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満月の恵み

夜空に浮かぶ満月が、リーベルト邸の裏庭を銀色の光で照らしていた。高い塀に囲まれたこの小さな庭園は、表から見える華やかな庭とは違い、実用的な野菜や薬草が整然と植えられた、家族だけが知る秘密の空間だ。


カティアは母イザベラの研究ノートを手に、虹色パプリカの育つ区画へと静かに歩を進める。薄手のマントの裾が夜風に揺れ、彼女の緊張した吐息だけが、澄んだ空気を震わせた。


「お母様のノートによると、満月の夜に特殊な光の反射を利用するのが重要……」


手元の記述を確かめながら、カティアは植物に向かって慎重に反射板を設置していく。今夜は、誰にも見られずに作業できる絶好の機会。静寂と月光が支配する庭で、彼女は真剣な眼差しを向けた。


夜会の翌日。二日後に控えたエドガー殿下の庭園訪問に向けて、どうしても虹色パプリカを間に合わせたい。その強い思いが、彼女の指先にわずかな震えをもたらしていた。


「これで……大丈夫」


設置を終えたカティアは、一歩下がって光の流れを確認した。反射板を通った月光が、やわらかなヴェールのように植物全体を包み込む。


理論どおりなら、この光の当て方でパプリカの成長と効能は飛躍的に高まるはず。カティアは月明かりに照らされた葉が、ゆっくりと空へ伸びる様を見つめ、息をのんだ。


母の研究は、やはり正しかった——。


「お母様…お母様の研究が、今、実を結ぼうとしているわ」


心の中でそう呟きながら、彼女はその場に立ち尽くす。静けさに包まれた庭で、月光を浴びる植物たちを見守る彼女の胸には、揺るぎない決意が芽生えつつあった。


***


エドガー殿下の個人庭園は、王宮の東側にひっそりと広がっていた。公式の庭園とは違い、ここは彼自身がこだわりと愛情を注いで育てている私的な空間だという。


カティアは執事のウォルターに付き添われ、木々に囲まれたその入り口に立っていた。


「カティア嬢、ようこそ。よく来てくれたね」


快活な声とともに現れたのは、三日前の夜会で見た時よりもさらに親しみやすい雰囲気をまとったエドガーだった。今日は正装ではなく、作業に適した軽装。手には剪定用の小さなはさみを携えている。


