料理の力
早朝。 カティアはそっと小さな籠を手に取った。中には、布で丁寧に包まれた二つの虹色パプリカ。昨夜、リリーが特別に保存容器から取り出してくれた大切な野菜だ。
「お嬢様、こちらに香辛料と調理道具も入れてあります」
リリーが小ぶりな布袋を手渡すと、カティアは感謝を込めて微笑む。
「ありがとう。今日の料理がうまくいくといいわね」
「大事な虹色パプリカですから、一つだけ使って、もう一つは取っておきましょう。次の実験のためにも」
「ええ、そうするわ」
二人はリーベルト邸を出発し、馬車でいつもの場所へ向かった。 降りた先の路地裏で、カティアは深く息を吸い込み、周囲を確認すると、静かに手をかざす。
淡い光が彼女の姿を包み込み、カティアは「マリー」へと変身した。
***
「おはよう、マリー! 今日も来てくれたの?」
ブラウン青果店の前に座るマーサが、手を振って声をかけてくる。 足の骨折はまだ完全ではないものの、表情は明るく、少しずつ快方に向かっているようだった。
「おっはよ〜マーサさん。調子はどうだい? 足、くっついてきた?」
「ええ、おかげさまで。今日はお日様にあたりながら、店番気分よ」
「いいじゃないの〜。あんまり張り切りすぎて、またゴロンっていかないようにね?」
にっこりと笑いながら店の中へ入ると、トーマスが野菜を並べる手を止め、こちらを見やった。
「おや、マリー。今日は何か持ってきたのかい?」
「ふふ、ちょっとね。特別な野菜を使って、みんなに元気の出るご馳走をふるまおうと思ってさ」
マリーは籠の中の包みをそっとめくる。現れたのは、まるで宝石のような光沢を放つ虹色パプリカ。 その鮮やかな色に、店にいた客たちも思わず足を止めた。
「うわぁ……こりゃすごい色だ」 「こんな野菜、初めて見たよ!」 「どこで手に入れたの? 売ってるの?」
「ふふっ、これはね、特別な栽培法で育てたの。満月の夜に収穫したパプリカなのよ〜。今日はこれでスープでも作ってみようかと思ってるの」
にこやかに語るマリーの視線が、ふと店の奥にとまる。 隅の椅子に腰掛けた一人の男。製靴職人のクラインだ。
普段は陽気で声も大きな男だが、今日はどうにも様子がおかしい。顔色は青白く、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
「クラインさん、どうしたのさ。元気ないじゃない」
声をかけると、彼は重たげに顔を上げてかすかに笑った。
「……マリーさんか。なんだかこのところ調子が悪くてね。朝から頭がズキズキして、体がだるくてたまらないんだ」
すると、マーサがそっと声を潜めて言った。
「……実はね、最近あの人、例の青の粉を使い始めたのよ。『味が良くなって、夏バテにも効くらしい』って誰かに勧められて……」
「そっか……そりゃ、ちょっと心配だねぇ」
マリーは思わず眉をひそめたが、すぐに気を取り直す。 今こそ試すべき時だ。
「ねぇ、マーサさん。ちょいと台所を貸してもらえるかしら? クラインさんにも、うちの特製野菜で元気出してもらいたくってさ」
「もちろんよ! 私もお手伝いするわ」
「ありがと。でも今日はね、あたし一人でやらせておくれよ。『秘伝のレシピ』ってやつなの」
マリーはウインクして、店の奥にある小さな台所へと足を運んだ。
店の奥にある簡素な台所。 マリーは持参した籠をそっと置き、まずは虹色パプリカを一つだけ取り出した。もう一つは次の実験のために大切に籠の中に残しておく。
「さて、やるとするかねぇ……! 一個しかないんだから、失敗は許されないよ」
袖をまくり、手を洗ってまな板にパプリカをのせる。 ナイフを入れると——ぱつん、と心地よい音を立てて実が割れる。 その瞬間、部屋いっぱいにふわりと甘く爽やかな香りが広がった。
「……いい香り。うん、これならきっと効くはずだわ」
切り口は、まるで光を含んだように虹色がきらめき、見る者の目を惹きつける。 マリーは思わず息を呑んだ。まるで光そのものを閉じ込めたような、幻想的な輝き——それが、この野菜の「力」を物語っていた。
「こんなにきらきら光るなんて……一欠片でも強い力があるはずだわ」
台所の入り口では、リリーがそっと様子を伺っていた。
カティアがマリーの姿で、黙々と包丁を握っている。
(……やっぱり、お嬢様は料理してるときが一番自然ですね)
彼女は何も言わずに、その背中を静かに見守っていた。
鍋に火をかけ、香辛料とスープの素を合わせて、彩り豊かな具材を入れていく。 パプリカは最後に加え、ゆっくり、丁寧に火を通す。
「ほんとにね、ちょ〜っとでいいのよ。この虹色パプリカったら、一欠片でお鍋ぜんぶに魔法みたいなキラキラと香りが広がるんだから!」
マリーは慎重に包丁を動かし、虹色パプリカを極薄切りにしていく。一枚一枚が宝石のように輝き、スープの中に入れると、その色と香りが鍋全体に広がっていった。
