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雉も鳴かずば撃たれまい

作者: 暁海

とある夫婦の離縁の話。

好き放題に入り婿がしたらこうなるよね、という話。

白い結婚ではないですが、ざまあ要素は薄くあります。


 アルス伯爵家の執務室が突如賑やかになったのは、帰る家を忘れたような男が乱入してきたからであった。当主補佐の席に就いてたマルグリットはため息をつきつつ、傍に控えていた使用人の一人にお茶の準備を申し付ける。もちろん、二人分だ。

「何か御用でしょうか?」

久々に会ったが、だらしない空気が纏わりつき、体つきにもそれが現れている。流石に身なりは整えているようだが、どこかほつれたような雰囲気がある。

「ご挨拶だな。旦那様のご帰還だぞ」

ふんぞり返りながら、許可も出していないのにドカッと偉そうにソファに座った。

「失礼いたしました。お顔も忘れかけておりましたの」

これは本音だった。最後に会ったのは五年以上前だ。十年は経っていないと思うが、わざわざ記憶をほじくり返すのも億劫だ。

「お前、そんな生意気な口を……!私が当主になったら、田舎の領地で過ごすといい」

「言われずとも、そのつもりですよ。私は、そろそろ領地の城館に隠居する予定ですから。まだ引継ぎの仕事が残っているので、こちらにいただけですわ」

まだ小さかった子が成人年齢に達するほどの年月が経っているが、頭の中身は残念なままらしい。容姿は、若い頃は「社交界の貴公子」としてもてはやされた時期もあったのだが、いまとなっては「多少美しいだけのただの中年」と言ったところだろうか。美しい金の髪色はそのままだが、だいぶ生え際が下がってきている。体型も、色々誤魔化してはいるが、年相応だろう。

「そうか。義父上は相当お悪いのか」

眉尻を下げて心配そうな顔を作っているが、口元には隠し切れない笑みがにじみ出ている。

「ええ、まあ……」

一度も見舞いにも行かなかった癖に白々しい。マルグリットは不快感を貴婦人の仮面の下に隠した。

アルス伯爵家は、マルグリットの生家である。入り婿として入ってきたのが目の前の中年男だ。二十年前は、女性が爵位を継ぐことが出来なかったから、アルス伯爵家の一人娘だったマルグリットは婿を取るしかなかった。

その婿を吟味している時に、ブレイズ侯爵家の三男を紹介された。顔だけはいい遊び人など眼中に入っていなかったが、王家の外戚である公爵家からの頼みで断ることは出来なかった。

あれよあれよという間に婚姻を強行され、ブレイズ侯爵令息ジョンは、アルス伯爵家の嫡子となった。

だが、父は頭の中身が空っぽな上に浮気者のジョンを信用していなかった。何かと理由をつけて当主の座を譲ることなく十八年を過ごしたところで病にかかった。まだ治療法が確立されていない病で余命幾ばくもないと診断されても、アルス伯爵はその座を絶対に譲ろうとしなかった。

何故なら、マルグリットに二人の娘が生まれてから、ジョンは屋敷に帰って来なくなったのだ。それは、岳父であるアルス伯爵が所領の方に居を構えた時期とも一致する。

彼の浅はかな頭にも理解出来たのだろう。いずれ娘が婿を迎えた場合には、自分の立場は一気に弱くなる。伯爵の地位にしがみつこうにも、入り婿であるジョンが正当な血筋である父と同じように爵位の継承に猶予を与えられる可能性は低い。

「まさか父のお見舞いについての相談ですか」

お見舞いというよりも、遺言書と遺産探しかもしれないが。

「それもある。義父上には、アルス伯爵家に新たな跡取りが誕生したことをご報告しなければいけないからな」

「まあ、気が早いのではなくて?」

「何を意味の分からないことを言っている?私に息子が生まれたのだ。お前は娘二人しか産めなかったからな、仕方なく外に息子を作った」

馬鹿はどこまでも行っても馬鹿ね、とマルグリットは吹き出しそうになった。意味の分からないことを言っているのはそちらだろうと言い返したくなるのをぐっとこらえる。余計なことを言えば、長年の悲願が叶わなくなるかも知れないのだから。

「では、私と離縁なさるということでよろしいですか」

「は?」

「愛する方との間にお子がお生まれになったのでしょう?お子様には父親が必要ですわよ。寂しい思いをさせたらお可哀相でしょう?」

実の娘たちを放置したままだったことに対するイヤミも込めたが、通じているとかどうかは怪しい。それを考えるだけの頭がないことは理解している。貴族たちが義務として三年間通う学園でも、成績は落第すれすれ。どうにか及第点に達せたのは、教師たちに金を積んで何度も追試をしてもらったからだと専らの噂だ。

