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面倒くさがり屋の神様

面倒くさがり屋の神様にご奉仕中! ~珠子と神様の出会い~

作者: 藤谷 要

 宮本みやもと珠子たまこにとって幼稚園最後の夏休みは、特別なことだらけだ。

 一週間前、病院で手術したことも初めてで驚きの体験だったが、今はなんと地元の神社の建物の中にいる。


 白い布が掛けられた長椅子が並んで置かれていた。その一つに珠子は母と座っている。


 目の前には、広い祭壇があり、珠子にとって珍しいものばかりだ。

 この近寄りがたい場所で、神主が独特なイントネーションで祝詞を発していた。

 その呪文のような声を聞きながら、先ほど母が神主に語った内容を思い出す。


「首の後ろにある痣を手術で取ってもらったんですよ。それなのに、またすぐに出来ていたんです。おかしいと思いませんか」


 母は得体の知れない現象をひどく恐れ、何か目に見えない不可思議な存在のせいだと考えているようだった。


 神主は珠子たちに同情してくれた。


「良くなるように神様に祈祷できますが、どうなさいますか」

「是非お願いします」


 珠子も母を不安がらせる自分の肌をなんとかしたかった。

 早く治りますように。必死に祈るしかできなかった。




 神主の祈祷が終わった後、母と二人で神社の本殿から出た。

 これで良くなるのだろうか。

 珠子は自分の身に何か起きたようには思えなかった。けれども、自分よりも怯えている母にそのことを告げられなかった。


 母は無言で参道を歩き、珠子の手を引く。

 珠子のおなかが不快な感じを訴え始め、少しだけ空腹に気づいたが、気軽に今日の夕飯のメニューを尋ねる雰囲気ではなかった。


 夕陽が境内を赤く染めている。

 少しだけ涼しくなった風が、珠子の頬を撫で、肩の上で切り揃えられた髪を揺らして去っていく。

 小さな山の上にある神社の周りは自然に囲まれていた。

 昼とは違って虫の気配はなりを潜め、代わりに山の麓を走る車の稼働音が遠くから聞こえてくる。


 黙ったまま参道の石畳を歩いていると、突然耳に異変が起きた。

 キーンと金属が鳴り響いたのような音が耳のすぐ側で聞こえる。

 それから珠子の周囲にあった生暖かい空気が、急激に無くなった気がした。

 まるで一気に冷えたような、そんな感覚に似ていた。

 途端に背筋にぞくりと悪寒が走る。

 珠子は思わず立ち止まり、さらに後ろが急に気になって振り返った。


 珠子は咄嗟に息を呑む。

 男の人がいた。

 それまで珠子たち以外に人の気配はなかったのに。


 突然背後に現れた男に珠子は叫びそうになるくらい驚いた。

 彼は父よりも若いが、珠子よりもずっと年上の大人だ。

 珠子から見れば、「お兄さん」という呼び名がふさわしい年頃だ。

 しかも、かなり顔が整っている。

 その瞳は吸い込まれるように大きく、冴え冴えとした印象を受ける。

 鼻筋はまっすぐで、唇は凛々しく一文字に結ばれていた。

 さらに驚くことに、彼の恰好が普通ではなかった。

 先ほどの神主のように和服を着ている。

 まるで昔話から飛び出してきたような狩衣かりぎぬ姿だ。


 彼の雰囲気は、今まで出会った人と全く違った。

 周囲を圧倒するような気迫と、近づくことが恐れ多いような恭しい不思議な気配を兼ね備えていた。


 彼の真剣な顔つきは、こちらに危害を加えそうな様子はない。でも何か用があるみたいに彼の両目はまっすぐ向けられている。

 母ではなく、珠子に。


 その強い視線が怖くて、居心地の悪さを感じる。

 本能的に近寄りがたい、思わず警戒してしまうような違和感を。


「お兄さん、だれ」


 気付いたら、珠子の口から怯えた声が出ていた。


「珠子」


 すぐに咎めるような母の声が頭上から響いた。珠子がいきなり立ち止まったので、母も一緒に歩みを止めていた。


「すいません」


 母が後ろにいた男に頭を下げた。

 見知らぬ人にいきなり無遠慮に話しかけたことを母は気にしているようだ。


 「行くわよ」


 珠子を促して歩き始めようとする。やや強引に手を引っ張られたとき、


「私はここに住む神である。其方たちの願い、聞いたぞ」


 男から急に話しかけられて、母は再び立ち止まった。

 母は振り返って、男を見つめる。戸惑いを母から感じたとき、目の前にいる男が珠子を迷いなく指さし、再び口を開いた。


「その娘の首の、鱗のような痣、私なら治せる」


 その言葉を母が聞いた途端、息を呑んでいた。


「なぜ、それを」


 母の小さな呟きが珠子の耳まで届いた。ここで母がそのことを話したのは、神主のみだった。

 他に人はおらず、しかも痣は見せなかった。どんな状態なのか、神主にも教えなかった。


「その娘は、前世で蛇と因縁がある。首の痣はそれが原因だ」

「もしかして、その蛇に狙われているのですか!? うちの珠子が」


 現在、珠子の首には包帯が巻かれていて、初見の人がその下に何があるのか知る由もない。

 隠された事実を見事に言い当て、さらに母の不安すらも的確に指摘した。男は人智を超越した力を見事に証明していた。

 母の問いに神と名乗った男は、無言で頷いた。


「お願いです! どうか助けてください!」


 母は突然現れた神様に必死に懇願していた。

 痣は外科の手術では手に負えなかった。母の中で、もう神頼みしかなく、神社に祈祷に来たくらいだ。


 神様はじっと母の目を見つめる。その視線は、母の気持ちを試すように言葉なく眺めていた。しばらくの沈黙ののち、神様は深く頷いた。


「私と同じ眷族の仕業だから、わざわいから娘を守ることはできる。その代わり――」


 言い淀む神様に母は不安げに顔を傾げた。


「その代わり、何ですか……?」


 母に促されると、神様は珠子に視線を向ける。


「娘よ。私に奉公するのだ」

「えっ!?」


 予想外の申し出に珠子は驚いて思わず声を発していた。


 言葉が難しくて理解できなかったが、珠子は神様のために何かしなくてはいけないらしい。

 自分に何ができるのだろうか。危なくはないのだろうか。怖い想いはしないのだろうか。

 色々な不安が頭の中をよぎっていく。


「あの、奉仕と仰っていましたが、具体的に珠子は何をすればよいのですか?」


 珠子の気持ちを代弁するかのように、母が用心深く、神様の真意を尋ねる。

 すると、神様は初めて機嫌良さそうに笑顔を浮かべた。でも、まるで何か都合の悪いことを誤魔化すような笑みのように珠子は感じてしまう。


「なに、難しいことではない。たまに私のところへ来て、できる手伝いをしてほしい。遅くならないうちに、ちゃんと家に帰そう。約束する」

「平日は幼稚園があるので、休日で良ければ、それは可能ですが……」

「うむ、そちらの都合に極力合わせよう」

「そ、そうですか。――では、うちの珠子をよろしくお願いします」


 母は神様の言葉に納得したのか、彼に向って深々と頭を下げた。珠子のことを任せることにしたようだ。


(ええっ!?)


 珠子は内心絶叫していた。相手は神様とはいえ、とんでもない約束をしてしまったような気がしたからだ。


「ほら、珠子もきちんとお願いしなさい」


 母に言われて珠子も渋々ながらも頭を下げる。


「よろしくお願いします」


 言葉とは裏腹に、内心は大きな落とし穴の中に放り込まれたような気持ちでいっぱいだった。

 その胸中を神様は知ってから知らずか、「うむ、良き心構えである」と、堂々とした口ぶりで珠子を受け入れていた。




 §




「ティッシュよーし、ハンカチよーし。あとはお土産ね」


 母による身支度チェックが終わる。珠子は母に手伝ってもらいリュックを背負う。リビングから玄関に向かおうとしたところ、カリカリと扉を引っ掻く音が先方から聞こえてきた。

