9 月夜に
落ちるのはほんの一瞬で、後悔する暇もなかった。地面にぶつかると思ったけれど、その寸前で誰かが私を捕まえてくれた。やせた腕が、私をゆっくりと草むらの上に降ろした。
私の心臓は早鐘を打っている。高いところから落ちるのはたまらなく怖い。ちょうど月が隠れて、私たちは暗闇の中にいた。
私たち?
「ツィラ……」
しわがれた、優しい声が私の耳にそっと入ってきた。私は息を呑んだ。
「二階から飛び降りたりしてはいけないよ。危険なことはもうしないでくれと、前にも言ったじゃないか?」
その人は、私を静かに叱った。前にもこんなことがあったと、私は思い出す。奥さんの家に来る前のこと。もうずいぶん昔のような気がした。考えなしに、不思議な砂丘を昇ろうと飛び出して、砂に埋もれかけた夜のこと。
私は、叫んだ。
「砂男さん!」
そして、友達に飛びついた。
月を覆っていた雲が晴れた。月の光に照らされた、年老いた砂男を見上げた。砂男はおどろいたように目を大きく開いて、私を見下ろしていた。
私は彼に訴えた。
「どうして、ずっと来てくれなかったの? 私は待っていたのに」
「それは……」
砂男の顔が、不意に歪んだ。そのまま、またいなくなってしまう気がして、私はまた砂男を抱きしめた。温かい。砂男も私も、確かにここにいる。
「ツィラ、」
「私、さびしかった!」
砂男は何か言いかけていたけれど、ゆっくりと口をつぐんだ。
「ずっとずっと、悲しかった。もう二度と、砂男さんに会えないじゃないかって、怖くてたまらなかったわ。もうどこにも行かないで。お願い……」
その先は、もう言葉にならなかった。涙があふれて、私の目も喉もふさいでしまった。こみ上げる感情を抑えつけようとする私の背中を、砂男がそっとなでた。
「私も……ずっと君のことが心配だった」
砂男の声は震えていた。
「だが、あの家から引っ越したんだね、ツィラ。本当によかった。君を守ってくれる家族がちゃんといて」
私は、反論しようとした。けれど、アダーリとエルザの声がどこからか聞こえてきた。二人は言い争っているようだ。私はとっさに、砂男を引っ張って、庭木の陰に隠れた。
「あの子たちは……?」
「アダーリとエルザよ」
私はそれだけ砂男に教えて、口をつぐんだ。あの二人には絶対に砂男を会わせたくない。とりわけ、エルザには。
彼女たちの会話を聞いていると、アダーリがエルザを叱っているようだった。
「どうして、あの子の瓶を捨てたりなんかしたの。お母さんもよくないと言ったのに」
「だって、それがあの子のためなんだもの!」
私のことを話している! いたたまれなくて、とっさに砂男の上着のすそをぎゅっとつかんだ。砂男は黙ってあの二人の会話に耳を傾けている。
「エルザ……あなたまた、誰かの宝物をめちゃくちゃにしたわね。わたしが大事にしていた妖精の絵本を、わざと破いて読めなくしたことがあったでしょう。あの時、わたしがどんなに悲しかったか、分かる?」
「どうしてそんな前の話を今するの?」
「今夜はあなたが悪いと思うからよ」
アダーリはそう言い切った。
アダーリが、私の味方をした。なんだか、不思議な気分だった。ふてくされたのか、エルザが押し黙る。
砂男がささやいた。
「あの子たちは、君を探しているようだよ」
「いや。見つかりたくない。逃げましょう、砂男さん!」
私は砂男を必死に説得しようとした。
「どこか遠くに、私を連れていって。ここにはもういたくない」
砂男は首を振った。
「ツィラ、それはいけない。君は家族の元にいなければ」
「あの人たちは、家族じゃないわ!」
私は小声で叫んだ。どうして、砂男は分かってくれないのだろう。腹立たしく、悲しかった。
「お父さんも奧さんも、アダーリもエルザも、私のことが嫌いなんだもの。みんな、私がいなくなった方が嬉しいにきまってる」
「そう思うのは、お互いのことをまだよく分かっていないからだ」
砂男は身をかがめ、私と目を合わせて言った。
「いいかい、ツィラ。あの子たちは君を愛したがっている。今は、そのやり方が分からないだけだ。君がもう少し近づいてあげれば、きっと今よりもずっと仲良くなれる」
私には到底信じられなかった。けれど、相手が砂男だから、ちょっとだけ試してみようという気になった。
「また会いにくるよ。その時、あの子たちの話をもっと聞かせておくれ。いいね?」
「……はい」
砂男は微笑み、私の頭をなでてくれた。
「さあ、家にお戻り」
「次はいつ来てくれる?」
「君が望むなら、明日の夜にでも」
そう確かに約束して、砂男は夜の中に消えていった。