上の二人の兄たちは優秀で、侯爵を継いだ長兄も、首位で文官試験に受かった次兄も、ずっと主席を取り続けていた。一人だけ養子ではないかと疑われるほど、頭の出来が違ったのだ。もちろん、そんな事実はなく、更には種違い腹違いでもない。ジョンも二人の兄たちも、間違いなく先代のブレイズ侯爵とその夫人の子である。

「重婚は出来ませんからね。可及的速やかに私と離縁するのがよろしいかと存じますわ」

「それは……そうだが、お前はそれでいいのか?」

「構いませんわ。善は急げと申しますもの。すぐにアンナ・マリーを呼んで離縁届を作成いたしましょう。急げば本日中の離縁が叶いますわ。男性には再婚禁止期間がございませんから、明日の朝一番にでも愛する方と婚姻届を出されてはいかが?あまり時間がかかると、お子様が私生児になってしまいますわ。そうなってはお可哀相でしょう」

部屋の隅に控えていた使用人に言いつけ、長女のアンナ・マリーを呼びにやる。

「お茶でも召し上がりながら離縁届をご記入くださいませ」

来客用にも使う応接セットを勧めながら、ホスト側の席に座り、音もなく用意されたお茶のカップを手に取る。影から滑るように机上に出たのは離縁届だ。気配を押し殺すようにして立っていた執事のルイードが、二人分のペンとインク壺までテキパキと机に並べていった。

「では、私から先に書かせていただきますわね」

使い古したペン先をインク壺に浸してから、何の躊躇いもなくマルグリットは離縁届にサインをした。



 婚約者として父から押し付けられたマルグリット・アルスを見た時、ジョンは露骨に顔を顰めた。学園にいる間に婚約者が決まらなかった余り物というだけでも業腹なのに、爵位が下の伯爵家。おまけに、見た目と来たら、茶髪に茶色い瞳に加えてどこまでも凡庸な顔立ちをしていた。醜い訳ではないが、美しさとは程遠い。しかも、学園の成績は常に上位だったと聞く。

(こんな女しか宛がわれないのか)

学園在籍中に適当に遊んでいた女たちの方がよほど上等だ。少なくとも、美しい顔立ちや見事な体つきばかりだった。

初顔合わせの後、父に抗議をしたが、

「なら、平民になるか?成人した息子を養う義理はない。文官試験にも引っ掛からなかったのだから、侯爵家から出れば平民だ。それでいいのなら、すぐに手続きをする」

と、言われれば、何も言えなくなった。父の冷ややかな目には、次兄は楽々合格できた試験に箸にも棒にも掛からぬ馬鹿、と書かれていた。

仕方なくマルグリットと婚姻し、アルス伯爵家に入った。生家より爵位が下の家柄というのは気に食わないが、アルス伯爵家はそれなりに由緒ある家柄であり、所領も豊かだった。おまけに、伯爵はしばらく引退するつもりはないと公言し、潤沢な小遣いを約束してくれた。

次期当主の義務として、マルグリットを抱いてやった。何の面白みもない行為を繰り返したことで、二人の娘も誕生した。

息子が生まれれば良かったが、女でも二人いれば十分だろうと思い、次女が生まれてからはアルス伯爵から与えられた王都の屋敷に帰ることがほとんどなくなった。帰るのは、月に一度の次期当主の社交費が入る日がせいぜい。後は、どうしても外せない来客が来る時くらいだった。

幸い、領地に引っ込んだアルス伯爵に素行がバレることはなく、社交費という名目の小遣いの額が減らされることもなかったから、適当な「恋人たち」の家を転々としたり、高級宿に泊まったりして自由に過ごしていた。

爵位を継げるのは男だけだから、どれだけ好き勝手をしようとマルグリットが離縁することはないと思っていたし、事実、マルグリットが苦言を呈することは一度もなかった。せいぜい子ども達にもう少し構って欲しいと言われるくらいだった。

娘たちには、ほぼ関心がなかったが、いずれ年頃になったら婿を迎える必要があるから、その時にジョンに従順で、いい駒となる男を見繕ってやれば感謝されるだろう。なにせ、マルグリットもそうだが、娘たちも冴えない容姿だった。それでは、いくら家付き娘とはいえ、婚姻に苦労するのは目に見えていた。マルグリットが離縁をしないのも、再婚など出来ないことをよく分かっているからだろう。

だが、予想に反して、長女のアンナ・マリーにはあっさりと婿が見つかったらしい。その報せを聞いたのは、社交費を取りに来た時のことだった。淡々と必要な金額を包みながら、無表情に執事のルイードが告げたのだ。しかも、既に婚儀は執り行われた後の報告である。

流石にどういうことだとルイードを問い質したが、

「お嬢様のお顔もお忘れになってしまうような方に、お知らせをする必要はないと旦那様が判断されました」

と、顔色を変えずに言われれば、言葉の接ぎ穂を失った。アルス伯爵は、諫言一つ寄越したことはないが、水面下では何かを考えて行動に移している可能性があることにようやく思い至った。

(アンナ・マリーに男子が生まれたら?いや、それ以前にその婿が優秀だったら……?)