 珠子の玄関の扉には擦りガラスが縦に一部入っている。いつものように誰が外にいるのか窺ってみると、犬のような四つ足の生き物が見えた。


「あら、来たみたいね」


 母が正体を察して呟く。

 あの奉公の約束をした後日、神様の遣い――神使しんしとして二匹の犬の訪問があった。その犬は神様からの手紙を携えていた。奉公の日の取り決めについてだ。

 前回と同じように珠子が玄関の扉を開けると、犬たちと目があった。

 こちらの姿を見て、嬉しそうにくるりと丸まった尻尾を振る。

 見間違えることなく、芝犬だ。

 それぞれ色違いの布を首に巻いていた。

 短毛のみっしりと生えた茶色の毛皮に珠子は思わず触れたくなる。

 二匹の犬は、珠子の脇をすり抜けて、玄関の土間に遠慮なく入り込んできた。

 珠子が取っ手を離すと、カチャリと蝶番が音を立てて、扉が再び閉まった。


「珠子様、準備は良いですか」


 うぐいす色の布を巻いた犬が喋った。

 以前、名をアソウと名乗っていた。

 初めて目の当たりにしたときは、「犬がしゃべった!」と、宮本家全員が腰を抜かしそうになるほど驚いたものだった。

 母から話を聞いて半信半疑だった父も、これによって珠子たちの不思議な話と神様の存在を信じるようになった。


「幼き身では神社までは難儀だろうと、迎えに来ました。これをどうぞ」


 もう片方の黄土色の布を巻いたウンソウという犬が、相棒の首に顔を向ける。

 よく見ると、アソウの首に巻かれた布には白い紙が細く折られて短冊のように差し込まれていた。

 その紙をウンソウは口で器用に布から抜き取ると、差し出してきた。

 珠子が受け取れば、端がちょっとだけ濡れている。その部分を避けながら紙を慎重に開くと、珠子には読めない難しい字が書かれていた。


「それを持ったまま扉を開けてください。主様の屋敷へと繋がります」


 珠子は言われた通り扉に手をかけた。少し緊張しながら力を入れてゆっくり開くと、驚くことに隙間から見えた景色が先ほどとは異なっていた。

 真っ暗だ。何もないように見える。本来なら、タイル張りのポーチがあるはずなのに、今は明かり一つない暗闇が目の前に迫っていた。

 突然の異変が恐ろしくて、救いを求めるように振り返り、神使に視線を送った。


「この先を進めば、主様の元の繋がり、辿り着きます。どうか、恐れず向かってください」

「うん……」


 犬は何事もないように説明するので、この状況は彼らにとっては想定通りなのだろう。

 本当に何も心配することはないようだ。

 ひとまず安全が確認できたので、珠子は勇気を出して、外へ足を一歩踏み出した。


「あれ?」


 珠子の口から思わず戸惑いの声が漏れた。

 再び、あっという間に視界が変わったからだ。見たこともない玄関が目の前にあった。

 両開きタイプの木製の引き戸だ。今はきちんと閉じられた戸には、格子模様が細工されている。

 珠子は次々起こる不可解な出来事に戸惑い、顔をきょろきょろと動かし、あちこち様子を窺う。

 すぐに瓦の載った切妻屋根が視界に入った。

 玄関の屋根の正面には、装飾された立派な破風はふまであった。


 ふと感じる空気にも違和感を覚える。珠子の住んでいた場所よりも、少しだけ風が硬くて冷たい。

 そのとき、背後から砂利の音がした。

 慌てて後ろを向く。

 今までいたはずの自分の家が無くなっていた。

 その代わり、門まで続く飛び石のアプローチがあり、そこに見知らぬ二人の少年がいた。

 彼らは色違いの作務衣を着て、双子のようにそっくりな顔をしている。

 二人のつり目がちな細い目が、珠子をまっすぐに見ていた。


「「ようこそ珠子様。ここが主様のお屋敷です」」


 二人の声が重なり、不思議な音色を奏でる。

 なんてことのない、ありふれた台詞なのに、心の奥にズンと重く響く。

 すぐにその声が犬と同じことに気付いた。

 さらに、犬が首に巻いていた布と同じ色の作務衣を少年たちは着ている。


「もしかして、アソウとウンソウなの?」


 まさかと思って珠子が尋ねると、二人は嬉しそうに笑みを浮かべて同時に頷いた。


「よくお分かりで。あちらでは、犬の姿で失礼しました」

「どうぞ珠子殿。中へお入りください」 


 犬が人間に変わった。その事実に衝撃を受けつつも、犬のときと同じ口調なので、人間に変わっても違和感があまりなかった。


 珠子は玄関から中を案内される。

 広い三和土たたきの土間が静かに出迎えてくれた。正面にある框は、琥珀色の深く美しい艶を放っていた。

 珠子は敷居の高さを否応なしに感じる。


 家の内装も外と同じように昔風の日本家屋だ。材質に年季が入っているわけではないが、障子戸や天井と鴨居との間に設けられた組子の欄間らんまの精密な細工や上質さが、格式の高い印象を与えていた。


