10 少しずつ歩み寄る
砂男と別れた後、アダーリが私を呼ぶ声を聞いた。私は黙って彼女の前に出て行った。アダーリは声を上げて、私の腕をつかんだ。
「怪我はない?」
「ええ、大丈夫」
アダーリは、私の頭のてっぺんからつま先までを眺め回した。
「二階から落ちたのに? 無理してない?」
「平気。……柔らかいところに落ちたから」
嘘をつく私を、エルザがじっと見ていた。
「……何? エルザ」
「別に」
エルザはそっぽを向いた。アダーリが苦笑する。
「部屋に帰りましょうか、エルザ、……ツィラ」
「ええ」
私が素直に答えると、アダーリとエルザはおどろいて目を瞠った。
次の日の朝、私たちはそろって寝坊した。エルザとアダーリが、奥さんにがみがみ叱られながら学校に走って行った後、私と奥さんはいつものようにテーブルについた。今日は歴史の勉強をする予定だ。
教科書を開く前に、奥さんが言った。
「昨夜は騒がしかったわね」
どきりとする。夕べ、私たちがまたベッドにもぐりこむまで、奥さんたちはとうとう起きてはこなかった。けれど実際、結構うるさかったはずだから、目を覚ましていたとしても不思議じゃない。
「あなたたち、けんかでもしたの?」
奥さんが探りを入れる。私はぐっと深く息を吸い込み、うなずいた。
「だけど、仲直りします」
私がそう言うと、奥さんは目を丸くした。どうやら私は、まるっきり予想外のことを言ってしまったらしい。それから、珍しく奥さんが笑った。
その時、すごく不思議なことに。昨夜の砂男と今の奥さんがちょっと似ている気がした。どうしてだろう。笑顔は人を近づけるみたい。
一日の授業が終わった後(今日は間違いが多くて、たくさん叱られたけれど)、奥さんは買い物に出かけた。私は奥さんを見送った後、真っ白のままの作文用紙を取り出した。哀しみに任せて紙を破いて以来だ。心を込めて書いたお母さんとの思い出を書き直すのは胸が強く痛む。けれど、作文を学校に出さなければ、奥さんが困った立場に置かれてしまうことも知ってしまっている。
それで、名案を思いついたのだ。全く違う題材で、一から作文を書くのはどうだろう。
書きたいことは、自然と浮かんできた。一人ぼっちの女の子が、不思議な妖精に出会う話だ。
鉛筆を握りながら、砂男の姿を思った。それから、家の周りを囲む小高い砂丘を頭に描いた。知らないうちに、口元がゆるんでいた。ゆっくりと、文字を刻み始めながら、今この家が砂丘に埋もれてしまったら、みんなどんなにおどろくだろうなと思った。
作文、というかお話を書いているうちに、アダーリたちが帰ってきた。
「ただいま、お母さん……あ、」
私しかいないのを見て、二人は立ち止まった。
「お母さんは?」
「お買い物に出かけたわ」
「あら、そう」
二人はいつもなら、学校鞄を子供部屋に置いて、さっさと遊びに出かける。けれど今日は、何故か私の後ろをうろついていた。エルザが、かごに盛ったリンゴの一つをとってかじった。アダーリが軽く彼女を叱った。
私はしばらく二人の様子をうかがっていたけれど、また続きを書き始めた。
「何書いてるの?」
エルザがのぞきこんできた。私は「わっ!」と思わずのけぞった。作文用紙をさっと取り上げ、アダーリが黙って私の書いたお話を読む。
どきどきしている私に、読み終えたアダーリが聞いた。
「ここに書いてあるのは、本当に起こったこと?」
私は「ええ」とうなずこうとしたけれど、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
「ううん。私が作ったお話よ」
「そう。ならいいけど」
「……どういう意味?」
アダーリが、眉をひそめて私を見た。
「お父さんが、すごく心配してる。ツィラが子盗り鬼にさらわれてしまうんじゃないかって」
私は、書きかけの紙を見下ろした。アダーリには作り話と言ったけれど、砂男に出会ったのは本当のことだ。けれど、お父さんが心配するわけがさっぱり分からなかった。
「全部作り話なの。作文を書かないといけないから。__私のお母さんの話は、書かない方がいいみたいだから」
