48 反清復明
西安城を30km程南下すると、秦嶺山脈を形成する南五台山の麓に行き着く。この辺り一帯は終南山と呼ばれ、南五台山、翠華山、驪山、圭峰山などで構成されている。
特に驪山は道教の女神、女媧が山麓に華清池を作ったとの伝説があり、唐の楊貴妃もこの温泉を楽しんだと言われています。又、始皇帝も始皇帝陵とは別に、驪山に埋葬されたとされています。所謂、初期道教に係わりの深い場所であると言えます。初期道教は“道”を説くよりも、不老不死を求める仙道の意味合いが強いのは、始皇帝の例を見れば明らかです。
驪山から咸陽は指呼の距離にあり、此処には始皇帝にまつわる遺構が数多く見られます。
終南山の山中には、反清復明運動に己の矜持を貫こうとした黄強がいた。彼は、元を正せば大清帝国新軍の下士官であったが、陝西省巡撫、李玉祥の制裁を万座の前で受け、大いに自尊心を傷つけられた経緯があった。
この時期、清朝政府による洋務運動の一環として政治、経済、軍事、教育など、あらゆる分野での改革が進められていた。しかしながら、日清戦争の敗北によって、支払わねばならない膨大な対日賠償金を列強に借金をして返済していた清朝政府には、財政負担が重くのしかゝっていた。当然政府は税負担を国民に強いる訳だが、重税に喘ぐ国民にとって、新たに課せられる税迄納める事など出来ない。貧困は政府への批判となって、満州人への怨嗟憎悪になる。政府はこれには銃を持って対処した為、反清復明運動は各地方に拡散していった。陝西省でも住民による反乱は疎らに起こっていた。
反乱の首謀者は知識人、留学生、華僑が殆んどであり、新軍軍人や生活に喘ぐ農民がこれに加わり拡大していった。
当初、黄は新軍の下士官出身であった為、構成員の加入を新軍に絞って動いていた。しかし思う程兵士の加入は進まず、止む無く農民の加入に舵を切った。
その活動は主に人材の確保であり、彼は手っ取り早く農民を拉致して来た。人気のない場所で、早朝、薄暮の時間帯に手当たり次第農民を拉致し、山中に連れ込み、反乱軍の兵士に仕立てゝいた。しかし拉致と言ってもそれは連行する迄で、正体を明かし協力を求めてからは、それに見合う金額を支払うと約束した。集められた男性は成人で、一家の長が殆んどだった。
反乱軍の兵士になる事に同意した者には、銃器の取り扱いと組織への服従を教えた。その期間は左程長くはない。長期間拘束しては、残された家族が心配するし、反乱活動自体への反感を買ってしまう事を心配した為である。
黄は元々陝西省の農民であったが、清朝政府の税負担に耐え切れず、農地を手放した農民であった。彼は独り者であった為、陝西省が新軍設立を発表、兵士の募集を始めた時、新軍に応募したのであった。
新軍の兵士に採用が決まり、彼は直ぐに陝西省新軍に編入された。兵士となってからは、軍事教練の日々であった。実戦があった訳ではないので、反体制派の蜂起や住民の反乱が起きた場合、鎮圧行動に出る為の訓練であった。
彼の属する陝西省新軍は袁世凱が指揮する北洋軍閥の配下にあった。その為、陝西省の巡撫は彼の息が掛かった者しか配属されなかった。李も馮も袁世凱の部下である。そして陝西省新軍は安徽省、浙江省、山東省、福建省の新軍と緩やかな連携を保っていた。更に袁世凱の後ろには大日本帝国が控えており、陸軍大臣、寺内正毅陸軍大将が援助していた。
寺内陸軍大将は義和団事件が勃発すると、参謀本部から清国に派遣され、事件に対処した経緯があった。袁世凱が率いた山東省新軍と親和性が良かった事もあり、懇意にしていた。
黄の任務は新兵の訓練にあったので、山中でのゲリラ活動も指導していた。彼の指導する新兵の中に、顔見知った者が何人かいた。彼に頻りに話し掛ける者を見ると、姉妹墳墓の発掘に従事していた人足の何人かゞいるではないか。陳と呉が失踪したと思っていた人足達である。
黄は顔見知りで、尚且つ生活に困窮している者をピックアップして、リクルートしていたのである。姉妹墳墓の現場で彼等の仕事振りを目の当たりにして、判断し易かったのもあろう。そして彼等は陳に声を掛けられて集められた者達であったから、その日暮らしの者が大半であったのも、彼には分かっていたのだろう。
これから一年後、こうして各地の反清復明活動を繰り広げる組織は、“武昌起義”と称される、湖北省武昌で起こる兵士の反乱に呼応して、清国各地で蜂起するのである。