 畳部屋の一室で神様を待つことになった。勧められた座布団に珠子はおとなしく座っている。

 初めて来た場所に一人きり。珠子は緊張を紛らわすように部屋の中を観察する。

 庭に面した障子戸は開け放たれていた。軒下にある縁側は日差しが遮られ、涼しげな風が先ほどから運ばれてくる。

 床の間があり、そこに花瓶が置かれ、白い花が上品に飾られていた。漆喰の壁には掛け軸があり、鮮やかな朱色の花と、可愛らしい小鳥が描かれている。

 黄緑色をした羽根の小鳥は、絵の中で今にも元気よく動き出しそうな躍動感があった。

 じっと観察していると、小鳥の顔の向きが先ほど違っている気がした。


「あれ?」


 思わず掛け軸に近づいて、食い入るように見つめる。

 すると突然、小鳥が紙の中で動き出した。ちょんちょんと跳ねるように歩き出す。


「え、うそ!?」


 絵のように見えるが、実はテレビみたいな画面があるのだろうか。

 仕掛けが気になって、思わず珠子は掛け軸に手を伸ばす。

 あとちょっとで触れるというところで、小鳥が突然絵の中から飛び出した。


 珠子の顔のすぐそばを突風のように小鳥が横切る。

 頬が風圧を感じた直後、小鳥の飛び去った方に慌てて顔を向ける。

 日の当たる庭がそこにあるが、すでに小鳥の姿を見つけることは不可能だった。

 あっという間に視界からいなくなっていた。

 今のは現実に起きたことだろうか。

 わずかな希望を抱き、もう一度絵を確認してみるが、そこには小鳥はいない。

 ただ綺麗な花が描かれているだけだ。


「ど、どうしよう」


 夏にも関わらず、どっと吹き出すように冷や汗が吹き出す。

 珠子が触ろうとしたせいで、小鳥が逃げてしまった。

 大人しく座ってなかったせいだ。

 好奇心のままに動いてしまったせいだ。

 今さらながら、自分の軽率さを悔やむが、もう珠子はどうすることもできない。小さな体に罪悪感が襲ってくる。


 すると、こちらに近づいてくる微かな足音が聞こえてきた。

 珠子は反射的に飛び跳ねるように立ち上がると、慌てて元の座布団に戻る。

 すぐに障子戸が開かれて、見た覚えがある顔が覗いた。


「待たせたね」


 神様だ。

 心地よい、こちらを気遣うような落ち着いた声だ。

 こちらの異変に彼は何も気づいていないようだ。

 珠子の小さな胸がじわりと痛んだ。

 

