騎士団長様、早寝早起き朝ごはんでございます
オリビアは宿屋の娘だった。
16歳といえば娘盛りなのに、全く飾り気がなく、化粧もほとんどしていない。
オリビアには自分の身なりを考える暇などなかった。
経営、受付から調理、寝具の洗濯まで、宿屋の全てをオリビアはたった一人でこなしていた。
朝を不吉なものとするこの地の民は、太陽が上った頃に目を覚ます。
闇が消える夜明けには、怪物が目を覚まして飛び交うと信じられていた。
火山の近い風土も関係があるのかもしれない。
火の恐ろしさを陽と関連づけていたのかどうか定かでは無いが、それは文化となって根付いた。
昼前に起きた貴族はティータイムをはさみ、軽食をとる。
平民ならば水を飲み、ありあわせの昼ご飯を食べる。
貧富の差はあれども、大なり小なりボリュームのある晩ごはんを楽しみに働く。
そして、その後は夜が更けるまで酒や果実水を飲み、心やすい者たちとの歓談に花を咲かせる。
これがこの国の常だった。
だが、オリビアは誰よりも朝早く起きていた。
昨年、祖母も亡くなり、いよいよ宿屋の仕事が回らなくなりつつあったからだ。
給金が払えなくなり、たった二人いた臨時の従業員も解雇して、それでもぎりぎりの生活だ。
天涯孤独の田舎娘。
だけど、オリビアはなけなしの貯金で祖母の弔いを済ませ、その日から宿屋の女主人として奔走した。
(私が頑張らないと!)
こうしたわけでオリビアは、毎朝毎朝、早く起きては客の来ない宿の掃除や修繕をしていたのだった。
人手がなく、時間がないなら作り出せばいい。
麓の町から山へ抜けるこの場所は、今はもうほとんど町の住民は通らない。
この山は壁のような役割で、魔族と人間との国境を隔てていた。
種族間の戦争は終結し、今は幾分平和になっているとはいえ、緊張状態は続いている。
山には魔物も出るし、通行には向いていないと判断した帝国は、戦争終結後に大きな街道を整備した。
今はあちらの方が主流になっていて、こんな大変な道をわざわざ登るような者はいない。
オリビアの宿屋も、昔はもう少し繁盛していたが、今では見る影も無い。
おんぼろ宿屋でもないよりまし、と判断した旅の者たちがお情けで金を置いていくような、年季の入っている宿屋になってしまっていた。
このあたりの宿屋や店はもうみんな廃業してしまって、残っているのはオリビアのところくらいだ。
それでも、幼子だった自分を引き取ってくれた、大切な祖母たちが守ってきた店なのだ。
オリビアが生まれてすぐ、流行病で母親は亡くなった。
その後、赤ん坊だったオリビアを祖父と祖母は引き取って育て、いつも素朴な料理とあたたかい布団で癒やしてくれた。宿屋はほとんどオリビアの家だった。
――どうにかこの店を存続させたい。
オリビアはその一心で、朝から晩まで働いた。
雨漏りをすれば自分で屋根に上って修理をした。
廊下が割れれば板を打ち付けた。
だけど、客足はどんどん遠のき、宿屋も朽ち果てていくのだった。
食料も、もはや肉なんて久しく食べていない。
だけど、山には果物も山菜も野草も生えていた。
(まだ、なんとかなる)
オリビアは希望を捨てなかった。
どうすれば客が増えるのかは分からないけれど、自分にできるのは、今あるものを大切にすることだった。
(だめになってしまったときのことは、本当に行き詰まってしまったときに考えよう)
幸いなことに山には野草もあり、祖母が残した小さな畑もあった。川に行けば、運が良ければ罠にかかった魚も捕れる。自給自足生活が破綻するまでは、生きていけそうだという目論見がオリビアにはあった。
ある日の早朝、山菜を採って宿屋に帰る途中だった。
オリビアは茶色っぽい何かが崖下に落ちているのに気づいた。
(こんなところに落石?)
大きな岩かと思ったそれは、不意に動いた。
好奇心の出たオリビアが近寄ると、うずくまっていた男がむくりと起きて、こちらを見た。
オリビアはヒッと声にならない悲鳴を発した。
男は目の下まで血に濡れていた。
(こ、これ、生きてる!? 人間!?)
男は苦しそうにうめいた。
「う……」
(えっ!? どうすれば!?)
