43 碑文の解釈
“太祖文皇
帝之神道”
この碑文は鏡文字で刻された碑文である。セガランが求めた多くの碑文の中でも、鏡文字で刻された碑文は数多くはない。それのどれもが、天帝や皇帝、精霊といった類いの碑文の一部に見られた。それだからこそ、彼はこの碑文を選んだのだろう。
「一つの奇抜な横書きで刻まれた碑文。二対になった八文字は、決して右から左に読まれるべきではない。しかしながら反対から読んでも、それだけではない。
逆に刻まれた八文字。旅人は想像する、『彫刻家の知らないもの。又は不敬虔な奇抜なものか』そして見ずとも旅人は長居しない。
貴方。貴方は翻訳しないのか? この逆八大文字は墓場への片道と霊魂の道を印す。逆八大文字は生者でない者の道しるべではない。
もし胸への心地良い気の流れが逸れたならば、逆八大文字は石の中にめり込む。もし光が流れ去るならば、それらは堅牢な深遠に向かう。
それは明らかに、空間の裏が読まれる為、じっと死者の眼を辿る道なき場所である」
碑文に刻された内容を検討すれば、彼等の対象物である事に違いないが、碑銘の意味を彼は知らなかった。刻印された皇帝が誰なのか? 彼は宿舎の者に尋ねた。
それによると、表題の太祖、文皇帝の諡号と廟号を贈られた者は、支那歴代王朝中に何人か存在するらしい。そして、その者が言うには、その人物は三国時代に活躍した司馬仲達の子、司馬昭ではないかと。晋の文帝である。主たる理由は矢張り、内政に顕著な功ある為であろうか?
少なくとも、セガランは拓本採取した石碑の年代を紀元前200年頃と想定していたが、この石碑は3世紀に建立されたと判断しなければならない。これは除外するしかないが、彼の求めるものとしては候補としておきたいのだろう。己のノートに碑文とフランス語の解釈を併記した。
但し、彼はこうも記している。
「この碑文は3世紀のものである。しかしながら、その思想は紀元前2世紀と何ら変わるものではない。それは支那人の思考が脈々と受け継がれて来た証拠である。何故ならば、生者と死者の世界は別々のものであり、両者を管理する者は、神か天帝であると強固に信じられているからである。蛇足ではあるが、今もその考えは、清国の中にも息づいている」
彼は多くの拓本を採取していたが、その全てが秦朝や隋朝の物だと思っていたのは間違いであると気付かされた。その発端が“太祖文皇帝之神道”碑であったのだが、それ以外にも調べてみると色々出て来た。
“真所謂大乳之道”碑は景教について刻印されており、“以香為信”碑はマニ教について刻まれた物であった。
彼は秦と隋時代の遺跡に建立されていた石碑を同時期のものと認識したが、それが怪しくなった。清朝政府から指示された遺跡は、全て秦と隋時代のものである。それに付随して建てられた石碑の中に、時代の違う物があった。
これをどのように解釈するか。一部の例外として無視すれば良いのか? それとも全ての拓本を再調査して各々の時代を推測する方が良いのか?
何時迄とは限定されなかったが、北京は急いでいたようにも感じられた。初めて要請を受けた西太后は既に亡くなっているし、摂政王からは調査の続行を指示されたが、具体的な要請はなかった。
何時迄調査を続けるのか? 東北地域での防疫対策には何時から取り掛かるのか? 共和国政府の派遣要請前に赴任したが、軍務としてカウントされるのか?
遺構への疑念から己の業務に対する不安も湧き上がり、セガランは少し苛立ってきた。そうなると業務に対する意欲が萎えてくる。しかし、軍務以外のもう一つのワーク、著作活動を疎かには出来ない。そんな気持ちが彼の精神を支えていた。
仕方ない。今はこの仕事をやり遂げよう。彼は気持ちを新たにした。