 彼は愛想の良い笑みを浮かべて入ってきた。

 けれども、先ほどの自分の失敗のせいで、この表情が恐ろしいものに変わってしまうかもしれない。

 そう思うと、体が震えそうになる。

 神様だから、怒らせてしまったら、すごい天罰が下るかもしれない。

 珠子のお腹のあたりが重くなった気がした。


 神様は置かれていた座布団に姿勢正しく座る。珠子と向かい合わせになった。

 今日の神様の召し物は、前回と異なり、羽織とつむぎの姿だ。

 鉄紺てつこんの落ち着いた暗めの青色がよく似合っていた。

 芸術品のような美貌もあって、そこにいるだけで、圧倒される雰囲気がある。

 神様もまっすぐに珠子を見つめるので、互いの視線が交差する。


 でも珠子は気まずさから、思わず神様から視線を逸らし、イ草の良い匂いがする畳を見つめる。

 いざ神様を目の前にしたら、頭の中が真っ白になって、どう行動したら良いのか分からず、何も話せなかった。


「珠子」


 そんな状態の中、神様に話しかけられて、珠子は再び相手を見た。

 彼は目尻を下げて、優しそうな眼差しでこちらを見つめている。


「約束を守ってくれてありがとう。よく来てくれたね」

「う、うん」


 緊張しながらも、なんとか珠子は返事をする。

 そのとき、すぐに母からの言い付けを思い出して、脇に置かれていた自分のリュックの中に手を突っ込む。


「あの、神様! これお土産のお菓子! お母さんがどうぞって」


 珠子は包装紙に包まれた箱を差し出した。

 母はあらかじめお菓子を近所のお店で買って用意していた。


「ああ、ありがとう。わざわざすまないね」


 神様は無事に受け取ってくれた。珠子は役目を果たせて、一安心だ。

 けれども、先ほどの小鳥のことが頭から離れず、生きた心地がしない。


「アソウ、ウンソウ」


 神様が二人を呼ぶと、「はい」とすぐ近くの廊下から返事が聞こえる。

 それまで気配に気付いてなかった珠子はすごく驚いた。

 障子戸が開いて二人が入ってくると、神様から土産を渡される。


「これと、茶の用意を」

「はい」


 二人が退室した後、再び神様と二人きりになり、珠子はまた何を話せばいいのか落ち着きがなくなる。

 本当なら、小鳥のことを正直に話すべきだろう。しかし、口を塞がれたみたいに重くなって、なかなか切り出せなかった。


「そういえば、珠子は現在いくつなのかな?」

「……五歳」


 珠子は十二月生まれなので、まだ今年は誕生日を迎えていなかった。


「そうか。普段は何をして過ごしているのかな?」

「幼稚園に行ってるの」

「幼稚園? それはなんだい?」

「お友達がいて、遊んだりするの。楽しいよ」

「そこに通っているのか?」

「そう。珠子はね、バスに乗るの。歩きさんもいるよ。珠子のほし組の先生はゆきこ先生って言うの」

「そうか。珠子みたいな幼子は、幼稚園という場所で過ごすのか」

「うん」


 神様は幼稚園を知らなかったらしい。神様はなんでも知っていると思っていたので、とても意外だった。


「私が知っている頃とは、ずいぶん変わっているのだな」


 神様が何と比べているのか、珠子には全然見当がつかなかった。


「……神様は何歳なの?」

「さあ、分からない。でも、すごく昔から存在している」

「人間のお友達はいなかったの?」

「いたこともあるけど、すぐに別れてしまうから」


 そう言った神様の眼差しに陰りが少し見えた気がした。


「失礼します」


 アソウたちがやってきて、珠子と神様に給仕してくれた。


「おもたせで失礼ですが」


 茶托に置かれたお茶碗と皿にのったお菓子が畳の上に置かれた。

 先ほど珠子が渡したまんじゅうだ。

 好きな食べ物だったが、今は喉を何も通る気がしなかった。

 二人は用が済むと再び退室した。

 すぐに手をつけない珠子に神様が気づいて、「珠子、遠慮せずに召し上がれ」と声をかけてくれる。


「うん」


 そう返事をしたが、それでも食が進まなかった。

 土産を買うとき、神様の好みなんて見当もつかないと母が悩んでいたとき、珠子が選んだ品だった。


