残ってなかったわ。“なにも”よ」
そうだろうと、どこかで思っていた。
「どうして、こんなことに……」
ママが口元を抑えて泣いている。
もう、一人ではどうにもならない。誰かに――助けを求めるしかない。
でも、誰に?
この町では、私たち家族は“忌み嫌われる存在”だ。誰も耳を貸してはくれないだろう。
――あぁ、神様……。
その時、胸の奥でひとすじの光が差し込んだ。
神の名のもとに守られる場所──教会へ行こう。
スマホを取り出し、地図アプリを開く。
震える指先で「教会」を検索し、最寄りの聖堂をブックマークした。
パパもママも、この混乱から抜け出せない。
ならば私が一人で行くしかない。森の迷路に飲み込まれないよう、どうか導きを──。
希望の光が、ほんのわずかに、闇の中で瞬いていた。