58 太古からのもの
セガランは、タヒチ滞在中に“太古からのもの”詩集の原稿を既に書き始めていた。それは清やチベットへの探索でも同じように行っていたが、日本への渡航に際しては原稿を書いていない。正確に言うと、日本での行動が記された原稿が見つかっていない訳である。これを如何に考えるか、未だに結論が出ていない。資料が見つかっていないので、何も書かなかった、書き始めたが何らかの理由で破棄した、又は紛失した可能性もあるが、今の処不明である。
一部の好事家はタヒチ、清、チベットを題材とした作品が出版されたのは、過去の遺構や石碑を調べて作品として発表出来るものだけしか見つけられなかったのだ。しかし日本では作品として発表出来ない何かを探り出した為、後事を恐れて日本編としては断念した。但し、その手掛かりは必ず、何処か作品の中に隠されている、このような説を提唱する者もいる。
それでは彼の作品を調べてみよう。“太古からのもの”の中の“古代語”から、タアロアの既述があるパートである。
「彼は存在した。その名はタアロア。
彼は広大無辺な場に身を置いていた。
地の中心、天の中心、海の中心、人の中心に。
彼は呼び掛けるが返答がない。
唯一の存在、タアロアは世界に変わる。
世界は未だ不安定で、判然とせず、揺らめき、深淵の底の潜水夫の如く息を切らす。神は彼を見、四界の中で叫ぶ。
地上にいるのは誰か? 神の声は谷間に木霊する。ある者が応えた。
それは私です。安定した大地です。それは私です。揺るぎない岩です。
海にいるのは誰か? 神の声は深淵の中に潜る。ある者が応えた。
それは私です。海中の山脈です。それは私です。深海のサンゴです。
その上にいるのは誰か? 神の声は空中に高く上がる。ある者が応えた。
それは私です。光り輝く日の光りです。それは私です。光り輝く天です。
その下にいるのは誰か? 神の声は空洞に落ちて行く。ある者が応えた。
それは私です。幹のむろです。それは私です。根本のむろです。
彼の成果を消費しながら、神はその作品がよいものである事を理解する。そして彼は神として留まる」
多少長いが、タアロアに関して記載のある箇所を翻訳した。タアロアとは創造神であると、このパートに於いてセガランは見ていた。タアロアの作品は地上と天空と海と地下に存在するものであり、後世海の神、冥界の神と解釈された。彼のこの作品は、これを踏まえて書かれた訳だ。
それを示す根拠は、タアロアのみを描いたのではなく、相棒のタネにも触れたパートが有るからだ。もし、単独ならば創造神としてのタアロアであり、タネとセットで描かれていれば、主要四大神の1柱としての役割を持つ。
この事を踏まえていると、陳は「塔洛阿と塔内の夢を見た」と伝えたが、セガランはタアロアのみの説明に終始した。意図的にタネを外したのだ。もしそうであるならば、タアロアを創造神として解釈したい訳は? もし違うのであるならば、彼は何故陳に話さなかったのか?
何れにしても、陳から白波と小舟、塔洛阿と塔内の名を聞いたと言われた以上、セガランは彼に南太平洋諸島の神話の説明をすべきであった。
セガランは陳が夢見た内容を分析して、彼の無意識の意識、抑圧意識や一族の記憶に関する学説を彼に伝え、彼の見た夢の解釈をした訳であるから、何らかの意図が働いたと思われる。彼が説明しなかったタネについて見てみよう。因みにハワイではカネ、その他地域ではタネと呼ばれている。
同じく、“太古からのもの”の中の“古代語”から、タネの既述があるパートである。
「聞け。これは私の言葉である。もし、大地を踏みしめる男達が、タネの引き裂く天を眺めるならば、そこには未だ存在しない事を知らせられるし、幾多の夜、海流の真ん中に迷わず進める事に拠って分かるだろう」
こゝでは、天地を切り裂く神としてタネをセガランは表現している。タアロアと同様に描かれている訳だが、タネは水や森の神、カヌーの守護神とも言われているので、彼の解釈が不十分だったのだろう。
陳は白波とボートと言い表したが、陳はカヌーの存在を知ってはいなかったので、彼は己の経験から小舟と表現した筈だ。
セガランの解釈の違いに何か隠されているのではないか? 意図的に彼は曲解した散文を書いたのではないか?