特別な野菜をほんの少し添えるだけで、料理はどれも驚くほど華やかに変わる。
普段、貴族令嬢として過ごすカティアは、料理を人前ですることはない。 けれどマリーとしてなら、こうして人前で料理をしても自然だ。 なにより、マリーの姿になると指先が不思議と軽やかに動く。
「ふふっ、こっちの身体のほうが料理向きかもねぇ」
火加減を見ながらスープの味を調え、仕上げに少しの香草を散らして——完成。
「よし、できたわよ」
マリーは器を並べ、できたてのスープを一つひとつ丁寧によそった。 虹色のパプリカがとろりと溶け込んだスープは、目にも美しく、香りも格別だ。
「さあさあ、みんな、お待たせ! あったかいうちに召し上がれ!」
店内に戻ると、すでに匂いに誘われて集まっていた客たちが、わっと歓声を上げる。 クラインには、特別に大きな器でよそったものを手渡した。
「いただきます!」
みんなが声をそろえてスプーンを手に取り、口へと運んだその瞬間—— ふと、店内に静寂が降りた。
しばしの沈黙のあと、一人がぽつりとつぶやく。
「……なんて、優しい味なんだ」
「体にじんわり沁みてくる……」 「これ、まるで……薬じゃなくて、魔法みたいだよ……」
驚きと感動が交錯し、店内は一気に明るくなる。 マリーは笑顔を浮かべながらも、じっとクラインの様子を観察していた。
最初、彼は半信半疑の表情でスープを一口すすった。しかし二口、三口と飲み進めるにつれ、その表情にわずかな変化が現れ始める。額に寄っていたしわが少しずつ緩み、こわばっていた肩の力が抜けていく。
「変だな…」クラインはスプーンを持つ手を止め、首を傾げた。「なんだか、頭の重さが少し楽になってきたような…」
さらにスープを飲み進める彼の顔色は、みるみるうちに明るさを取り戻していった。青白かった頬に血の色が戻り、うつろだった瞳に生気が宿り始める。
マリーは内心で深い喜びを感じながら、さりげなく尋ねた。「どう?少しは楽になった?」
「ああ、信じられないよ」クラインは空になった器を見つめ、驚きに満ちた声で言った。「朝までずっと重たかった体が……軽くなってる。頭痛も、もうない。すっきりしてる」
マリーは穏やかに微笑んだ。心の中では静かな喜びが波のように広がっていた。やはり、虹色パプリカには——あの青い粉の悪影響を打ち消す力がある。確信に近い手応えを感じた。
「おかわり、いるかい?」
そう笑って器を差し出すと、クラインは目を輝かせて頷いた。
「ぜひ!……いや、本当に元気が出てきたよ。これ、すごいよ、マリーさん!」
スープをきっかけに、炒め物、サラダ、パンに塗るソースまで、マリーは一つの虹色パプリカの力を最大限に活かし、少量ずつ使って複数の料理を作り上げた。どの料理も一口食べた人から感嘆の声が上がる。
「たった一つの虹色パプリカであんなにたくさんの料理ができるなんて」とリリーがマリーに小声で言うと、マリーは得意げに微笑んだ。
「特別な野菜だから、少しでも効くのよ。切り方や使い方で、力の出し方も変わるんだよ」
やがて、満腹になった客たちは笑顔を浮かべながら帰っていき、店には穏やかな余韻が残る。
「マリーさん」
クラインがそっと近づいてきて、真剣な声で問いかけた。
「今日の料理と、あの青い調味料……なんか関係あるのか?」
「うん、ちょっとだけね。あたしが使った野菜には、体の中に溜まったよくないものを追い出す力があるのかもしれない。たぶん、それが効いたのよ」
「……なるほどな。こりゃ、あの青い粉とは比べものにならないな」
クラインは頷き、ふっと表情を引き締める。
「もう、あんなもんは使わない。今日みたいな料理の方が、よっぽど体に効く。みんなにもそう伝えるよ」
「ありがとね。こうやって気づいてくれる人が増えれば、それだけでもう十分」
マリーはにっこりと笑って答えた。
ふと窓から差し込む日の光の角度に気づき、もうすぐ変身の魔法が切れる時間だと悟った。胸の奥で小さな焦りが灯る。この状態で変身が解けてしまったら大変だ——貴族令嬢カティアが、下町の八百屋にいるところを誰かに見られでもしたら。
「あら、もうこんな時間!」
マリーは、隣にいるリリーと目を合わせ、小さくうなずき合った。リリーは静かにマリーの籠を手渡し、その中にはまだ一つ、使わずに残した虹色パプリカが大切に包まれていた。
「マーサさん、トーマスさん、今日はほんとにありがと。また来るからね!」
「いつでも待ってるよ、マリー!」 「今度はまた別のお料理、頼むわよ!」
ふたりの笑顔に手を振り返し、マリーは籠を抱えて店を後にした。変身の時間制限に追われるように、彼女は足早に路地を曲がっていく。
虹色パプリカの力と、人々の笑顔。今日のすべてが、彼女の胸に温かく残っていた。