2 支那の遺跡を探る男
永済渠;黄河と天津を結ぶ運河で、既存の運河と合わせ、北京への通恵河へ通じた。
男は手始めに、隋の煬帝が築いたとされる万里の長城近辺の遺構を探し求めた。長城の北方の起点はそこから始まるからだ。そしてその多くの遺跡は破壊されたか、盗掘されたか、はたまた風化して跡形もなくなっていた。残されたものは石碑等であった。男は更に、隋の財政を傾けたとされる、608年に開通した永済渠も調べた。
彼は未だ清国に来て日が浅く、支那語も理解していなかったし、漢字も読めなかった。全てを通訳に頼らざるを得なかったので、出来るだけ、石板などは写真に残すか、模写していた。文字は模写か拓本で残した。写真は大層金の掛かる道具だったから、遺構の全体像やら石碑の全景などに使用して、経費を抑えていた。
そうした調査が何ヶ月か続き、彼の技術も上がり、採取した拓本や写真が結構な数になった。それを彼は通訳を通じて紫禁城の西太后に送った。一週間程遅れて紫禁城から来る返信は「該当せず、引き続き調査せよ」だった。
更に月日は経ち、清国第11代皇帝光緒帝、愛新覚羅載湉の崩御と第12代皇帝宣統帝、愛新覚羅溥儀の即位が北京から伝わった。それでも調査は続けられた。
調査を継続していた彼の元に紫禁城から緊急の知らせが届いた。彼に調査を命じた西太后の逝去の知らせだ。それを受けた彼は調査の中止を決断し、北京への帰途に心を切り替えた。
ところが、彼の調査中止は直ぐに撤回されたのだ。続く紫禁城からの連絡に、調査の継続が摂政王、醇親王載灃から強く求められていたからだ。
そして調査範囲が支那中央部へと指定された。恐らく宮廷内部の方針変更に伴う決定であろう。権力が西太后の死去により、孝定景皇后乃至は袁世凱へ移行したのだろう、と彼は考えた。
政権内部の争いに彼は興味を示さなかったが、調査資金については別だ。北京近郊から中央部への移動に係る調査隊の経費が送られて来る迄、調査隊は動けなかった。全員がこの調査の為に選出された者であり、従前の仕事を辞めて従事する者も相当数いたから。
移動費が送られて来る間、彼は調査地域の変更について考えた。何故変わったのか? そもそも彼等の求めているものは何か? 調査に係った当初からその疑問を彼は持っていた。何故か、彼には調査目的が明かされていなかったのだ。唯、秦や隋の建国資料の調査とだけ言われていたから。
数日遅れで移動費用が送られて来た。彼はその中から少ない金額ではあったが、雇人に平等に金銭を渡した。明朝の出発を全員に伝えると、彼は己の荷物の整理に掛かった。少ない金額ではあるが、それを手にした者の内、幾人が明日の朝迄、残っているだろうか。雇人の中に東北地方や満州出身者がいたので、その者達が見知らぬ土地、西安に付いて来るのだろうか、彼は自信がなかった。手切れでも良いと考えたから金銭を渡したのだろう。
翌日の出発、調査隊の員数はそう変わらなかった。秦の都は咸陽であり、隋の都は長安や洛陽であった。一団は手始めに陝西省の咸陽市と西安市に向かう事にした。
戦国時代の中原に覇を唱えた国が秦である。統治は紀元前221年から紀元前207年の14年間。
南北朝の混乱を鎮めた隋は武力によって西域支配を回復し、突厥も力で圧迫した。隋の時代に人口は60%近くも増加した。それは国力が増した事であり、経済も西域を支配した事により急拡大し、空前の好景気によって民衆の生活が向上した事と、戦のない太平の世を実現したからであろう。統治期間は581年から618年の37年間。二朝は共に、弐代、参代皇帝で終焉を迎えている。中国歴代王朝の中で短命に終わった帝国はこの二つしかない。
秦の皇帝を2代としたのは、3代子嬰が趙高により秦王として擁立された為、カウントしません。