さくら
いつからだろう。
私はずっとここにいる。
いつからだろう。
私は誰にも見つからない。
小高い丘の上にある、小さな古い社。
それが私の棲家。
賽銭箱に腰掛けて、ぼーっと街並みを見ている。
昔、田畑だった場所はたくさんの家になり、道は黒く固くなっている。
そんな街並みに小さな桃色の木が生えている。
田畑がなくなり家となってもこの地に住まう人々は桜を愛し、大切にしている。
「あー! おにーさんそんなとこ座っちゃだめなんだよー!」
幼い娘の声が聞こえる。声の主に視線を送る。
八歳くらいだろうか。きれいに切りそろえられた髪。整えられた服装。
「あれ? 聞こえてないのかな?」
「いいや、聞こえておるぞ」
久しぶりに声を出す。うまく喋れているだろうか。
「おにーさん、そこ神様のものなんだから座っちゃだめだよー」
「ふむ、なるほど」
私は賽銭箱から降り、少女のそばへと向かう。少女は私を見上げている。
「あれ? おにーさん? おねーさん?」
「さて……どちらだと思う?」
「んー……おにーさん、かな?」
彼女の中では私は男性になったようだ。
「ならばそうなのだろう」
少女は私を見つめたあと、笑顔になる。
「私、さくらっていいます。おにーさんは?」
「名前は、ないな」
「え? ない、の?」
少女はびっくりした顔で私を見る。
「ああ、ない。私はそういうものだからな」
「そういう……?」
「この社の主だからな」
「神主さん?」
少女は首をかしげながら私を見る。
「ふふふ、ははははは、なるほど。神主か」
私の笑い声に合わせて風がそよぐ。
「さくらとか言ったか? ふむ、さくら、か……では、私は登志夫としようか」
「としお?」
「そう。登る、志、夫で、としお」
「としおにーさん、よろしくね」
さくらは笑顔で私の手をとる。私もさくらの手を握り返した。
さくらは七日に一度、この社にやってくる。だれかが設えた長椅子に座り、他愛もない話をして帰っていく。
初めて出会ってから三ヶ月が経った。雨の季節だが、不思議とさくらの来る日は晴れている。
「ねえ、としおにーさん」
「なんだ?」
「普段、なにしているの?」
「昼寝だな。忘れかけられた社に来る物好きはさくらしかいないからな」
私は両手を広げ、境内を指し示す。狭い境内にはこの長椅子と、小さな社、手水舎がある。手水舎の水盤には水はなく、柄杓もない。
荒れ果てた社。信仰は失われつつあり、そして。
「お掃除しようよ! そしたらみんな来るようになるよ!」
「んむ」
さくらの言葉に面食らう。
「そういうわけにもいかないのだよ」
「なんで?」
私は曖昧に微笑む。
「まあ、大人の事情だ」
さくらとの交流は私に力を与える。朽ちかけた社殿はほんの少しだけ持ち直した。
「ここは、涼しいねえ」
「ああ、そうだな」
夏の暑さは世界を焦がすが、ここにはまだ私がいる。
「みんなも連れてきていい?」
「それは……いや、いい。大丈夫だろう」
翌日。人の気配を感じる。
「としおにーさん! みんなと来たよ!」
さくらの元気な声が聞こえる。いつもと違うさくら。
「うわー、本当だ、涼しい!」
童の華やかな声が境内に広がる。
私は気配を薄め、賽銭箱に座ってみている。
「あれ……? としおにーさん?」
さくらは賽銭箱に座る私をじっと見ている。
「どうしたの? さくらちゃん」
桜に話しかける娘。歳頃は同じくらいだろうか。
「んー……いつもいるおにーさんがいないんだよ」
「おにーさん?」
「そう。すっごくきれいな人なの。最初おねーさんかと思ったの」
水盤に登ろうとする童がいる。少し強い風を吹かせる。
「うわわ!」
童は風に驚き、水盤から落ちそうになる。
「あ! 健太だめだよそこ登っちゃ! ここは神様の場所なんだから悪ふざけしないの!」
さくらが手水舎に向かう。
しばらく境内で涼んだあと、童は帰っていった。薄めた気配の私に気がついたのはさくらだけだった。
とはいえ、幾人かの童が私に敬意を払っていた。敬意は信仰であり、私に力を与える。
翌日、健太がやってきた。
いたずら者に加護を与える気はない。