「どうしたんだい? 何かあったのかい?」


 そう心配そうに尋ねられたとき、びくりと肩が震えた。

 不審がられてしまった。

 黙っているだけでも悪いことなのに、この質問に嘘をついたりしたら、それこそ珠子は悪い子になってしまう。

 重圧にぺちゃんこにされそうだった。

 なにより、珠子を気遣ってくれた神様に対して、申し訳なかった。


「ご、ごめんなさい……」


 謝った途端、珠子の目から涙まで浮かんできた。

 すぐに白状できなかったことも、さらに珠子を追いつめていた。

 気持ちが溢れるように嗚咽がこみ上げて、ただ感情に振り回されていた。


「だ、大丈夫かい!? なにか怖がらせてしまったのかい?」


 神様が血相を変えて、身を乗り出して慌てて珠子の側にずり寄ってきた。

 珠子も慌てて首を振り、その言葉を否定する。決して神様のせいではないと。

 しゃっくりを上げて珠子は掛け軸を指さした。


「珠子のせいで、こ、小鳥がいなく、なっちゃった、の」

「え? 小鳥がいたのかい?」


 神様の掛け軸を見つめる目が、大きく見開かれる。


「珠子のせいって、一体何をしたんだい?」

「小鳥が動いた気がしたから、触ろうとしたら、こ、小鳥が逃げちゃったの」


 珠子が一生懸命に涙を堪えながら説明すると、「なるほど、そういうことか」と神様が合点したような声を上げた。


「大丈夫だよ。珠子は何も悪いことをしてないよ。この小鳥はいつも勝手に掛け軸を出入りをするんだ」

「そ、そうなの? ちゃんと帰ってくるの?」

「ああ、そうだよ」


 神様のしっかりとした声を聞いて、珠子はやっと安心することができた。自分の勘違いだったようだ。

 もう泣かなくていいはずなのに、嗚咽によって引き起こされたしゃっくりはすぐには止まらなかった。

 ごしごしと涙で濡れた顔を袖で拭いていると、いきなり頭ごと体を抱きしめられた。珠子はびっくりして、動きを止める。慣れない良い香りに包まれて、戸惑いを隠せなかった。


「すまない。掛け軸の中の生き物が動くなんて、色々と驚かせてしまったね」


 神様の穏やかな声が体に直に響き渡る。

 神様の珠子の背中に触れる手が、大事なものを扱うように丁寧で優しかった。布越しに伝わる温もりは、言葉よりも確かに想いを伝えてくれる。

 ざわついていた心が、少しずつ落ち着いていく。そうすると、今度は自分のせいで神様の手を煩わせてしまったと、ばつが悪い感じがしてきた。 


「神様は悪くないの。珠子が、すぐに言わなくて悪かったの。ごめんなさい」


 その珠子の言葉を聞いて、神様は少し驚いたように腕をピクリと反応させた。

 すぐに珠子から体を離したので、再び気に障ることをしてしまったのかと不安になる。

 珠子がじっと神様を見つめていると、相手は嬉しそうに微笑みながらこちらを見下ろしていた。


「珠子は優しいね」


 神様は珠子の顔を覗き込み、二重の綺麗な両目を向ける。彼の長いまつ毛が、よく見えた。


「私は、そんな珠子が好きだよ」


 ゆっくりとした穏やかな声は、まるで丁寧に思いが込められているようだった。


 神様の気持ちが嬉しくて、胸の中がほんのり温かくなっていく。


「ありがとう」


 珠子が素直に頷くと、神様は口角を上げ、安心したように笑みを浮かべた。

 透き通ったような白い肌に、血色の良い滑らかな唇。まるで少年のように無邪気な笑顔だったので、珠子は一瞬状況を忘れて見惚れてしまった。

 そんな珠子に気づかず、神様は掛け軸に視線を向けた。


「珠子。この絵の小鳥は、いつも掛け軸の中に滅多にいないんだよ。特に人の気配は遠くにあっても嫌がるんだ」


 神様がそう説明していると、部屋の中に何か小さなものが飛び込んできて、素早く床を跳ねるように歩いた。


「あっ」


 先ほど逃げた小鳥だ。小さなくちばしに何か咥えている。ほとんど隠れて見えなかったけど、飛び出た細長い足が見えた気がした。


 珠子は虫の気配を察して、ソワソワと落ち着かなくなる。あの得体の知れない小さな存在が、正直とても好きではなかった。