ジョンを飛ばして、曾孫や、孫の優れた婿に家督を譲る可能性は十分にある。

(ならば、先に男子を産ませてしまえばいい)

マルグリットはもう年だし、そもそも、若い頃でもいやいや抱いていた女だ。年老いたいまなら触れることすらしたくない。

(ミランダがいいだろう。若いし、何より魅力的だ)

最近一番入れ揚げている愛人の顔を思い浮かべる。爵位はない下級貴族の娘だが、下手な高級娼婦顔負けの体つきとテクニックを持っている。整った美しい顔立ちを彩る金髪は輝き、長い睫毛に囲まれた瞳は吸い寄せられるような青。学園を卒業したばかりの初々しさも相まって、ジョンは夢中になっていた。


 計画通りミランダが身籠り、見事に男子を産んだのが昨日のこと。後は、子の出生届を出す前にマルグリットと離縁をするか、マルグリットにミランダとの間の子を認知させるだけだ。

そう思って意気揚々と久しぶりに館に帰ってみれば、あっさりとマルグリットの方から離縁届にサインをされて拍子抜けした。形ばかりとはいえ、妻であることに縋りついてくると思っていた。少なくとも、アルス伯爵家の正当な血筋が家を継げないと抗議の声を上げることは想定内であったが、マルグリットは淡々と離縁届にサインをしてお茶を飲んでいる。

「早くなさって。アンナ・マリーが来ますわ」

急かされるように離縁届にサインをすれば、すっと伸びて来た手が書面を取り上げる。

「確かにサインをいただきました」

恭しくマルグリットに双方サイン済みの離縁届を渡すのはルイードだ。寡黙で何を考えているのかよく分からない男だが、アルス伯爵家に長く仕えている執事である。

「お母様、お呼びでしょうか」

使用人の案内されて部屋に入って来た女を見て、ジョンは息を呑んだ。目鼻立ちのはっきりした美女がそこにいた。大きな緑色の瞳も、少しつんと上を向いた鼻も、ぷっくりと膨らんだ唇も、芸術品のように整った配置に収まり、シニヨンに結った柔らかい金髪が肩を彩っている。

(ま……まさか……)

冷汗がどっと吹き出した。どこかの夜会で見かけた美しく若い婦人。一人でいるところに声を掛けたのは自然なことだろう。確かに娘たちと同じ位の年だとは思ったが、そのくらいの年齢の遊び相手に困っていなかったジョンにとってはいつものことだった。

『お顔もお忘れに』

ルイードの無表情な声が耳の奥に響き、心臓の鼓動が速まる。

「よく来てくれました、アンナ・マリー。体の具合がよくないところに申し訳ないのですが、こちらの書面の承認のサインをいただけるかしら」

先程夫婦そろってサインした離縁届を受け取り、アンナ・マリーは当主の執務机に座る。そのまま手慣れた手付きで当主の承認欄にサインをした。

「そこは、義父上のサインでは?」

「ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。私、昨年祖父より襲爵し、アルス伯爵となりました、アンナ・マリーでございます」

優雅に礼を披露するアンナ・マリーの目には侮蔑しかなかった。

「な……おん……いや、女性は爵位を継げないのでは?」

思わず女と言いそうになって慌てて言い換えるが、アンナ・マリーの顔には侮蔑の色が広がっている。

「いつのお話をなさっていますの?」

冷たい声は、マルグリットのものだ。

「確かに二十年前は、わが国では女性が爵位を継ぐことは出来ませんでしたわ。私に婚約者がいなかったのもそのせいですの。……当時、周辺諸国からの呼びかけもあって法律の改正が審議されていましたからね。私が爵位を継げる場合と、婚姻相手に爵位を継いでいただく場合とでは、選ぶ基準が異なって参ります。審議の行方を見守っている間に、王家とも縁深い公爵家からブレイズ侯爵家との縁を半ば強制されましたのよ」