といっても、あと何十歩かで宿屋である。
ここで見つけたのも何かの縁だ。
オリビアは驚きながら鍵を開けた。
(まさか突然のお客様……じゃないけど、びっくりだな……)
男は憔悴しきっていた。
気力で生きているようだった。
顔は血と泥や汗にまみれ、服も赤黒い汚れが至るところに付いている。
それを見たオリビアは、客だとかけが人だとか、そういうことはさておき、目の前の命をとにかく助けなければいけないと直感した。
「どうぞ。歩けますか? もう少しです」
と、言ってオリビアは素早く扉を開けた。
「ここは……」
「宿屋です。私はオリビア。大丈夫ですか? 酷いご様子です」
「ああ……宿屋なのか。助かった」
男は安心したように言った。
「傷が癒えるまで部屋を借りたい。代金はここから使ってくれ」
と言って、男は革の袋を押しつけるように渡した。
片手に収まるくらいだが、ずっしりと重みがある。
銅貨だとしても、かなりの金額だ。
オリビアは驚いたが、こんな緊急事態だ。
そういうこともあるのかもしれない。
(残りはちゃんとお返しします)
心に決めて、革袋を懐に入れた。
まずはこの人をなんとかしなければ。
男は立ち上がり入り口まで歩いたが、ふらついてよろめいた。
「大丈夫ですか!?」
思わず肩を支える。
鉄のような臭いがした。
オリビアはどきりとする。
何の血なのだろう?
「……すまないが肩を貸してくれ」
男は眉をしかめながら言った。
オリビアの肩を借りるなんて、不本意なのかもしれない。
よっぽど限界が近いのだろう。
「どうぞ、こちらです」
オリビアはしっかりと男の腕をとって支えた。
雨漏りも板張りも一人でこなしてきたオリビアは、これくらいでは動じない。
腕に男の服の血や汚れがついたけれど、オリビアはちっとも気にしなかった。
魚を捌くときだって血は飛び散る。
汚れたら洗えばいいのだ。
「血で汚してしまうな……」
男が小声でつぶやいた。
「いいえ。もうお喋りにならないで。大丈夫です。何があったのかは分かりませんが、とにかく傷が癒えるまでお休み下さい」
男が廊下を歩くのをオリビアは助けた。がっしりした大柄な男だが、だからといって放ってはおけない。
「私が一人でやってる小さな宿屋ですが、どうせほとんどお客様も来ないんです。何も気にされることはありません。お医者様を呼びましょうか?」
「いや、肩以外はほとんど返り血だ……医者よりも騎士団に連絡してくれ、ロジェはこの宿屋にいる、と」
「騎士……クォーツ騎士団のことでしょうか」
「そうだ」
オリビアは男に肩を貸しながら内心驚いていた。
言われてみれば、男のつけているマントや靴には騎士団の紋章が入っている。
クォーツ騎士団といえば有名だ。
凄腕の剣士や弓使いを集めた最強の集団。
ご婦人方に言わせると、構成員の姿がとにかく格好いいらしい。
白を基調とした騎士団の隊服には、帝国のエンブレムが金色で刺繍してあり、年に一度のパレードでは勇壮な騎士たちが広場に一堂に集まるのだ。
人間と魔族との垣根を越えた、平和を希求する者の集まり。
昔こそ魔族との戦いに赴いた騎士団のあり方は終戦後大きく変わった。
それは魔族が人間の『帝国』に併合された今、平和の象徴として存在していた。
こんな田舎の辺境にいても騎士たちの噂がきこえてくるし、半ば崇拝対象のようになっている婦人も多く、人気のある騎士の姿絵だって出回っている。
オリビアにしてみても、小さな頃、祖母がまだ存命だったときに、山を越えてパレードを見に行ったことがある。ちょうど人間と魔族の戦争が終結して何年目かの、記念のパレードだった。
「パレードってすごいなあ、騎士さまってキラキラして宝石みたいだなあ」
という幼いオリビアの感想に、
「この騎士たちはこの帝国の宝だよ。宝石みたいなもんだ」
と祖母は言った。
終戦後、騎士には魔族からも志願者が現れ、人数こそ少ないながらも、選ばれて従属していた。
何より魔族には魔法が使える。
人間にはできないことを可能にする美麗な魔族は、人間からも魔族からも、種族の垣根を越えてファンを増やしていた。
帝国以外の敵国からの侵略や、魔物の侵攻には騎士団が立ち向かう。
人間にとっても魔族にとってみても、害をなす魔物や魔獣は忌避する存在だ。
最強の騎士たちに守られているから、この国は安全なのだ、とその場にいる全ての国民は信じて喜び合っていた。
それ以後、オリビアにとって、騎士団というのは『宝石のようなもの』というくくりに分類されることになった。
今、人間の宝石が怪我をしている。
一大事だ。
オリビアは神妙に考えた。
この怪我では階段も辛いだろう。
というか、この大男を連れてあがって、途中で倒れでもしたらとんでもない。
「私の私室ですみませんが、とりあえずはこちらで横になられて下さい」
「……すまない」