 小鳥は羽ばたいて掛け軸に戻っていく。絵の中の枝に止まったと思ったら、上を向いてもぐもぐと獲物を丸呑みしていた。


「でも、珠子がいるときに戻ってきたね。これは一体、どういうことかな」

「……偶然ではないの?」


 珠子は神様の言葉に首をひねる。


「珠子には因果があるからね」


 神様はそう言いながら、手を珠子の首の後ろに伸ばした。

 こちらから見えなかったが、垂らしていた髪に神様の指が触れていく感覚が伝わる。


「もしかしたら――」

「え?」


 珠子は神様が何をするのかと気になったが、その言葉に驚いて気を取られたとき、神様の指がゆっくりとなぞるように首の肌の上を動いた。

 髪で隠している珠子の鱗状の皮膚にまで到達したとき、静電気が起きたみたいにピリッと小さな痛みが走る。

 珠子は体を竦め、思わず神様の手から逃げようとしていた。


「ああ、すまない」


 神様の指が慌ててそこから離れた。


「これは徐々に取り除かないと、珠子に負担がかかるかもしれないね」


 珠子は神様の説明を思い出す。

 首にある鱗のような皮膚は、珠子の前世で蛇と因縁があったせいだと。


 珠子が不安になって神様を無言で見上げていると、視線に気づいた神様はこちらを安心させるように微笑んだ。


「大丈夫、珠子のことは私が守るから」


 その力強い言葉から確かな意思を感じる。

 心強く感じて、珠子は素直に頷いた。すると、神様はゆっくりと腰を上げた。


「さ、気を取り直して、お菓子をいただこうか」


 元の場所に戻った神様の言葉に異論などなかった。


「うん、いただきます」


 珠子は添えられていた竹のフォークでさっそく食べ始める。

 このお店のまんじゅうは、珠子もお気に入りだった。

 小さい珠子の口の中に、丸い菓子があっという間に消えていく。

 白い生地はふわふわで、中の甘い餡子とよく合い、絶妙な組み合わせだ。

 同じようなまんじゅうはあるが、この生地や餡子の抜群な食感を超えるものには、まだ出会っていない。


「美味しいね。さすが珠子が気にいるだけある」


 神様も食べていた。味合うように、少しずつ。珠子が見つめている最中、どんどん竹に刺さっているまんじゅうが小さくなり、やがて食べ終えていた。


「うん。そうなの」


 神様も満足そうに食べていたので、珠子は嬉しかった。


「あ、でも。どうして珠子が気に入っているって知っていたの?」


 珠子はまんじゅうについて神様に話したことがなかったので、とても不思議に感じていた。

 すると、神様は可笑しそうに噴き出すと、声に出して笑い始めた。


「珠子があんなに幸せそうに食べる顔を見たら、好きなんだと、すぐに分かったよ」


 そう説明してくれた神様はとても好意的で、笑う様子も自然だった。


「そっか、えへへ」


 初めにあった神様との隔たりが、すっかりなくなった気がした。

 こんなに優しい人なら、不安になる必要はなかったと、肩の力がすっかり抜けていく。


「そういえば、次も神様のところに珠子は行くの?」

「そうだよ。たまに私のところへ来て、色々と教えて欲しい。——そう、珠子のことをね」


 珠子は神様に何を教えられるのかと分からなかったが、彼は幼稚園も知らなかったくらいだ。きっと珠子の想像を上回るほど、現在の生活について知らないのだろう。


「それはいいんだけど、珠子よりも大人に尋ねたほうがいいかも」

「それだと、関係のない人間を巻き込んでしまう。忘れたのかい? 珠子は首の痣を私に取ってもらう約束をしただろう? 今回の奉仕は、それの対価だ」

「ほうし? たいか?」


 珠子は難しい言葉を理解できなかった。首を傾げて、相手を見た。


「つまり、私が珠子を助ける代わりに、珠子が私を助けるというわけだ」

「そっか、分かった!」


 元気よく頷くと、ご機嫌そうに神様も頷いた。互いに見つめあって、ニコニコと微笑み合う。

 今日だけで、すごく神様と打ち解けた気がした。

 現実では起こりえない出来事も沢山目の当たりにして、まだ胸がドキドキしている。


(庭があるくらいだし、お外があるんだよね。探検してみたいな!)


