72 鬼谷子
楊鬼山は咸陽へ出発する前、直隷省保定府易州(現在の河北省保定市易県)に築造された清西陵を訪問した。北京から保定迄は、146kmの距離である。そこには世宗憲皇帝、雍正帝の泰陵があった。彼に随行していたのは、掌儀司、理事官の崔道光と宗人府内書堂、丁英泰学長であった。
楊は泰陵前にて五体投地の壇前普礼をし、法衣の中で印契を組み、口に真言、頭で観想し、法を修した。大壇には供物が置かれ、香が焚かれ、香油が撒かれた。そして彼は泰陵に額ずき、世宗憲皇帝の霊魂にあいさつをした。
「世宗憲皇帝陛下。大清帝国第12代皇帝、宣統帝の命を受け、楊鬼山が摂政王、醇親王載灃殿下のお言葉を奏上致したく。願わくば、その意を汲み給え」
楊が読誦する声は何処にも響かず。唯、観想によってその意を世宗憲皇帝に届けているが、何も彼の魂魄に響くものはない。
「我が願い届かず・・・ 然らば、道家の先達、鬼谷として伝えよう。世宗憲皇帝陛下。大清帝国第12代皇帝、宣統帝の命により、暫し仙境に遊びし時より離れ、世俗の垢にまみれるとも清浄なる我の下に来られよ」
「朕が廟号を呼ぶは誰か? 朕が諡号を呼ぶは誰か?」
「それは、私でございます。それは、天仙にして、真人たる私でございます」
「真人なるか、真なるか?」
「私の名は鬼谷。陛下の先達でございます」
「仙境に遊ぶ真人たるか?」
「現世にて、私の思いを伝えている鬼谷でございます。世俗も仙境も思いのまゝに。何方でも、我が教えを伝授致しましょう・・・ 如何か?」
「確かに先達、鬼谷先生か?」
「如何にも。本日は、陛下のご子孫であらせます大清帝国第12代皇帝陛下の命を受け、摂政王、醇親王載灃殿下のお言葉を奏上致します」
「偉大なる先達より伺おう」
「ありがとうございます。本日お伝えしたき儀は・・・・・・」
崔理事官と丁学長には、楊と称する鬼谷の魂魄と雍正帝の霊魂との会話は聞く事も、感じる事も、察する事も出来なかった。唯、楊からの報告だけが唯一のもであった。
検証団は法要の翌日に咸陽城へ入った。宗人府の曹強力理事官が率いるのは、掌儀司の崔道光理事官、宗人府内書堂、丁英泰学長、そして楊鬼山。それを迎えたのは、宗人府の劉保事務官と彼の部下である李。青龍寺復興を願う廃青、人足頭の呉石。
咸陽城で8人は会合した。但し、呉だけは別室で待機。
先ずは宗人府の曹が法要の労いを表し、北京の来賓が次々に関係者に謝意を表わした。それを受けて曹の部下である劉が代表して感謝の言葉を述べた。そして各人を紹介した。
楊と丁は紹介された廃青の顔をまじまじと見詰め、各々人品骨柄を探ろうとした。楊はいち早く品定めを終えたのか、直ぐに視線をそらした。そして呉が待機する別室に眼を遣った。
一人あらぬ方向を向いている楊を訝る丁。楊の行動を理解しようとするも何も得ず、推測するばかりである。
別室で待機していた呉は楊の気配を感じたが、それが何処から来るものなのか、誰から発せられたものなのか、皆目見当が付かなかった。その為、うすら寒い心持になり、そわそわし出す。落ち着きのない様を自ら恥じ、落ち込む呉。暫しの時を置き、かつて陳親方から受けた感覚に似たものであると確信した呉は、劉から呼ばれるのを待たず、別室から逃げ出してしまった。生物としての防衛本能か、それとも単なる気まぐれか。将又、己の身に起きる今後に不安を感じたのだろうか・・・
参加者の紹介が終わり、明日の現場検証の予定を確認し、上司の接待に移った。
別室に移動した7人の内、劉と李は宴席の準備に取り掛かったので、呉の失踪など誰も知らないか、気にも留めなかった。
宴席は芸妓の舞で雰囲気が一変した。それ迄酒と料理だけで、特に出し物などもなく、飲んで食べてだけであったのが、女が加わると男が豹変するのはどの時代、地域でも同じ事か?
その中で、最初から対応の変わらないのが丁であった。宦官である為女性に対する関心はなく、己の修めている易経から話題を取り出して、廃青と調伏について問答を続けていた。
「廃青殿は、どのような修行を為されたのか?」
「愚僧は青龍寺再建の為だけに動いておりましたので、『どのような』と言われましても、返答に窮してしまいます」
「いやいや、ご謙遜を。調伏を二度迄為されたとか。それも短期間に出来るなど、今の阿闍梨には・・・・・」
「それよりも学長様は、易経に大変お詳しいようで」
「易経を教えている立場ですので」
「愚僧も修法前に立卦する事がございますので、関心がある訳でして」
「そうでございますか。しかしながら、周易から導き出される卦は、先達の努力の結晶でございます。翻って阿闍梨の修した仏法は、深淵なる真理を極めた仏陀のお言葉でございます。とても私が修めた易経など・・・ 真理を説く方の便法としての価値しかございません」
「それ程、卑下なさらずとも宜しいのでは。道を究めた方は、すべからく仏法では預流果に達した者であり、涅槃に辿り着くでしょう」
「そうでございますか。良き教えを頂きました。私も今生はいざ知らず、来世では三悪道に堕ちる事はないと・・・」
「しかしながら、占断を生業に致す事は、仏陀釈尊認めておりませんので、その点はお含みおきを」
「ありがとうございます。仏陀の言葉として、心に刻み置きます」
「学長に一介の愚僧がおこがましい事を申し上げました。平にご容赦を」
廃青と丁の会話を聞くとはなしに聞く楊。既に廃青の人となりと法力を推し量った楊にしては、二人の会話は余り聞く価値のないものだった。それよりも、先程感じた気配が消えた事に関心が及び、彼は部屋を見回したが、7人以外は給仕と楽士、芸妓のみ。
気の衰えなどあり得ない、と感ずる彼にとって、対象が消えたか、対象の気が消えたかどちらかであろうと思い、全員に意を向ける。