「え……?」

容姿が平凡なマルグリットでは入り婿のなりてがいなかったからではないのか。少なくとも、ジョンはそう解釈していた。だからこそ、学園の成績も芳しくない三男で、容姿に優れたジョンを入り婿にして欲しいと頼み込んで来たのだと。

「でも、法律は十八年前に変わりましたわ。女性でも爵位が継げるようになりましたの」

そんな話は聞いていない。ガラガラと足元が崩れていくような気がした。

「それでも、既に定められた嫡子を変えるのは容易ではございませんでしたわ。嫡子本人の承認が必要でしたからね」

「私はそんなことを承認した覚えはない」

それならば、アンナ・マリーの襲爵自体が無効なのではないかと一縷の希望に縋る。

「ええ、夫婦間では、嫡子本人の承認が必要ですわ。けれども、嫡子を成人した孫や曾孫に変更する場合は、嫡子本人の承認は不要ですの。……お家乗っ取りがまかり通ってしまうような場合に備えて、法律は正当な血筋を保護してくださるのよ」

この国は血筋を何よりも大切にする。女性が爵位を継げない場合に入り婿が爵位を継ぐことはあっても、次代は正当な血を引く者にしか原則として譲られない。例外としては、夫人が原因で子が出来ない場合や、夫人に娘しかいない場合である。その場合は、夫人の承認を経て入り婿が外に作った男子に爵位を継がせることが可能だ。過去には、少々強硬な手段を使って、夫人と離縁をして、愛人とその息子を迎える者もいたと聞く。

「いや……だが、私に息子が……」

「何をおっしゃいますの?アルス伯爵家の血を一滴も引かない子に家を継がせたらお家乗っ取りですわよ」

「しかし、過去には、そのような例もあると……」

「本当、都合のいいことしか目に入らない頭をなさっていらっしゃるのね」

軽蔑を含んだマルグリットの声音に、思わず拳を握りしめる。

「それは、入り婿の方も当主家の血筋の場合の例外ですわよ。……そもそも、入り婿を取る場合は、基本的に親戚筋から取るのが普通ですわ。それは、夫婦間に子が授からない場合でも、家の血筋を残すためですのよ」

「そ……そんな……」

可憐な美女であるアンナ・マリーの蔑むような目と、隣に立つマルグリットの目は色こそ違うが、そっくりだ。顔立ちも、よくよく見れば、どこもかしこも似ている。ただ、彫りの深さや配置が若干違っているのだとようやく気づいた。

「では……私は……」

「晴れてブレイズ侯爵令息ジョン様にお戻りになられただけではないですか」

にっこりと笑うマルグリットだが、目は笑っていない。

「失礼、ブレイズ元侯爵令息でしたわね」

扇を優雅に広げるマルグリット。その下の口は笑みのままだが、その意味合いが全く異なることに気づかないほどジョンは愚かではなかった。

(兄上が侯爵家の籍に入れてくださるとは思えない……。いや、父上が当主でも……)

出戻りの弟や息子に甘い家族ではない。もし、次兄のように優秀な官吏であったのなら、病気で働けなくなるなどして侯爵家の籍に戻ろうとしても、反対されないだろう。だが、ジョンのように法律の改正すら知らずに婿入りした先で好き放題した上に、自ら離縁届にサインした者を受け入れるほど心は広くない。

「お母様、ごめんなさい、やはり気分が優れないので失礼させていただいても?」

「ええ、大事な時期ですからね。しっかりと休むことが仕事ですよ」

仲のいい母娘の会話をする二人の顔には穏やかな笑顔がある。一度もジョンが見たことのない家族の団欒の姿だ。

使用人に付き添われて部屋を出て行ったアンナ・マリーは、別れの挨拶を言うこともなく、振り返ることもなかった。

「悪いことをしてしまったわ。……後で、果物を持っていってあげて」

使用人に言いつけるマルグリットは母親の顔をしていた。

(もしかして……)

気が早い、と言ったマルグリットの言葉を思い出す。

(ああ、そうか。『アルス伯爵家の跡取り』が誕生するのか……)

一応孫にあたるのだろうが、会うことは一生ないだろう。娘の顔も覚えていない、結婚式にも呼ばれない父親なのだ。もしかしたら、次女も既に婚姻しているのかも知れない。

「ブレイズ元侯爵令息様、これから来客のお約束がございますの。申し訳ございませんが、もうよろしいかしら」

どこまでも丁寧に、しかし、他人行儀な元妻の言葉に苛立ちを覚えた。

「仮にも二十年夫婦だったのだぞ。このまま放り出されて私はどうすればいいのだ」

爵位を継げないのは当然のことで、しかも、これまで安穏と享受していた社交費も出なくなる。おそらく実家からも縁を切られてしまう。そうなると、子が生まれたばかりのミランダと三人で路上に放り出されることになるだろう。

