4.
家に戻ると、引越し業者はすでに姿を消し、ガスの修理業者だけがまだコンロとオーブンを直していた。母がしきりに話しかける中、ようやく二つの炎が息を吹き返したかのように燃え上がった。母は嬉しそうに跳びはね、修理業者の二人にお茶をすすめていたが、彼らそれを断った。
帰り支度を始めた――背の高い青年が何やら口に仕掛けたところを、髭の生えた中年の作業員が制した。
「……悪いことは言わん。この家には住まない方がいい」
その一言を残して、二人は足早にトラックへ向かった。まるでこの家から逃げ出すかのように。
「やっぱり何かあるんだよ、この家」
私は確信を込めて呟いた。父は複雑そうに目を伏せ、母はぽかんと口を開いたままだ。
「考えすぎだよ。ここへ来たばかりの僕らをからかおうとしているだけさ」
父は苦しげに言い訳をした。母が「何のこと?」と首をかしげたので、私が続ける。
「さっきスーパーでレジの人に『あの呪われた家に住むなんて正気じゃない』って言われたの」
母の表情がみるみる曇る。
「どうしてそんなことを……よそ者に厳しい町なのかしら」
「もし本気で怖がらせるつもりなら、もっと別の言い方をするでしょ。わざわざ“呪われた”なんて言うなんて、変じゃない?」
言いながら胸の辺りがざわついていく。
「さあ、そろそろ荷解きもしなくちゃね」 パパが不自然なくらい明るく促した。
私は直感で地下室に何かあると感じたから地下室へ続くドアへと走り寄った。ドアを開けてさっき見つけたスイッチを押すと、裸電球の明かりを頼りに、きしむ階段を素早く降りる。
中は真っ暗で夏なのに妙に寒い。カビ臭さと湿った土の匂いが鼻を突く。
壁伝いに手探りで進むと、埃まみれの棚にぶつかった。指先にザラザラした感触が伝わる。冷たい土の匂い、湿ったレンガの肌ざわり。背筋がぞくりとした。
そのとき、背後からパッと明かりが灯った。驚いて振り返ると、父がスマホのライトで地下室の電球のスイッチを探し当てたところだった。
床はむき出しの土で天井は低く、一灯だけの裸電球がぶら下がっている。
床にはあらゆるガラクタが所狭しと積まれていた。
「わあ、ここも古いものばかりだね」
父はのんきに言いながら、あふれんばかりの雑貨が入ってる木箱を眺めている。
「全部処分したら、けっこうな金額になるかもな」
父が近くの象の陶器を手に取り、じっと見つめる。
私はふと、棚に並ぶ小さな円柱形の置物に目を奪われた。手に取って側面の蓋を開けると、中にバレリーナの人形と三面鏡が収まっていた。裏面の巻き取り式ネジを回すと、オルゴールの音色とともに人形がくるくる踊り始めた。
鏡の中の無数のバレリーナが同じリズムで回るさまに、私はいつしか見入っていた。すると、三面鏡の向こうを人影が横切った。背丈で考えるとクロエだろう。彼女が私の背後を行ったり来たりしている。
「クロエ、走り回らないで」
棘のある口調で呼びかけ振り返ったが、そこには誰もいなかった。
「クロエは二階でノアと一緒のはずだよ。どうしたんだい?」
父の声が遠くで響く。私は心臓が高鳴るのを感じ、再び三面鏡をのぞき込む。やはり誰もいない。足音も聞こえなかったのに、確かに何かが動いていた。
慌てて箱を元の棚に戻し、私は階段を駆け上がって一階へ向かった。
夕食は私たちの好物がテーブルに溢れ返っていた。
「わたし、これ大好き!」
クロエは身を乗り出しながら声を上げ、母は静かに「危ないからちゃんと座ってね」と注意した。
食後、私は二階の自室へ向かおうとキッチンを抜けたそのとき、耳元でかすかな囁きが聞こえた。振り返ると、母が食器を洗い、父がそれを受け取って拭いている。何も言わず、階段を駆け上がった。
部屋の壁はパステルオレンジだが、所々ペンキがはげている。ベッドに腰掛け、今日の出来事を反芻した。人気のない町、スーパーの「呪われた家」発言、地下室で見た人影――胸の奥がざわつく。
気分を変えようとスマホを取り出すと、ニューヨークの友達からの通知が山ほど届いていた。ミアやアメリアたちの声を画面越しに聞けば、少しは落ち着くだろう。
ミアのビデオチャットがつながり、赤毛とそばかすのチャーミングな笑顔が映る。
「落ち着いた? そっちはどう?」
私は笑顔を作りながら現状を話した。町の不気味さ、家への違和感、地下室のこと。ミアは目を丸くしたあと、小さな歓声を上げた。
「幽霊屋敷みたいでクールじゃん!」
私が苦笑すると、ミアはニューヨークでの出来事やアメリアが彼氏と別れた話しなど色々してくれた。
「あ、ママが呼んでるわ。そろそろ切るね。あ、ところで気になってたんだけど――」
ミアが何気なく言った。
「部屋にクロエでもいるの? さっきから話し声が聞こえてたわよ」
私は電話を切ったミアがいなくなった黒い画面を見たまま凍りついた。