涼気を切る。
「暑い……昨日あんなに涼しかったのに!」
健太は社殿に近寄ってから一言文句を言い、賽銭箱を蹴っ飛ばした。
そうか、それが望みか。ならば叶えてやろう。
冷気を健太に叩き込む。
「え、え、え! 寒い、寒い!」
健太のむき出しの腕に鳥肌が立ち、震える。両手で腕をさするが、そんなもので防げるわけもない。
唇は紫に。しゃがみこんでぶるぶると震える。
健太の前に立ち、見下ろす。
さあ、そのまま。
「おにーさん! だめ‼」
さくらの声。
健太は倒れていたが、まだ息はあった。
あれからまた誰も来ない日々が続く。だが、十二日後、さくらが一人でやってきた。
「としおにーさん、ごめんなさい」
「なにがだ?」
「健太のこと。賽銭箱を蹴っ飛ばしたって」
「ああ、そのことか。あの童はその罰を受けた。それだけのことだ」
人との交流は、私に力を与える。だが。
「あのね……としおにーさん」
何かを言いたげなさくらが私を見上げる。
「もしかして神様? とでも言いたいのかな?」
「あ、え、その……うん」
「まあ、そのようなものだ」
私はさくらに微笑む。これで、もう。
「そっか。そうなんだ」
さくらは頷くと私の手をとる。
「でもね、あんまりひどいことしちゃだめだよ」
「怖くないのか?」
「としおにーさん、悪い人じゃないでしょ? あ、人じゃないんだっけか」
さくらはころころと笑う。私は小さくため息をつき、微笑を返す。
「これからも、ここに来ていい?」
「ああ。ただあの童のようなものは困るがな」
「うん、わかったよ!」
さくらは変わった子だった。私を見ることができる唯一の存在。
かつては皆私を見る事ができた。
いつのころからか、見ることはできず、でも感じることができる人たちが増えていった。
しばらくして、その感じることもできなくなったがそれでも敬意を払う人たちが出るようになった。
敬意を払う人達もいなくなり、私はここで朽ちていく社と共に消えていくはずだった。
「登志夫さん、どうしたの?」
あれから七年、さくらは童から少女になった。呼び方もとしおにーさんから登志夫さんになった。
「昔を思い出していた」
さくらは七日に一度、ここに来る。一人で来ることが多いが、時折友人を連れてくることもある。健太のような乱暴者はいなかった。
さくらが連れてきた友人たちは、一人でふらっと来ることもあったが、稀だ。
それでも、私は少しずつ力を取り戻している。
手水舎の水盤は清水をたたえるようになった。小さな社は中に入ることもできるようになった。
「さくらが来て、私を見出してからもう七年か。あの日も梅雨の合間の晴れの日だったな」
「そんなになるかしら?」
「荒れ果て、朽ちていくだけだったここが、ここまで持ち直した。さくらには感謝しかない」
長椅子に並んで座っていたさくらが、私の膝の上に手を置く。
「登志夫さん、あのね……」
さくらはしばらく逡巡し、口を開く。
「私、あなたのことが好き」
さくらは頬を染めて私を見る。
「私が何ものか、わかっていて言っているのだな?」
「うん」
「そうか。歳はいくつだったか……」
「来年の四月で十六です」
「裳着をしていてもおかしくはない歳になっていたのだな」
「もぎ、ってなんですか?」
「成人の儀式だよ」
私はさくらの頭を軽く撫でる。
「んもう、登志夫さん、また私を子供扱いするー」
「裳着も済ませておらぬ童だからな」
長椅子から立ち上がり大きく伸びをする。
「ふふっ」
さくらが小さく笑う。
「なんだ?」
肩越しにさくらを見ると、さくらは口に手を当てて小さく笑っていた。
「だって、神様なのに人間臭いんですもの」
「ふむ」
私は頷くとさくらに顔を寄せる。
「私で遊ぶとは……覚悟はできているのか?」
固まったさくらをみてくっくっと笑う。
「冗談だ」
さくらの頭を乱暴に撫でる。
「あー! ひどい!」
「良人は誂うものだ」
こちらも手で口元を隠し、流し目でさくらを見る。
さくらはぼーっと私を見上げている。
「登志夫さん、綺麗……」
「それは、どうも」
少し覚悟を決めて言ったのだが、通じなかったようだ。
