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秘密の共有者

リーベルト邸の応接室は、午後の陽光に包まれていた。窓から差し込む光が、テーブルに置かれた紅茶のカップを照らしている。


カティアはソファの縁に腰をかけたまま、じっと扉を見つめていた。手は膝の上で組まれたまま、冷えているのに気づかない。


眠れぬ夜を越えた朝。『許されるだろうか』その問いだけが、胸を締めつけていた。


「お嬢様、大丈夫ですよ」


リリーが優しく声をかける。メイドとしての立場を超えた、親友のような温かさがそこにあった。


「ありがとう、リリー。でも――」


ノックの音が、言葉を遮った。


扉の向こうから執事の声が響く。


「お嬢様、グラーデン侯爵様がご到着です」


カティアの心臓が跳ねた。


「お通しして」


わずかに震える声を自覚しながらも、命じる。


足音。ドアノブが回る音。空気が張り詰めた。


現れたのは、昨日と同じ黒の団服。ジークハルト・フォン・グラーデンが、静かに一礼する。


「リーベルト嬢」


その声音に、冷たさはなかったが――距離があった。


「昨日は……感情的になってしまった。申し訳ない」


椅子に腰を下ろしながら、率直に謝罪の言葉を口にする。


「驚かれるのは当然です。私こそ、もっと早くお話しするべきでした」


リリーが静かに紅茶を注ぎ、場に一瞬だけ、穏やかな空気が流れる。


「事情を詳しく聞かせてください。昨夜、ずっと考えていました」


カティアは一度だけ深呼吸し、言葉を選びながら話し始めた。


「すべての始まりは、三年前の『青い月』の夜です」


あの夜の庭。母の育てていた虹色パプリカのそばで、不思議な光が現れたこと。青白い粒子が宙を漂い、指先に触れた瞬間、肌に溶け込んだこと。


「そのときは、ただ体が少し温かくなっただけでした。でも――今年の誕生日に、変化が起きました」


野菜畑で突然起きた変身。眩い光に包まれ、自分の姿が『マリー』に変わった瞬間。


「その日から、私は……変身できるようになったんです」


ジークハルトがわずかに身を乗り出す。


「自覚したときの変化は?」


「最初は三時間が限界でした。でも、虹色パプリカを食べると少しずつ持続時間が延びて、今は五時間ほどに」


「虹色パプリカ……そんな効果が」


驚きはしたが、すぐに理解の色が浮かぶ。ジークハルトは一言一句を逃さず聞いていた。


「変身できるようになってから、私は下町でマリーとして過ごし始めました」


最初はただの興味だった。けれど、人々と接し、悩みを聞くうちに――


「何かをしたいと思ったんです。けれど、カティア・フォン・リーベルトとしては何もできなかった。でも、マリーとしてなら」


飾らない言葉に、熱がこもる。


「母が研究していた虹色パプリカには、青の粉の影響を和らげる効果があると分かってからは、確信を持って動けるようになりました」


ジークハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。


「……私も、貴族という立場に縛られたくなくて、領地を弟に任せました。騎士として、実力で国に仕えたいと思ったんです」


その言葉に、カティアは少し驚いたように目を見開いた。


「だからこそ、あなたの決意も理解できる」


目が合う。信頼の火が、ゆっくりと灯った。


「やっと……打ち明けられましたね」


リリーが安堵の笑みを浮かべる。


「リリーがいてくれなかったら、ここまで来られなかった」


カティアが微笑み返す。


「お嬢様の秘密を守るのは、私の役目ですから」


三人の間に、ようやく温かな空気が流れた。


その雰囲気を破るように、ジークハルトが顔を引き締める。


「――これで、我々は同じ目標に向かって動けます」


カティアが、ふと声の調子を変える。


「……お話ししなければならないことがあります。ギルバート・ヴァイン医師のことです」


ジークハルトの表情がわずかに動く。


