23 西太后
こゝで、西太后について少し触れておこう。彼女の宮廷での相談相手はアメリカ人、イギリス人そしてアメリカ人と続いた。当初は宮廷内で西洋文化に触れた、近代的な指導者として西洋からは見られていた。巷間、彼女が保守派に位置付けられているのは、義和団事件への加担及び戊戌の政変からの解釈による。更に養子としての光緒帝の毒殺、紫禁城脱出のどさくさに紛れて、彼の寵愛を受けていた側室、珍妃を井戸に投げ捨て殺害した事、更に日清戦争の敗戦の一端とも言われる軍事費の私的流用が大きいのではないか(最も後に弁済しているのだが)。旧来の因習に固執した権勢欲の強い女帝の如き書き方が広がったのが、世評をミスリードしたのだろうか。
しかしながら、彼女は支那の悪しき因習、纏足廃止の勅令を出した事を記憶すべきである。決して中共が廃止したのではない。彼女は指導者として支那近代化の為、女性の社会への進出や未来を担う若者を海外に留学させた功労者でもある。因みに、孫文の妻や蒋介石の妻も彼女の政策支援の一環として留学した女性であった。
彼女は大清帝国を西欧列強と比肩する、近代国家に改造しようとした開明派なのである。英国の国力の礎を立憲君主制と看過し、皇帝を中心とした立憲君主制への移行を視野に、西洋諸国の選挙制度を取り入れるべく動いた事は先見の命があったと思うが、清朝の延命が主題であった事は否めない。
彼女はこんな一面も持ち合わせていた。義和団事件での外国人排斥の忌まわしさを払拭するべく、各国公使夫人を招いて宮廷で晩餐会や舞踏会、演奏会を催した。大概ピアソンの娘、德齢と容齢にそれらの一切を任せていたのだが、二人がピアノ演奏会で演奏者として楽曲を披露する立場にあった時、全ての差配を任せたのが直隷総督、袁世凱であった。彼は日清戦争敗戦の責任を負わされた、李鴻章の後継者である。最後に切り捨てた者の配下も登用する度量が彼女にはあった。
彼女の悪評は矢張り、義和団事件への加担と光緒帝の毒殺が大きく影響した。しかしながら、彼女なりの理由があるので披露しよう。光緒帝暗殺の発端は、彼の廷臣、康有為等からの西太后排斥乃至は暗殺計画があったからだ。康一派は光緒帝親政を目指し、権力の一元化を目指したが失敗して国外逃亡、投獄された。義和団事件により紫禁城からの脱出を余儀なくされ、外国軍隊の北京進駐、西安からの帰京と続いた経験から、彼我の国力差を痛感した彼女は、それ以降穏当な改革を目指したが、皇帝一派にとっては守旧派に見えたのだろう。
後に、日本から伊藤博文を皇帝の顧問として招聘しようと皇帝派が画策した事件があった。当時、日清戦争の記憶よりも日露戦争の結果から、東洋が西洋を凌駕出来る事を目の当たりにして、大清帝国には日本帝国と連携若しくは合併すら考える者が出て来た。彼等は日本から学べと、多くの者が日本に留学し、あらゆる知見を祖国に持ち帰った。伊藤の招聘もその一環として扱われた。
これに反対したのが西太后であった。日本帝国との連携は大清帝国がその傘下に入る事であると見た彼女は、伊藤の皇帝との謁見をそれのみに抑え、その場で皇帝から伊藤への顧問要請を封殺したのだ。
閑話休題
この時、皇帝の顧問に伊藤が就任していたならば、朝鮮での暗殺もなかったろうし、大清帝国も政治改革によって延命出来たかも知れないし、両帝国がオーストリア・ハンガリー二重帝国や大ブリテン及び北アイルランド連合王国の如き歩みを進めた可能性すらあったゞろう。そうなると、日清二重帝国の誕生は、欧米のアジア進出を躊躇させ、却って日清二重帝国の海外進出すら想起させるのではないか? 後世、日清○○会社、日清××商事などの企業が世界を席巻していたかも?
話しを戻すと、これに反発した張之洞等光緒帝派は、新聞やマスコミを通じて、光緒帝の改革派としての世論を作り上げようと動いていたが、光緒帝派も一枚岩ではなく、親日派も紛れており、政府としての方針をまとめなければならなかった。皇帝の命は必ず西太后に上げられるので、皇帝派で政府をまとめるのは困難であり、却って彼女の意図を汲んだ政府になっている。