他にも何か思うところがあったのかもしれないが、僅かな間の後、ロジェと名乗った男は倒れるように寝台へ横たわり、すぐに目を閉じた。
オリビアはすぐに、宿屋の医療キットを取りに走った。
箱の中には大きな布があったはずだ。
ロジェは横たわりながらも痛みに耐えるように小さく呻いていた。
肩に傷を受けたと言っていた。
オリビアはそっと、ロジェの傷口に手をかざした。
(拭けるところだけでも……)
オリビアはロジェの額を、ぬるま湯にひたした布でそっと拭った。
これだけ血がこびりついていれば、目もほとんど開けられなかっただろう。
血や泥が落ちて、彫刻のような端正な顔立ちがあらわになる。
ふと触れた額が熱いのに気づいて、オリビアは濡らした布をあてがった。
熱が出ているかもしれない。
オリビアは甲斐甲斐しく世話をした。
傷の手当てが終わると、温かい毛布でロジェを覆い、枕元に水を持ってきた。
宿屋の客は他にない。
それに、ロジェは宿泊代金を前払いしてくれている大切な客だ。
オリビアは数刻後にロジェの容態を見に行った。
夜がふける頃には高かった熱も、少しずつ安定してきた。
オリビアにだって熱を下げるような力はない。
あとはロジェの回復力次第だ。
オリビアはロジェの額の布を取り替えた。
窮屈そうなブーツを脱がせたり、マントを脱がせたり、シャツの襟元を緩めたりしてもロジェは起きなかった。よっぽど疲労していたのだろう。
(早く熱が下がりますように)
せめても、とオリビアは祈った。
こんなところで『宝石』が力尽きてしまってはいけない。
早く帝国の本部に戻れるようにしてやらないと。
宿の窓から見える街は、灯りがこうこうとついていた。
夜が更けても、この国はまだまだ眠らない。
だけどオリビアはそっとカーテンを閉め、灯りを消した。
けが人には休息が必要だし、オリビアには朝の仕事がある。
朝、日の出と共にオリビアは目を開けた。
自室ではない、宿屋の二階の小さな部屋だ。
「うう……ん」
さすがに昨日は少し寝不足だったので、まぶたが重い。
冷たい水で顔を洗って眠気を飛ばす。
急いでいたので、普段着の服も何も置いてきてしまった。
自室に入り、オリビアはクローゼットから必要な身の回りの品を手に持った。
ロジェはすうすうと寝息をたてていた。
しばらく起きそうに無い。
オリビアは玄関の鍵を閉めて、外に出た。
朝のひんやりとした空気がすがすがしい。
ちまたでは不吉だ不吉だと言われるけれども、オリビアは朝のこの空気が好きだった。
疲労や未来への後ろ向きになりそうな感情も、朝のすがすがしさが打ち消してくれる。
オリビアはいつものように、畑の野菜をとり、山菜を摘み、果実を採った。
籠いっぱいに食料を持ち帰ると、厨房に入る。
葉のついた緑の野菜を細かく切り、鍋に入れる。
白いキノコは、よくオリビアが採るもので、決まった木に生えている。
水を沸かすときに一緒に入れると良い風味が出るのだ。
クツクツ、コトコトと鍋が鳴った。
山を流れる新鮮な伏流水は、体の中を正常にしてくれる気がする。
スープを作りながら、オリビアはくみたての水を一口飲んだ。
喉を流れていく水の重みが心地よい。
黄色みがかった乾燥した粒を瓶から取り出し、鍋の中に入れる。
塩を入れて、火を弱めてふたをする。
しばらくするとふっくらとふくらんだ粒が、スープの汁を吸ってほっこりと炊きあがるのだ。
その間に果実を洗い、ざっくりと切る。
赤い実の皮を剥くと、じゅわっと果汁が涙のように盛り上がり、オリビアの手首を伝って垂れていった。
追いかけるようにぺろっと舐めると甘い果汁の旨味が口に伝わる。
そのままかじりつきたくなるのを堪えて、皿に置く。
オリビアは火を止め、小鍋からスープをよそった。
(うん。上出来だね)
小さな自分用の木の食卓へ、穀物入りスープと果実を並べる。
簡素だけれど朝の体力を上げるのには十分だ。
「いっただきまーす……」
口を開けたところで、背後でカタリと音がした。
オリビアが振り返ると、ロジェが驚きながら立っていた。
「……失礼しました」
オリビアは大口を開けた姿を『宝石』に見られた羞恥で消え入りそうになった。
こんな時間、まだ早朝だ。自分以外の誰かが起きているなんて想像もしなかった。
が、オリビアは気持ちを切り替えてすぐに顔をあげた。
客は客だ。もてなさないといけない。
「あ……す、すまなかった。あ……シャワーを借りたいと」
動揺しているロジェの気持ちも理解できる。
「言いたいことはいろいろあるかとは存じますが、熱も下がられたようですし、まずは湯浴みをなさってください」
と、客向けの丁寧さで、オリビアは言った。
帝国騎士団長、ロジェ・ド・フォレスティエは案内された部屋の扉を開けて驚いた。
大きな壺になみなみと湯がはってある。
しかも少しずつあふれ出ていた。
(魔法か?)