「殿下、ご招待いただき光栄です」


カティアが丁寧に頭を下げると、彼は軽やかに笑った。


「どうか『殿下』なんて堅苦しい呼び方はやめてくれ。ここではエドガーでいいんだ。植物と向き合うときくらい、肩の力を抜こうよ」


その口調には、王族としての品位を保ちながらも、不思議と気取らないやわらかさがあった。


「それじゃあ、見せたい場所があるんだ。ついてきてくれるかい?」


彼はそう言ってカティアを庭の奥へと導く。ウォルターには入り口で待つようにと目配せしていた。


庭園の内部は、カティアの予想をはるかに超えていた。整然と区画分けされた花壇、珍しい果樹、そして色とりどりの野菜の実験栽培区画——すべてが秩序と創意に満ちていた。


「素晴らしい庭園ですね……」


思わず洩れたカティアの声に、エドガーは満足げに頷いた。


「ありがとう。政務や儀式の場では、常に誰かの目があるからね。ここにいると、やっと私自身でいられる気がするんだ。君も、野菜を育てるのが好きなんだろう?」


「ええ。土と向き合っている時間が、何より好きです」


「さすがイザベラの娘だ。その才能、確かに受け継いでいる」


言葉に敬語こそなかったが、そこには自然な敬意と温かいまなざしが宿っていた。


「私は特に、一般の民の食生活を豊かにする野菜の研究に力を入れていてね。王族だからこそ、民の暮らしを支える責任があると思っている」


その真摯な言葉に、カティアは自然とエドガーの顔を見つめ返していた。


「それは素晴らしいお考えです。私も、同じ思いでいます。だからこそ……」


少し躊躇したが、彼女は覚悟を決めて、小さな箱を取り出した。


「こちらは、私が育てた特別なパプリカです。お母様の研究をもとに育てました。お土産にと思いまして」


エドガーは興味深そうに箱を開け、中の虹色パプリカを見て目を見開いた。


「これは……まさか、虹色パプリカ! イザベラの研究していた幻の野菜じゃないか」


「ええ。昨夜、満月の光を利用した特殊な方法で育てたものです」


エドガーはパプリカを手に取り、太陽の光にかざしてじっと見つめる。七色の輝きが彼の表情をやわらかく彩った。


「すごいじゃないか。こんな育成法を会得するなんて、並の努力じゃできない。カティア、君の才能には本当に感心するよ」


その率直な称賛に、カティアは少し照れたように微笑んだ。


「お母様のノートのおかげです。でも……実は」


「ん?何か気になることでも?」


「このパプリカには、青の粉の影響を和らげる可能性があると考えているんです」


エドガーの目がわずかに細められたが、すぐに穏やかな表情へと戻った。


「青い粉……最近、下町でも名前を聞くようになったな。私もずっと気にしていたところなんだ」


「下町の人々の体調不良が、どうやらそれに関係しているようで」


「ああ。それに、上流階級では植物の活性剤として重宝されてる。この違い、どうにも腑に落ちないよね」


そう言って、彼は再び虹色パプリカを見つめたのち、静かに箱へと戻した。


「実は私の方でも、少し調査を進めていてね。見せたいものがあるんだ。こっちへ来て」


そう言って彼は庭の奥へと歩き出す。カティアも静かにその後を追った。


彼らが辿り着いたのは、小さな温室だった。透明な天井から差し込む陽光が、内部に並んだ植物たちを優しく照らしている。


「ここでは、青の粉が植物にどう作用するのかを観察しているんだ。まだ仮説段階ではあるけれど、代謝に何らかの阻害が生じている可能性がある」


中には、青い色素を含んだ土壌で育てられている鉢植えがいくつも並んでいた。一部の葉には変色やしおれが見られ、その影響は明らかだった。


カティアは目を細めながら、それぞれの植物の様子をじっくりと観察する。


「これほどまでに……。見た目には分かりにくいですが、確実に影響が出ているのですね」


「そうだ。効果が強く現れるまでには、ある程度の使用回数や蓄積が必要なようだ。つまり、ゆっくりと体に入り込み、やがて蝕んでいく……そんな類のものかもしれない」


エドガーの表情には、わずかだが真剣さと焦りが混ざっていた。カティアはその視線の先にある枯れかけた葉を見つめ、唇を引き結ぶ。


「私たちの立場だからこそ、真実を見極め、行動するべきですね」


「まったく同感だよ。だから、君のような人が協力してくれるのは、本当に心強い」


エドガーはそう言ってカティアに振り返ると、ためらうように手を差し出し、そっと彼女の手に触れた。ほんの一瞬、その温もりに指先がとどまり、視線が交わる。


「君となら、青の粉の謎もきっと解明できる。そう信じているよ」


カティアは微笑み、静かにうなずいた。


***


リーベルト邸に戻ったカティアは、書斎で静かにペンを走らせていた。ノートには、今日の訪問で得た情報が細かく記されていく。


「エドガー殿下……信頼できる協力者になってくださるかもしれない」


彼の真意までは測りきれないものの、今はこの協力関係を大切に育てるべきだとカティアは思っていた。


ふと目をやると、机の上には残り二つの虹色パプリカが並んでいる。その輝きは、どこか未来への希望を映し出しているようだった。


「明日はジークハルト様と会う日。今日のことをしっかり伝えて、次の『マリーの日』に、この虹色パプリカを料理に使ってみようと思うの。少しでも、誰かの助けになればいいんだけど」


横で控えていたリリーが、穏やかな声で頷く。


「わかりました、お嬢様。保存容器は冷暗所に移しておきますね。パプリカの鮮度は私が責任を持って管理いたします」


「ありがとう、リリー。あなたの協力がなければ、この二重生活は到底続けられないわ」


窓の外では、夕陽が王都の屋根を金色に染めていた。その静かな光景を見つめながら、カティアは深く息を吸い込む。


(カティアとしてできること、マリーとしてできること——どちらの視点も、私には必要な力)


彼女はノートを閉じ、明日のジークハルト様に報告するための準備へと向かった。

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