セーブしてない勇者
一・零:セーブ地点のない宇宙へ
2025年7月17日、久留米の空は鉛色に鈍く沈み、梅雨特有の湿気が肌にまとわりついていた 。路地裏のコンクリートからは、濡れた土と微かなカビの匂いが立ち昇り、それはまるで未来への不穏な予兆のようでもあった 。
久留米駅前の雑居ビルの一室――古びたゲームセンターの片隅で、ユウマはヘッドセットを装着したまま、ぐったりと椅子にもたれかかっていた 。彼の周囲には、カップ麺の空き容器とエナジードリンクの缶が散乱し 、ディスプレイの輝きだけが、この空間にわずかな生命感を宿している 。ヘッドセットの奥では、今日配信されたばかりのVRMMORPG最終アップデート「宇宙の終焉」のログイン画面が、まばゆい光を放っていた 。
「くっそ、もう朝か……」
ユウマの口から、疲労とカフェインでかすれた声が漏れる 。徹夜明けの口の中には、どことなく鉄錆のような味が広がり 、胃の腑ではエナジードリンクがまだ暴れていた 。昨夜から、彼はこの最終アップデートを待ちわび、友人たちと盛り上がっていたのだ 。
ユウマは昔から、人と群れるのが得意ではなかった。賑やかな場所は好きだが、中心に立つのは苦手で、いつもどこか一歩引いた場所から、世界の喧騒を眺めているような子供だった。そんな彼にとって、ゲームの世界は唯一、自身のペースで「静かに」深く潜れる場所だった。
「『セーブはこまめにしろよ、ユウマ』……親父、ごめん。今日だけは許してくれ」
ふと、幼い頃の記憶が脳裏をよぎる 。ゲームに夢中になりすぎて宿題を忘れた日、父に言われた言葉だ 。「お前がいれば、家は大丈夫だ」と、いつも温かく、しかしどこか重い期待を込めて語りかけてくる父の言葉は、幼いユウマにとって時に重圧でもあった。だからこそ、彼は責任から解放された「静かな暮らし」を求めていた。争いも、がらみもない、ただただ穏やかな日常。そんな彼の願いは、この《ギャラクシー・クエスト》のような、広大な仮想世界の中でひっそりと育まれていたのだ。しかし、それは遠い過去の残像に過ぎない 。
ユウマは指先一つでログインを完了させ、雄大な宇宙空間が広がるチュートリアルエリアへと転送された 。眼前には、星々の輝きが息をのむほどに美しく、しかしどこか虚ろに瞬いている 。ゲーム内のアナウンスが、耳元で優しく囁いた 。
「勇者ユウマ殿、まずは基本的な操作をマスターしてください。そして、忘れてはならないのが
セーブです 。あなたの冒険は、セーブ地点から再び始まります」
その言葉に、ユウマはぼんやりと頷いた 。彼の意識はすでに、これから始まる壮大な冒険へと向かっていたのだ 。チュートリアルエリアに用意された初心者向けのモンスター――まるで綿菓子のような姿をした「ふわふわスライム」を数体倒し 、宝箱から初心者用の剣と盾を手に入れる 。一連の流れは、彼にとってすでに手慣れたものだった 。
「よし、サクッと終わらせて本編行くか!」
ユウマは意気揚々と次のエリアへと進んだ 。セーブポイント? そんなものは、どうせ後でいくらでもできるだろうと、彼は軽視していたのだ 。まさか、その「軽い判断」が、彼自身の運命を決定づけることになろうとは、この時のユウマは知る由もなかった 。
一・一:世界はバグった夢を見た
次の瞬間、世界はねじれ、変貌を遂げた 。
まるで、巨大な何かが宇宙のキャンバスを乱暴に引き裂いたかのように、チュートリアルエリアの美しい星空に、幾何学的なグリッチが走り出した 。色彩は乱舞し、空間そのものが砂嵐のようなノイズに覆われる 。
「な、なんだこれ……!?」
ユウマは思わずヘッドセットを抑えた 。視界が激しく点滅し、鼓膜を劈くような電子音が脳髄を直接揺さぶる 。それは、ゲームの音響ではなく、まるで世界そのものが悲鳴を上げているかのようだった 。
「おいおい、バグか? 最終アップデートでこんな大規模バグとか、マジで勘弁してくれよ……」
その時、眼前のグリッチの奥から、無数の光の筋が収束し、巨大なゲートが出現した 。ゲートの向こうからは、耳慣れない機械の駆動音と、遠くで響く人々の悲鳴が聞こえてくる 。それは、まさしく現実の世界の音だった 。