秋と言うには少し厳しい気候の昨今。とはいえもう神無月だというのにさくらは腕を出した服でここに来た。白に花の絵があしらってある。
「もう神無月だぞ。寒くないのか?」
「平気よ。それより登志夫さん、新暦で数えるのね」
「時代の流れだな」
時代に取り残されたこの社にいる私が、時代の流れを語る。なにか皮肉めいたものを感じる。
「いつも登志夫さんはその格好ね」
「まあ、そうだな」
「暑かったり、寒かったりしないの?」
「せぬな。私をなんだと思っている?」
「……そうよね」
さくらはしばらく考えてから微笑む。私も笑顔を返す。
「ね、これ狩衣って言うんでしょ?」
「ああそうだ。さくらのその服は、わんぴーす、とか言うておったか?」
「そう。かわいいでしょ?」
「服のことはとんとわからん」
「んもう!」
少し怒ったさくらの可愛い顔をみながら微笑む。しばらく怒っていたさくらが、ふと目を伏せる。
彼女が切り出すのを待つ。
「あのね」
さくらは顔をあげ、私を真っ直ぐ見る。
「今度の冬、私、受験なんだ……」
そこでまた俯いてしまう。私は彼女に近寄り、そっと頭をなでてやる。出会った頃は胸にも届かぬ位置にあった頭は、いつの間にか私の肩に届くまでになっている。
「だからしばらくここに来れないの」
「なんだ、そんなことか。大丈夫だ。いままで軽く百年以上、誰にも気づかれずに生きてきた私だぞ」
さくらの髪をくしゃくしゃとすこし乱暴にかき混ぜる。
「なにするのよー!」
さくらが手を振り上げる。私はひょいっと宙に浮く。
「あー! 逃げたー!」
「悔しければさくらも浮けばよいのだ。楽しいぞ」
「できるかー!」
さくらが笑いながら手を突き上げ、跳ねる。
「そうか」
下に降りたらさくらに軽く叩かれた。痛くはないが抱きしめて動きを邪魔する。
「あっ……登志夫さん?」
そのまま宙に浮く。
「わっ、わっ、わっ!」
「しっかりと掴んでおれよ」
「ねえ、登志夫さん、周りからこれどう見えているのかな?」
「見えない。さくらも含めて」
「えー、なんで?」
「なぜと言われても、そういうものなのだよ。しばらく会えぬのだろう? だったら少し楽しんでいくがいい」
見慣れた街並みではあるが、さくらと共に見るのはなかなか新鮮だった。
春。弥生。
さくらがやってきた。半年ぶりだ。鳥居の上からさくらの様子を眺めていた。
さくらは社に向かい、きょろきょろと左右を見回す。そのあと、肩を落として長椅子に座る。
私は鳥居から大回りをして長椅子の後ろにゆっくりと降りる。
さくらは小さなため息をついた。
「どうしたのかね?」
「うわわわ!」
さくらは長椅子から飛び上がり、振り返る。
「んもう! 登志夫さんひどい!」
「何がだ?」
「脅かすなんて!」
私は微笑みながらさくらを見る。
「んもう……」
さくらは頬を染めて私を見る。
「あのね、私、合格したの」
「ほう……」
合格が何を意味するのかは知らぬが、とりあえず頷く。
「ね、登志夫さん。ご褒美ちょうだい?」
「……ご褒美、ねえ」
潤んだ瞳で私を見上げるさくらを見て、暫く考える。さくらのそばに立つ
さくらは目を閉じている。両手で桜の顔を包み込む。
さくらは顔を少し上に上げる。
両の頬をつまんでみた。
「ひろいよ! とひおひゃん」
頬を両手で包み、そのあと抱き寄せる。そっと耳に口を寄せる。
「さくら、これ以上はお前はもう……それでもいいのか?」
「初めてあなたと会ったときから、ずっと……」
さくらの温かさを感じる。それは私のちからになる。
打算なのだろうか。
さくらは高校とやらに行っている。
だいぶここに来ることも減った。一ヶ月に一度くらいだろうか。
だが私は朽ちるどころか、より一層ちからを得ている。
さくら。
彼女にあわせて登志夫などと名乗ったが、それがある種呪いのようにも働いているのかもしれない。
季節は夏に変わろうかというころ。
徐々に厳しい暑さがやってくる。
そして熱は夕立を呼ぶ。
私は雨に濡れることはないが、さくらは違う。
分けてもらったちからを削り、雨をしのげるよう社殿を設える。
