46 陳の夢
セガランとの打ち合わせを終え、陳は宿舎を出てそのまゝ自宅へと向かった。西安城の南門から真っ直ぐに南に下ると、長安南路に続く。東には大雁塔が見える道を一人とぼとぼと歩いて行く彼の姿は、何処から見ても農民の姿であった。
帰り道、城内の民家から零れる灯りで歩き易かったが、南門を出ると城外になり、民家も疎らになる。大路と言っても外灯もなく、点在する民家の灯りを頼りに道を進むしかない。彼は基本盗掘が家業の者である為、この時代の最先端の機器を幾つか持っていた。人知れず盗掘する為の器具として懐中電灯を西洋人から買い取り、現場では使っており、夜道でも使えるものであった。しかしこの当時、懐中電灯の電球のフィラメントや電池は、休み休み使わないといけない物だったので、夜道を懐中電灯の灯りを点けたり、消したりしながら進む光景は、遠目でみると人魂が見え隠れする様であった。
小一時間も歩いたであろうか。彼は自宅に辿り着いた。彼の自宅は土建屋であるから、それなりの規模の構えをしている。家に入るが、夜も遅い。裕福な家ではないので、電気は来ていない。妻も子供も既に寝ているので、起こして晩飯を頼む訳にもいかない。自分で食事の準備をして飯を食べた。火を使う訳にもいかず、冷えた飯を食べた。腹をある程度満たし、人心地が着いた。
自分の部屋に入り、寝具に潜り込む。呉と段取りの相談、セガランにその報告と気を遣う仕事に疲れたのか、陳は直ぐに眠り込んだ。
突然、彼は広い場所にいた。辺りは薄暗くて良く確認出来ない。建物の中でも、屋外でもない。それだからと言って、広野でも山中でもない。何の音も聞こえてこない、広い空間である事だけを認識出来る情報しか彼にはなかった。川辺でも海辺でもない事は理解出来たし、身柄を拘束されてもいない事も分かった。
目を凝らして遠くを見る。闇に為れるに従って、夜目が効くのであるが、何時迄経っても周辺の認識が出来なかった。今は夜ではないのか? それならば夜明け前なのか? 時間の感覚が狂っているのか時刻が分からなかった。何時迄も薄暮の状態が続いている。
いゝ加減今の置かれている状況に苛立ちを覚えて来たが、それをくつがえす行動が取れない。手を動かそうとしても動かせない。しかし両手は確かに存在する事は分かる。両脚もそうだ。躰も頭もそうだ。五体満足だが、己の意思で動かす事が出来ないのだ。
これは夢なのか? そう思った刹那、何処からか声が聞こえて来た。音ではない、人の声なのか? 彼は耳をそばだてゝみた。しかし声は一度きりでもう聞こえてこなかった。
彼は自分の置かれている状況を素直に受け入れる事が出来なかったが、抗う事が出来ない以上、何をすれば良いのか途方に暮れた。
すると、遥か離れた彼方から、白い輪郭のぼやけた物体がゆっくり近付いて来るのが見えた。薄暮の中で、そこだけ白い物が浮かんでいるように見えた。
それは音を立てず、ゆっくり姿を大きくする。段々と近付いて来るのだろう。彼は見知らぬ物が近付く事に恐怖を覚えた。此処から逃げたい。しかし彼の身体は動かない。これは夢だと思いながらも、徐々に近づく白い物に恐れを抱いた。
そして、それが彼の近くに迄来るも、ぼんやりとした白い輪郭しか認識出来ない。得体の知れない物に恐れおのゝき、無意識に彼は両手を出して、白い物を押し返そうと身構えた。だが腕は前に伸びなかった。感覚として防御態勢に入ったゞけだった。白い物が彼の身体に近付くと、濃霧が晴れるようにそれは彼の頭の上を通り過ぎて、消えた。
彼の夢はそこで終わった。目覚めてみると、身体の何処にも異常はないし、頭もしっかりしている。何時もは夢を見ても薄ぼんやりしているものなのだが、今日の夢は妙に生々しい実感があった。それが夢だったとしても時間の感覚は一瞬なのだが、彼の夢は永遠に続くのかと思う程、永く感じられた。
未だ明けやらぬ朝、彼は床から起き出した。夢と同じく夜明け前で薄暗い。未だ日は昇っていない。
彼は思った。“邯鄲の夢”と言われるものがあるが、その類いなのだろうか? そうすると、夢が俺の今後の人生を伝えた事になるが、何を伝えたのだろうか? 判然としない夢だったとしか思えない。邯鄲の夢は人生を短いダイジェストで投影してくれるものだが、あれは彼の人生の後半生ではなかった。強いて言えば、これから起こるであろう、彼の一つのイベントを伝えるものだった。
「俺に何が起こるのだろうか? 奇怪な事件に巻き込まれるのか? 厲鬼に憑りつかれるのか? それともあれは俺の死後を示唆しているのか?」
色々な思いが頭の中を巡るが、彼には結論が見えなかった。夢自体が曖昧模糊としたもので、何を彼に伝えたいのか分からなかった。かと言って無視する程、彼は豪胆ではない。若干の不安はあるのだろう。吉凶判断が出来ない夢だったので、彼は何をするべきなのか理解出来なかった。唯、漠然とした焦燥感に包まれていた。
暫くして、彼の頭の中に一つの言葉が現われた。Taloa・・・? 塔洛阿)・・・? 何の言葉だろう? 支那語なのか? 色々思いを巡らしたが、何の意味なのか分からない。どうしてそのような言葉が浮かんだのか分からない。自然に、何とはなしに思い浮かんだ。それが如何なる意味を持つのか、彼には分からなかった。