エルザが口を挟んだ。
「昨日話していたのは誰?」
直球だった。
「……お友達よ」
「嘘だ」
エルザが言った。「あたしには、ぼんやりとした影しか見えなかった。そいつとあんたが話しているのを見ると、すごく怖かった。亡霊があんたをさらいにきたみたい」
「あの人は、亡霊なんかじゃないわ!」
不愉快だった。誰にも、私の友達をけなしてほしくない。立ち上がり、作文の紙を奪い返した。
「庭を散歩してくる」
アダーリとエルザが意味ありげに目配せを交わす。
「街に行っちゃ駄目よ」
「分かってる!」
もとより、庭の外へ出るつもりなんてなかった。薄い夕日の中で、昨夜落として割ったガラス瓶の破片を探した。透明な欠片を一つ一つ拾い集めながら、ため息をつく。また喧嘩してしまった。仲良くなれと砂男に言われ、仲直りすると奥さんに宣言したばかりなのに。どうして私は、いつもこうなんだろう。
冬の日暮れは早い。奥さんが帰ってくるより前に辺りは真っ暗になった。私は夜の方が好きだ。砂男の時間だから。
まだ庭でガラスを探している私に近づいてきたのは、砂男ではなく、奥さんだった。
「何をしているの? ツィラ」
「昨日割ってしまったガラスを集めているんです。誰かが踏んづけたらいけないから」
左手に集めたガラスを奧さんに見せた。
「そう。手を切っていない?」
「大丈夫です」
「よこしなさい、捨てるから」
奧さんは手を差し出した。私は、ガラスの欠片をそっと奥さんの手のひらに落とした。その時、奧さんが私に顔を近づけて、ささやいた。
「街に行きたい?」
「どうして、そんなことを聞くんですか?」
「あなたをずっと家にいさせているから……」
それは事実だ。この家に来てから、私はほとんど庭から外へ出ていない。例外は、クリスマスツリーを倒してしまい、逃げ出した時。
奥さんやお父さんがそうする理由を、私は知っている.街には、私のことが嫌いで仕方がない人達がいるからだ。私一人には荷が重い悪意から、守ってくれている。だから私は、街に出たいとは言わない。
「大丈夫です」
「そう」
奧さんはそっけなく返事をした。
「夕食を作るから、中へ入りましょう」
「はい」
奧さんの後をついて家の中に入ると、アダーリとエルザが待っていた。
砂男がやってきたのは、夜十時を回った頃だった。居間の時計が十鳴る音で、ベッドの中の私は目を覚ました。窓を開けて見下ろすと、砂男が身をかがめて庭の花を見ているのが分かった。私は忍び足で部屋を出て、庭へ向かった。
砂男は私を待ってくれていた。
「こんばんは、ツィラ」
「こんばんは!」
砂男が見ていたのは、奥さんが育てているクリスマスローズだった。
「良い庭だね」
「でも、砂丘がないわ」
「これだけの花が皆、砂で埋もれるのはもったいないよ」
私は、前に住んでいた家の庭を懐かしく思い出した。ハーブがたくさん生えていた、大好きな庭。猫が居着いたこともある。夜になると現れる不思議な砂丘を窓から眺めるのがとても好きだった。
「砂男さんが来なくなってから、雨が降ったの。それで、砂丘がみんな流れちゃった」
「……そうか」
砂男はそっと目を閉じた。何かを思い出そうとしているようだった。
「我々が砂を集める場所は、いろいろなところに現れては、雨や風に流されて消える。昔からそうだった」
「砂丘がなくなったから、砂男さんは私の家に来なくなったの?」
砂男の顔がかすかにこわばった。私を見つめながら、口を開いて、結局何も言わずに閉じた。眉が悲しげに下がっていた。
寒い風が吹いて、砂男の迷いと私の不安をどこかへ飛ばした。
「寒いね。そろそろ中へお入り。__あの子達との仲はどうかね?」
私は口をとがらせ、うなだれた。
「喧嘩しちゃった。仲直りしようと思ってたのに」
「どうして喧嘩した?」
「エルザが、砂男さん達のことを亡霊と言ったの」
私がそう言った時__月が雲に隠れ、砂男の顔が見えなくなった。
「亡霊、か」
低い声で砂男がつぶやく。
「うん、でも……」
私が何か言いかけた時、雲が晴れた。けれど、砂男はもうそこにいなかった。