「あれ?」
さくらが境内に入ってきた。社殿を見て首をかしげる。
「一月もあれば様子は変わるものだよ。さくらもそうだろう?」
さくらは髪を短く整えていた。
「暑いものな。仕方あるまい」
さくらは少し目を伏せ、その後私を見上げ、頷く。
「登志夫さんは髪、長いね」
「伸びることはないがな」
さくらがクスクスと笑う。
「なんだ?」
「登志夫さん、綺麗だから……初めて会ったとき、お姉さんかお兄さんかちょっと悩んだのよね」
「おにーさん、と呼ばれたと思うが……?」
さくらは微笑み、私を見る。
「多分、私の願望がお兄さん、を選択したんだと思う」
「そうか」
登志夫という名前を選んだのは、私の願望。
さくらと私は似ているものなのかもしれない。
ゆるやかな時はいずれ終わりを迎えるもの。
悠久を生きるものの運命ではあるものの、その事実を先送りにしていた。
その優柔不断さが、私を酷く打ち据えることになる。
久しぶりに来たさくらは、ずっと長椅子に座って地面を眺めていた。
私はその隣に立ち、さくらが話し出すまでずっと待っていた。
「私、大学受験、静岡にしたの」
ぽつり、とさくらが言う。
「ほう?」
「来年の春には、ここにいないの。ここ数年、雨が酷くなっているでしょう?」
夏の暑さは年々酷くなり、そしてその熱気は雨を呼び込む。そう梅雨や秋雨などという趣のある雨ではなく、豪雨が降る。
豪雨は洪水を呼ぶ。ここにも避難してきた人間が何人かいた。
ただその人間も避難が終われば二度と来ない。さくら以外、ここは居心地がどうも悪いらしい。
「パパやママはもう限界だろうって。政府もここを放棄するんだろうって言ってる」
「ふむ。なるほどな」
政府というものは朝廷のようなものだ、とさくらに聞いたことがある。まあ遷都というやつだろう。
「ね、登志夫さん。一緒に静岡に行きましょ? ね、ずっと一緒に……」
「悪いが、私はここを離れるわけにはいかん」
さくらは目を丸くして私を見る。
「あ、ああ、そうよね……」
私は今どんな表情をしているのだろう。
「今までみたいに何度も、ってのは無理だけど……でも……」
「もう二度とここには来るな。登志夫などというものはいなかったのだ」
私の言葉に、さくらが硬直する。
「……その……登志夫さん……怒っている?」
「登志夫とは誰のことかな? まあいい。そもそも我らは人の前に現れるなどということはしない。お前の前にいる私の姿というのは、幻だ。その幻を見せるのもただの気まぐれというものだ」
キリキリと私の存在を自ら切り刻んでいく。
「登志……夫……さん?」
「忘れろ。一時の戯れだったのだよ」
私は自らの存在を薄めていく。
「登志夫さん! 嫌よ! 嫌だったら!」
さくらが手を伸ばす。私の頬に触れる。
私は更に存在を薄めていく。
「私は私の勤めを果たさねばならぬ。お前が、お前の勤めを果たさねばならぬように」
こころが、痛む。
一緒にいたいと思うこころ。一緒にいたいと願うこころ。
そのこころが切り刻まれていく。
ほんの僅か、生き延びたこと。その僥倖を胸に、静かに朽ちていくべきなのだ。
「そう、お前に構っている暇などない、のだよ」
自らのこころを刺す。
さくらが泣いている。わかっていたことなのに、なぜ、私はこんなにも。
だからこその私なのかもしれない。小さな社に縛り付けられた私。
「さよならだ、さくら」
さくらはしばらく泣いていたが、ここを離れた。そう、それでいいのだ。
私は信仰を失ったもの。このまま朽ちていくべきものだったのだ。
だがほんのひととき、夢を見てしまった。
社を見上げる。
「見つけた!」
後ろから抱きつかれた。
「帰ったのではなかったのか?」
「私、静岡に行っても、年に一回はここに来ます。ちゃんと、いてね」
私は空を見上げる。
「わかった。約束しよう」
「うんっ」
さくらは、たくさんの言葉を、思いをもつもの。彼女もまた、だから。
「大好き、登志夫さん!」
だからこそ、眩しい。
いま一時の幻を見るのも、また。
振り返り、さくらを抱きしめる。
違う。私が私であるために。
「奇遇だな。私もだ」