 また来たいと思えるくらいに、珠子は今回の訪問を楽しんでいた。


「じゃあ、またね」


 珠子は神様たちに玄関で見送られながら、引き戸を開ける。

 すると、今度は珠子の家の玄関内に繋がっていた。

 タイル張りの土間に足を踏み入れると、それまであった神様の屋敷の戸が消えて、珠子は一人玄関の中に立っていた。

 いつもの自分の家に帰っていた。それまでの出来事が嘘のように普通の日常に戻っていた。

 でも、手の中には神使たちから帰り際にもらったお土産の包みがある。

 まんじゅうのお礼に大福をもらったのだ。だから、夢ではなく、現実に起きたことだ。


 初めは怖くて緊張していたのに、今は少し名残惜しいような、寂しい気持ちを感じる。自分でも意外だった。


 それから家の中にいる家族に声を掛けようと口を開きかけた。ところが、発するはずだった言葉を呑み込むはめになった。


「すまない。最悪この家にいられなくなるかもしれない」

「お父さんが悪い訳じゃないわ。気にしないで。この家を売って実家に戻ればいいじゃない」


 扉の向こうのリビングから聞こえてきた声の主は、珠子の両親だ。普段は優しく明るいのに、こんなに辛そうな父の声を初めて聞いた気がする。

 とても心配になって、今までの浮き足だった楽しい気分は、あっという間に霧散していた。



 §



 二度目の訪問は、三日後になった。

 珠子は神様の手紙を持ったまま自宅の玄関を開ける。

 すると、以前と同じように暗闇が広がっていた。今度は躊躇せずに彼の地に足を踏み入れる。一瞬で景色が明るくなり、夏の暑い日差しが珠子を照らす。


 目が眩んで細めた視線の先には、神様が住まう屋敷の玄関があった。

 住宅街の喧騒が一瞬で消え、風によって生じる木々のざわめきが微かに聞こえる。

 静謐な場所に様変わりした。


「ようこそ珠子様」


 背後から二人の神使たちに歓迎される。

 前回から期間をあまり開けなかったのは訳があった。神様から乞われたのだ。できるだけ早く来てほしいと。


「お邪魔します」


 珠子は前回と同じ部屋に案内されて、座って待っていた。天気が良いので、戸は開け放たれている。外から吹く風が心地よい。

 床の間に前回と同じように掛け軸があったが、小鳥の姿は元からなく、描かれているのは花だけだった。


「はぁ」


 思わずため息が出てしまう。

 出かける前の自宅の雰囲気が、相変わらず暗かったからだ。


「珠子、よく来てくれた。無理を言って悪かったね。実は渡したい物があるんだ」


 部屋に入ってきた神様は笑顔だ。

 でも、珠子は上手く笑い返せなかった。


「……こんにちは」


 口から出たのは、元気のない声だった。


「珠子、どうしたのだ?」


 神様はすぐに異変に気づいて心配そうな顔をする。


「ごめんなさい。神様との約束を守れないかもしれないの」


 珠子は頭を下げて、堰を切ったように話し出した。


 珠子の父が仕事を辞めるから、家のローンが払えなくなり、今の家にいられなくなることを。


「引っ越したら、今よりも遠くなっちゃうの。だから、神様のところに通えなくなるかもしれなくて……」


「そうなのか? それはまずいではないか」


 神様から発せられた低い声に珠子は思わず身を竦める。


 慌てて神様を仰ぎ見ると、顔を深刻そうに歪めている。とても顔色が悪かった。


「ご、ごめんなさい!」


 珠子は神様を怒らせてしまったと思い、目にはみるみる涙が溜まっていく。

 慌てて自分の鞄から貯金箱を取り出した。円柱型の可愛いデザインだ。それを神様に差し出す。


「珠子のお金あげるし、何でも言うことを聞くから許してください!」


 これが珠子の考える最大限の謝罪だった。


「珠子」


 息を呑んだ神様が近づく気配がした。

 俯いていた珠子の視界に神様の膝が映り込む。


 差し出された手が、珠子の手に触れて優しく握ってくる。


「すまない。言い方が悪かったね。大丈夫だよ、珠子。私がまずいと言ったのは、私の都合で、珠子が悪いわけではないよ」

「神様の都合?」


 珠子が顔を上げて不思議そうに尋ねると、神様は少し困ったように微笑んだ。


「私には珠子の助けが必要なんだよ。だから、珠子がいなくなっては困るんだ」

「そうなの?」

「実はそうなんだ。だから、許しを乞うためとはいえ、何でも言うことを聞くなんて、そんな恐ろしいことを決して言ってはいけないよ」


 神様の指が珠子の唇の前に触れる直前まで近づく。沈黙の「しー」のジェスチャーだ。


「……うん」


 家族によく言う台詞だったので、注意を受けるとは思いもしなかった。

 だから、今後は家族以外には言わないように気をつけようと思った。


 神様は優しい顔で珠子の涙をハンカチで丁寧に拭ってくれた。


「チチチ」


 いきなり鳥の鳴き声がそばで聞こえて驚いた。慌てて顔を向けると、掛け軸の小鳥が部屋の床にいた。


 小鳥は珠子と目が合うと、首を傾げる。再び「チチチ」と鳴きながら珠子の手が届きそうな距離まで近づいて来たと思ったら立ち止まり、顔色を窺うようにチラリと見上げてくる。