「ギルバートが……何か?」


「王宮で、偶然聞いてしまったんです。ヨハン料理長と密談していました。帝国の皇太子のためだとか――」


その言葉に、ジークハルトは一瞬息を止めた。


「まさか……ギルが、帝国の?」


低く絞り出すような声。椅子に背を預けた彼は、しばらく口を閉ざしていたが――


「……彼は、俺の命の恩人なんだ」


その瞬間、一人称が変わっていた。自分でも気づかぬうちに、感情が言葉に染み出していた。


「まだ騎士団に入って間もない頃だった。国境での戦で、帝国兵に毒を塗られた短剣で刺されて……」


当時の記憶が、鮮明に蘇る。


「意識が遠のいていく中で、現れたのがギルバートだった。丸眼鏡に、やけに落ち着いた声で」


『大丈夫です。すぐ良くなりますよ』


「そう言って、迷いなく解毒し、縫合して、魔法で傷を抑えた。戦場の真ん中で、まるで……俺を見捨てる気なんて、これっぽっちもなかった」


「『王国騎士団の医師、ギルバート・ヴァインと言います』って――」


そのときの会話が、耳の奥でよみがえる。


「それから毎日、様子を見に来てくれた。軽口も叱責も交えて……俺は、心から信じてたんだ」


目を伏せたジークハルトは、しばらく言葉を失った。


「……だからこそ、今は信じたくない。あいつが……帝国と繋がっていたなんて」


拳が静かに震えていた。


カティアはそっと言った。


「スパイだったとしても、あの時あなたを助けた気持ちは、嘘じゃなかったかもしれません」


ジークハルトはゆっくり息を吐いた。


「……そうだな。今は、まだ決めつけるべきじゃない」


「とにかく、今できることを」


そう言って立ち上がり、鞄から一枚の紙を取り出す。


「王都の地図です。青の粉による体調不良の報告箇所を、ここに記していきます」


テーブルいっぱいに広げられた地図には、王都の通りや区域が細かく描かれている。ジークハルトが騎士団の報告を元に、印を次々とつけていく。


「ここは商業区……そして、こちらは下町」


「ブラウン青果店の近所では、高齢者の方が特に弱っていました」


リリーが指をさしながら補足する。カティアも思い出せる限りの情報を口にした。


「貴族街でも実は被害が出ているけれど、表立っては言われていないわ」


気づけば、地図のあちこちに赤い印が点在していた。ジークハルトがふと手を止め、地図をじっと見つめる。


「……なんか妙だな」


「妙……ですか?」


リリーが首をかしげる。


ジークハルトはいくつかの印を指でなぞった。


「被害が集中しているところに何か見覚えが」


その言葉に、カティアがはっと息を呑む。


「記念塔……! 帝国友好記念塔が建設された場所!」


ジークハルトが勢いよく顔を上げ、リリーも手を止める。


「記念塔?」


「王宮で、ヨハン料理長の部屋にあった建設進行表に記されていたの。七つの塔が王都の各地に……」


震える手で地図と並べるように資料を広げた。


三人が身を寄せて見比べた瞬間――息を呑むような一致が目の前に現れた。


「まさか……」


「嘘だろう……」


「間違いありません……完全に重なってる」


三人の声が重なり、部屋に静寂が落ちる。


ジークハルトの声が低く響いた。


「ヨハン料理長が、なぜそんな資料を……」


「やっぱり、記念塔はただの友好のシンボルじゃなかったんだ」


カティアの声に、確信がにじむ。


ジークハルトは別の資料を取り出す。


「これが、騎士団で確認していた建設計画図だ。何の問題もなかったはずだが……」


「被害が広がっているのは、まさに塔の周辺……」


リリーが顔をしかめる。


「つまり、塔が何かを『放っている』か、『集めている』か……」


「どちらにせよ、青の粉と無関係とは思えない」


ジークハルトの言葉に、部屋の空気が一段と緊張を帯びた。


三人は再び地図に目を落とす。帝国の陰謀の輪郭が、ようやく姿を現し始めていた。

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