と思いきやそうではない。
長い筒のようなものが壺にくっついており、そこから少量の湯が零れて壺に落ちているのだった。
「体を洗ったら、壺の中に入って体を温めて下さい」
オリビアという娘はそう言って退室した。
体に張り付いた騎士団服をはぎとるように脱いで、ロジェは体を洗った。
ほんのりと花の匂いのする石けんまで置いてあった。
水を浴びられればいいと思っていたが、湯まであるとは。
さらには壺にたっぷりと湯がたたえられている。
これを沸かすのは酷く手間も金もかかりそうだ。
そして、壺?
こんなのは初めて見た。
いったいどういうことだ。
そして、ロジェは驚愕する。
(……天国ではないか)
壺の中に入るなり、体をほっこりと湯が包み込む。
思わず胸の奥から深い息が出る。
火山の近いこの地で、オリビアの祖父や祖母が宿を開いたのは、このためでもあった。
沸かし湯ではなく、これは火山の力による天然の湯だ。
ロジェは首まで湯につかり、ふと気付いた。
肩の痛みが無い。
魔物に深手を受けたはずの肩は、本来ならばじくじくと膿むか、腫れているはずだった。
そっと手をやると、傷どころかなめらかな肌の感触がした。
ロジェの疑念がほとんど直感に変わった。
脱衣所には、清潔そうな衣服がきちんとたたまれて置いてあった。
たしかに泥にまみれた隊服は今やごみに等しい。
あの娘が置いてくれたのだろう。
ロジェは素直に服を身に付けた。
風呂からあがったロジェは厨房に再び赴いた。
彼女は気付き、にこやかにほほえみかけてくれた。
ロジェの胸が高鳴る。
これは動揺なのだろうか。
「いかがでしたか、うちの自慢のお風呂は」
「素晴らしかった。そして、傷が」
「きちんと治っていましたか?」
「ああ。やはり、君が」
「肩をやられたとおっしゃってましたから」
「……ありがとう」
「いいえ」
にっこり微笑む彼女はあまりにも魅力的だ。
紅い眼。紅い髪。そして、紅い唇。
見た目は人間にそっくりだが、少し違う。
人間の肌よりも僅かに暗く、透けるように白い肌。
そして何より、深い傷を1日で治すなど、あんな芸当ができるのは。
「魔族が宿屋なんて、珍しいでしょう」
ロジェの思考を見透かしたように、娘は言った。
化狼が山に出ると目撃情報があり、魔物討伐にやってきたものの、深入りしてしまった。
追いかけた先で敵が増え、もつれあった拍子に転落した。
気付けば宿屋の近くで助けられ、はっきりとした視力と意識を取り戻した今なら分かる。
彼女は魔族の娘に違いなかった。
確かに山を越えれば、魔族の領地だ。
といっても名目は帝国に併合されているが。
暮らしているのは魔族が多く、昼と夜は人間と逆転している土地だと聞く。
朝は寝て、夜は起きているはずだ。
それなのに、この魔族の娘はなぜ、たった一人、こんな場所で早朝に起きているのだろう?