久留米の街並み――見慣れたビル群、屋台の並ぶ中州、そして大濠公園の池に反射する鈍い光が、歪んだガラス越しに映し出されるように、ゲートの向こうで揺らめいていた 。街頭テレビからは、緊急ニュースがけたたましく流れている。「原因不明の空間歪曲により、世界各地でゲーム世界との融合現象が発生しています!」と、アナウンサーの声が絶叫する 。
ユウマは息を呑んだ。ヘッドセット越しに感じる風が、生々しい悲鳴を運んでくる。それは、耳慣れたゲームの効果音とは全く違う、魂を抉られるような現実の叫びだった。彼の視界の端で、久留米大学の校舎がゲームのテクスチャのように歪み、校庭に設置された自動販売機から、光るキノコが生えているのが見えた。普段、市民の足となっている電動アシスト自転車が、道端で無残に横たわり、そのバッテリーからは青白い光が漏れ出している。
「うそだろ……VRMMOが、現実と融合したってのか!?」
彼は信じられないというように、もう一度ヘッドセットを深く被り直した。だが、視界に映るのは、あまりにも現実味を帯びた、そしてあまりにも異様な光景だった。普段は賑やかな商店街のアーケードからは、助けを求める人々の声と、「ひぃっ!」「やめろ!」という悲鳴が、生々しく響いてくる。見慣れた店舗のシャッターは破壊され、店の中から溢れ出した色とりどりの商品が、ガラス片と共に路面に散乱している。焦げ付くような硫黄の匂いと、何かが引き裂かれるような音が、土煙と共に立ち込める。その中で、無数の「バグ魔族」と思しき異形の影がうごめき、人々を追い回していた 。
ユウマはコントローラーを握りしめ、必死にメニュー画面を呼び出す 。指先が、わずかに震えている。だが、そこに表示されたのは、見慣れないメッセージだけだった 。
『【緊急警報】ゲームと現実の融合により、システムに重大なバグが発生しました。セーブデータが破損しているため、現在の進行状況は保存されません。死亡した場合、チュートリアルから再開されます 。』
そして、画面の隅には、赤々と点滅する文字が踊っていた 。
『セーブデータなし』
その文字が、彼の瞳に焼き付いた。思考が、一瞬、完全に停止した。頭の中が、真っ白になる。
「……は?」
喉から、か細い声が漏れた。理解が追いつかない。まさか、そんな馬鹿なことが。チュートリアルで、セーブを? スキップした? いつ?
一拍の、重い沈黙が降りる。この静寂が、外から聞こえる人々の悲鳴と、歪んだ世界のノイズを、いっそう際立たせる。脳が急速に状況を理解し始め、それに伴い、全身を激しい悪寒が駆け巡った。背筋に冷たい汗が伝い、心臓が警鐘を乱打する 。これは、ゲームではない。いや、ゲームが現実になったのだ 。そして、彼は「セーブしていない勇者」という、あまりにも絶望的な状況に放り出されたことを理解した 。
「う、嘘だろ……! セーブ……セーブしてなかった!? 馬鹿な! 俺は……俺はチュートリアルでセーブをスキップしたのか!?」
絶望が、じわりと胸を満たしていく。そして、その底から、猛烈な怒りが湧き上がった。何が、静かな暮らしだ。何が、自由気ままなゲームだ。全部、このふざけたバグのせいで、ぶち壊しじゃないか。
彼の脳裏に、再び父の言葉が響く。「お前がいれば、家は大丈夫だ」 。それは、かつてユウマが抱いていた「静かに暮らしたい」という願いとは裏腹に 、否応なく彼をこの戦いの中心へと引きずり出す、呪縛のようでもあった 。
その瞬間、ゲートから異形のバグ魔族が飛び出し、ユウマに向かって襲いかかってきた 。巨大な顎をがっしりと開いたその姿は、ゲームのデータが歪んだような、おぞましい形をしている 。
「ふざけんなよ……! 死んだら最初からなんて、聞いてねぇぞ! このクソッタレが!」
ユウマは叫び、手にした初心者用の剣を握りしめた 。その口の中に広がるのは、疲労と絶望、そして微かな血の味だ 。それは、これから始まる彼の「死に戻り」の物語の、始まりの合図だった 。宇宙を巻き込む規格外のギャグバトルアドベンチャーは、セーブを忘れた勇者の絶叫と共に、今、幕を開ける 。