「働けばよいではないですか」

字が書ければそれなりの仕事はありますよ、とマルグリットは笑う。羞恥に頬が熱くなる。確かに、技能など何もなく、二十年間小遣いをもらっているだけで領地経営の「り」の字も知らないような者が出来る仕事は限られてくる。

「しかし……それでは……」

まともな収入は得られないだろう。食べていくのがやっと、というところだろうか。

「……まさかお相手の方に伯爵夫人になれる、とでもおっしゃっているの?」

「え……」

図星を指されてドキリとする。魅力的なミランダは引く手数多だった。多くのライバルたちを蹴落とすのに、「伯爵夫人になれる」という言葉は絶大な効果があった。ミランダに夢中になっていたのは、せいぜい男爵か子爵程度で、多くは爵位を持たない貴族ばかりだったからである。

「妙な噂が立ってしまいますと、お家乗っ取りを疑われますわよ。二十年の『温情』で、今回ばかりは見逃して差し上げますけれども、変なことを吹聴なさったら……どうなるか保証は出来ませんわ」

寒い季節の川は冷えますわね、と窓の外に広がる雲一つない夏空を見つめながらマルグリットは笑う。

「あ……ああ……」

がくり、と膝から力が抜けた。今回の顛末を外で虚実交えて話せば、生命の保証は出来ないと言われたのだ。お家乗っ取り、ともなれば王家の隠密部隊が動いてもおかしくない案件である。

「雉も鳴かずば撃たれまい、ということわざをご存知?」

しゃがみ込み、視線を合わせてくるマルグリット。茶色の目は三日月を描いている。

「遠い海の果ての国のことわざなのですけれども、余計なことを言わなければ災いを招くことはない、という意味ですわ。優れた猟師だって、静かに息を潜めている獲物を狙い撃つのはとても難しくってよ。でも、もし獲物が鳴いたら……」

「それは……」

「ありがとうございます。ご自分から愛人や隠し子のことをお話いただいて。そのお話があれば、合法的に離縁が出来ますもの。お家乗っ取りで調査を依頼することも出来ますしね」

「な……知っていたのではないのか」

当然、アルス伯爵家の人間は自分の動向を知っていると思っていた。少なくとも、アンナ・マリーが正式にアルス伯爵家を継ぐまでは、探られていたに違いない。

「いいえ。私、ブレイズ元侯爵令息様に興味ございませんでしたもの。可愛い二人の娘たちを授けて下さったことには感謝していますから、謝礼は二十年お支払いさせていただきました。義務を果たしていただいたのだから、他で何をしようとどうでも良かったのです。父は人をつけていたかも知れませんが、私にその結果は降りてこないようにしていただいていましたの」

どこまでも優しく諭すように言われ、ジョンはただ絶望した。もし、ほんの少しでもマルグリットに自分への気持ちがあれば、復縁を望むことも出来たかも知れない。だが、ここまで無関心ならそれも難しい。娘たちにしたって顔もろくに覚えていない父親に無心されたら、そのまま警備兵に突き出すだけだろう。

おまけに、ジョンは平民になることが確定している。低位とはいえ、貴族であるミランダとの婚姻も難しいだろう。実家とも縁を切られ、四十で放り出された中年には何も残らない。

「餞別ですわ。二十年分の慰労金とでも思ってくださいませ」

差し出された袋を反射的に受け取り、その中身を改める。

「贅沢をしなければ、一年くらいは生活出来るのではなくて?」

最低限の平民の暮らしであれば、という金額ではあったが、文句を言える立場にはない。身分も、地位も、金も、何もかも「余計なことを言った」せいで失った。

撃たれた雉は、ただ息があることを感謝することしか許されないのだ。これから、一生。



 意気揚々と来た時から十も老け込んでしまったような足取りで去っていくブレイズ元侯爵令息を窓から見送りながら、マルグリットは晴れやかな気持ちになっていた。ようやく二十年来の不良債権とおさらばすることが出来たのだ。

娘夫婦に伯爵家を任せて、父と共にのんびりと領地の城館で過ごす日々に思いを馳せながら、離縁届の受理を知らせる手紙を受け取ったマルグリットはその場で踊り出してしまった。


 そんなマルグリットの姿を優しく見守る執事のルイードの口には、珍しい笑いが浮かんでいた。どことなくマルグリットと似た容姿をした彼は、アルス伯爵家の親戚筋にあたる男爵家の次男だ。先代伯爵に才を見出され、執事として仕えること二十五年。執務中に彼が笑ったのはこの時が最初で最後であった。


― 了 ―

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