22 西太后の依頼
1908年、セガランは大清帝国の要請に拠って北京に派遣された。公式には翌年だったが、西太后からの強い要請により、1年前倒しで実施されたのだ。これをフランス共和国政府も大清帝国も何故、1909年としたのだろう。
これは想像だが、西太后の相談相手、ルイーザ・ピアソンと彼女の娘が関係していると思われる。ピアソンの夫、裕康は駐日公使や駐仏公使を歴任した外交官であった。彼には三男二女の子がいて、フランス赴任に同行して、パリで4年を過ごした。この間、子供達はフランス語や英語、社交界マナー、写真技術、舞踊等を学んだ。
姉は徳齢(作家として著名)、妹は容齢(モダンバレエ家として有名)と言い、帰国後西太后によって宮廷に、女官頭として召し出され、各国公使夫人の通訳や晩餐会での食事マナーの指導に当たっていた。又、宮廷での写真は、兄によって撮影されていた。
フランス生活に於いて、公使夫人としてフランス共和国政府の要人との交流や著名な舞踏家、著述家等との交際から、西太后に入れ知恵したのはルイーザ・ピアソン及び徳齢、容齢の姉妹ではないか、との推測がされる。
場所は頤和園、紫禁城から見て北西15km程に位置する皇室の庭園内にある西太后の別邸で、セガランとの謁見があった。
「セガラン様、どうかゆるりとお寛ぎ下さい」
そう言って、ルイーザ・ピアソンは緊張していたヴィットル・セガランの気持ちをほぐそうとした。そう言われても、セガランの表情は硬かった。そうであろう。大清帝国の舵取り、西太后を目の前にして、一介のフランス海軍医官が親しく会話をするなど、想像も出来ない事だったから。
「はい」
彼の声は上ずり、その声から緊張しているのがはっきりと見て取れた。
「太后陛下はフランス語が話せませんので、私が通訳します」
そう言うと、彼女は西太后に何やら支那語で話し掛けた。暫し間を置いて、西太后が彼女に何かを伝えた。
「太后陛下が言うには『もっとリラックスして下さい。そうしないと話しが出来ません』と仰っております」
「ありがとうございます。何分このような事に慣れておりませんので、ご容赦願います」
ピアソンが通訳し、西太后が何かを伝える。
「何か飲まれますか?」
「はい。出来ましたら、ワインを」
それだけ言うのがやっとのセガランであった。ピアソンの命令で、女官がセガランの座る椅子脇に置かれているテーブルに、グラスワインを置いた。それをゆっくり飲み干して、一息継いだ様子のセガランであった。
「これで人心地致しました」
「それはようございました」
ピアソンの通訳で少し西太后が微笑んだ。そしてピアソンに何かを伝えた。
「セガラン様。本来でしたら来年にお招きして、疫病対策に取り掛かって頂く処、太后陛下の御要望で一年早く来て頂きました。その理由は、貴方に清国の遺跡調査に従事して頂きたいからです」
「遺跡調査ですか?」
「そうです。その中で、秦朝と隋朝の遺跡調査をメインにお願いするものです」
「二朝の理由は何でしょうか?」
ピアソンは西太后と話し込み、彼女の了解を得て話し出した。
「この二朝は財政基盤が盤石で、国力の衰退期にはありませんでした。しかしながら、臣下の反乱や内乱で滅亡した為、莫大な財宝を残していた、とされております。特に隋朝は国力が桁違いに延びていた時で人口、交易、農産物は目を見張るものでした。ですので、北京、咸陽、西安の遺跡調査をお願い致します。何か質問はございますか?」
「今、お話しをお伺いしたばかりですので、何と言って良いやら・・・ しかしながら、私に全てをお任せ頂けるのでしたら、お引き受け致します」
「ありがとうございます」
ピアソンは西太后に、彼女の依頼をセガランが承諾した事を伝えた。それを聞いた西太后は、何やらピアソンに話した。
「ありがとう、セガラン殿」
西太后は直接、セガランに英語で謝意を伝えた。
「太后陛下は英語が話せるのですか?」
「否。貴方に直接お礼を言いたいと言われましたので、私がお言葉をお教えしました」
「そうでしたか。それにしてもお言葉を頂き、感謝申し上げます」
ピアソンは彼とのやり取りを西太后に伝えた。彼女は又もや嬉しそうに微笑んだ。
こうしてセガランの大清帝国での調査が始まったのだが、既に西太后は体調を崩し、余命幾ばくかであった。




