8.
また、私は両親の寝室に立っていた。
パパが包丁を握りしめ、無表情のままベッドのママに振り下ろす。刃が肉を裂く鈍い音が、耳の奥にこだまする。
パパは私の脇をすり抜け、ゆっくりと私の部屋へ向かう。ペタリ、ペタリと冷たい足音が廊下に残り、次は私の番だと鮮烈に思い知った――その瞬間、私はベッドから飛び起きた。
心臓が痛いほど早鐘を打つ。額に汗がにじみ、息が喉に詰まる。夢だと自分に言い聞かせても、胸の奥には何かが絡みついたままだった。
――あの夢は何?
これがただの悪夢なのか。あるいは、この家からの警告なのか。
先日のノアの異変も両親には届かなかった。「留守番が嫌なだけ」と一刀両断された上に、ノアの部屋のドアを壊した事を酷く責められた。
私は孤立している。
奇怪なささやき声も幻も、私にしか聞こえない。
味方はクロエとノアだけ。けれどノアは“リッキー”と呼ぶ“見えない男の子”と遊ぶのに夢中で、クロエは時折何かに耳を澄ませているだけ。どちらも幼すぎて、両親には信じてもらえない。
この家は、私を追い詰めようとしている――そう確信して、震えながら自分を奮い立たせた。
ある日の午前、私はキッチンで自主学習のノートを広げていた。
ふと気配を感じ、ページから視線を上げると、パパが腕いっぱいにキャンバスを抱えて仕事部屋を出てくるところだった。
パパは納屋へ向かい、やがてドラム缶を転がして戻ってきた。庭の中央に置いたドラム缶へ、一枚、また一枚とキャンバスを投げ込む。
私は固まったまま、その光景を見つめた。
パパはポケットからマッチを取り出すと、炎の先をドラム缶の中にくべた。瞬間、油と絵具の匂いが焦げる黒煙と混ざり合い、むせ返るような匂いが充満する。
「パパ!」
思わず声を張り上げ、私はキッチンのパティオから庭へ飛び出した。
「何やってるの! やめてよ!」
パパはぶつぶつと呟き続ける。
「違う……こんな絵じゃないんだ……」
その声は、冷たい刃のように胸に突き刺さった。
ママが慌てて駆けつけ、「エミリー、ホースを持ってきて!」 と叫ぶ。
私は庭の水道の蛇口をひねり、ホースを引き寄せて噴射させた。勢いよく水が燃え盛るドラム缶へ飛び込み、黒煙の中で破裂音が響く。
「邪魔をするな、この小娘が!」
パパの声は凶暴そのものに変わり、振り上げた腕が私めがけて振り下ろされる。咄嗟に身をすくめ、私は顔を覆った。
しかしその拳は届かず、パパの腕はママに強く抑え込まれていた。
「やめなさい!」
ママの声が震える。濡れそぼったママの腕が、必死にパパを押さえつけている。
やがてパパの目から狂気が消え、虚ろな呟きとともに腕がゆっくりと落ちた。
「ぼくは……いったい何を……」
パパは震える声で、自ら焼いたキャンバスを見下ろしている。
焦げ跡だらけの絵の具が水に溶け、庭は油の匂いと染みの痕でべたついていた。
私はホースを握りしめたまま、声にならない嗚咽を漏らした。
この家が、私たちを壊そうとしている――
その確信だけが、夜のように深く、胸に沈んでいった。