「いや、それよりも、魔族は朝は弱いのでは……?」
「うーん、私はもうずっとこの生活ですから。早寝早起きをして、朝ごはんを食べて」
「朝ごはん……」
「そうでないと、宿屋は務まりませんから。朝ご飯、食べますか?」
と、尋ねる娘の愛らしさの破壊力と、朝ご飯の良い香りにロジェの心の柔らかい部分がグッとへこんだ。
「……いただきます」
と言ったロジェに、魔族の娘オリビアは嬉しそうに笑う。
「ふふ。誰かと一緒に食べるのは久しぶりです」
(うっ!?)
オリビアが笑む度、ロジェの心の柔らかい部分が陥没し、強い力で握りつぶされる。
「騎士団には電報を打っておきました」
「あ、ああ、……痛み入る」
これでも帝国騎士団団長として、やってきたという自負はある。
冷徹・無慈悲・強靱・剛健と言われ、帝国の疾風という二つ名まで貰った。
それが、一目見ただけの魔族の娘にとらわれるなど、あるわけがない。
いや、あってはならない。
こんな、ちょっと優しくて愛らしいだけの娘に動揺させられるなど……。
きっと『魅了』の魔法を使っているに違いない。
そうでなければ説明がつかない。
「えっと、ロジェ様? おくちに合いませんでしたか」
ぼーっとしていたロジェに、オリビアが心配そうに声をかける。
ハッとして
「あ!? いや、全然! 全く! 美味です」
と、落ち着き無く答えてしまうくらいには、ロジェは動揺していた。
よく分からないが、確かに美味い。
人間として生きてきたはずだが、最近は多忙にまかせて食事も適当に済ませていた。睡眠もとれるときにとる、という有り様だった。
ロジェは久しぶりに頭も体もさっぱりとしているのに気付いた。
くすくす、とオリビアが笑う。
「よかったです。あら? 頬についていますよ」
ちょんちょん、と指先で自分の頬を示す姿の愛らしいこと。
ロジェは頬を緩めながら、同じ場所を手でこする。
そして我にかえり、顔をひきしめる。
(いや、駄目だ。落ち着け、相手は魔族、こう見えても何か企んでいるのかもしれない。こんな、天使の化身のような娘がいるわけがない。『魅了』魔法だ、これはきっと魔法、これはきっと魔法、これはきっと)
しかし、ロジェは深層では理解していた。
本当に陥れようとする者であれば、看病などしないことを。
瀕死のロジェを見捨てる方がずっと簡単であることを。
「帝国騎士団の方なんでしょう」
「っ……ええ」
こんなに肩をふるわせて驚いたのは、母のお気に入りのティーカップを割って物置に隠していたのがばれそうになった時以来だ、とロジェは思った。
次にオリビアが何を言うのか、知りたいような知りたくないような、やはり知りたいような気持ちが心の中を駆け巡る。
そして魔族の娘は、言ったのだ。
冷徹鬼畜の最強の剣とうたわれる帝国クォーツ騎士団・団長、ロジェ・ド・フォレスティエの目を真っ直ぐに見て。
朝ご飯を並べた食卓に頬杖をつきながら、化粧などせずとも紅い唇を愉しそうに引き上げて。
「騎士様は、案外」
紅い宝石のようなまなざしが面白そうに自分にそそがれる。
「お可愛らしいところもあるんですね」
ロジェの心の柔らかい場所が、爆発し、雲散霧消した瞬間だった。
その後、堅物の独身貴族として知られた帝国騎士団長ロジェは、策略の限りを尽くして、魔族の娘とお近付きになろうと奮闘することとなる。
早寝早起きをむねとする娘と、早朝から朝ごはんを共にすべく、生活習慣を変えた騎士団長がすこぶる健康になったのは彼にとって思わぬ副産物だった。
人間の騎士と魔族の娘とのロマンスは国民に知られることとなり、小説や戯曲になって上演された。
帝国騎士団御用達の宿屋には、騎士目当ての客人が集まり出し、宿屋は増築と改築を繰り返した。
「っていうのがこの宿屋のこれまでよ」
「先輩! すごいですね! そんな歴史があったなんて……あたし、ここ、バイトに来てよかった」
「時々騎士様が泊まりにくるらしいわよ」
「キャーッ!」
「ちょっとうるさいわよ! あんた魔族なんでしょ!? 防音の魔法とかないのっ」
「そんな都合のいい魔法ないですよぉ」
人間と魔族が共に働く宿屋『オリビア』はこうして誕生したのだった。