「この小鳥も珠子を心配しているみたいだよ」

「本当? ありがとう、小鳥さん」

「チチチ」


 まるで返事をくれたみたいなタイミングで小鳥が鳴いた。

 その可愛いらしい様子に随分気持ちが慰められた気がした。


「珠子の父御に何か問題が起きたようだね。すぐに珠子の家に向かおう」

「神様が来てくれるの?」

「ああ、私の手助けで片付く問題なら良いが」


 神様は思案げに頷いた。

 それから神様は神使たちに命じて外出の準備をさせる。

 来たばかりの珠子を連れてお出かけだ。


 珠子の両親は突然現れた神様にとても驚き、怯えるくらい畏まっていた。

 神様はそんな両親に普段どおり挨拶したあと、家の中を注意深く観察し始めた。


「ふむ、珠子の父御は、ずいぶん執念深い人間に目をつけられてしまったみたいだね。ちょうど友人から貰った縁切り用の札がある。それを使おう」


 そう言いながら神様が掲げた手元には、一枚の長方形の紙があった。それを持ったまま、何もない空間を切ったように横に振った直後だ。

 札が突然淡い白い光となって、周囲に霧散する。


『宮本のくせに生意気なんだよ。俺よりもずっと後に入社したくせに』

『愛妻弁当、持ってきて、家を建てて大変だって自慢かよ』

『あっ、宮本に会議の連絡するの、忘れてたわ。ごめん、わざとじゃないって』


 悪意のある男性の声が急に聞こえ出した。それと共に嫌な感じのする黒い煙が突然部屋の中に現れた。

 意志があるように飛び回り、壁や家具にぶつかっていく。

 酷く嫌な気配だ。とても禍々しくて、触れたら恐ろしい目に遭いそうな予感がした。


 母の怯えた悲鳴が響き渡る。


「主任、やめてくれ!」


 父が母を庇うように抱き寄せて怒鳴ったときだ。それまで黒い煙は不規則に動いていたのに父に狙いを定めたように向かっていく。


「ダメ! お父さんをいじめないで!」


 父が襲われると気づき、珠子は咄嗟に父の前に立ち塞がる。


 黒い煙が目の前に迫り、ぶつかると覚悟した瞬間だ。煙はパンッと小気味良い音を立てて弾けたと思ったら、すっかり部屋から消えていた。


「やれやれ、ひどい念だった」


 神様の呟きが、静かになった家の中でよく響いた。

 突然の異変に珠子の両親も唖然としている。


「あの、さっきの黒い物体は消えたんでしょうか? これで終わったんでしょうか?」


 父がおそるおそる尋ねると、神様は迷いなく頷いた。


「そうだ。先ほどの執念深い念は綺麗に消え去り、珠子の父御に悪さをしていた縁を無くしたから、これ以上状況が悪くなることはない。安心するといい」


 神様の言葉に父はひどく安堵していた。


「それにしても、なぜあの黒い物体は、珠子にぶつかりそうになって消えたんですか?」


 母の疑問に答えたのは珠子だ。


「これのおかげかも! 神様にもらったの!」


 珠子は服のポケットから巾着を取り出す。手のひらより小さなサイズで、薄茶色の無地の生地で縫われていた。


「これは珠子を守るお守りだよ。出来るだけ持ち歩いて欲しい。用心のためにね。――これがあれば悪い虫も近づかない」


 神様はそう説明しながら、屋敷を出る前にお守りをくれたのだ。

 嫌いな虫を遠ざけてくれるなら、珠子も願ったりだった。

 さっそく役立ったようだ。


「まぁ、そうだったんですね。何から何まで本当にお世話になり、ありがとうございます」

「職場で同僚から嫌がらせが続いて上司も対処してくれなくて辞めようと思っていたんです。でも、これ以上状況が悪くならないなら、まだ頑張ってみたいと思います。ありがとうございました」


 両親は神様に感激して深々と感謝していた。


「うむ。確かに私が手を貸したのもあるが、父御を守ろうとした珠子の勇気も立派であった」


 神様の言葉に父はハッとして珠子を見る。


「珠子もありがとう」

「うん!」


 二人から褒められて、珠子は誇らしい気持ちになった。


 それから珠子の父は仕事を辞めずに済み、職場内の問題は解決したみたいだった。


 後日、珠子は神様のもとに向かう。


「珠子様が遠くに行かずに済んで助かりました」

「ええ、神様が荒ぶるところでした」


 神様の屋敷を再訪した珠子を二人の神使たちは出迎えながら感想をしみじみ口にする。


 訪れを歓迎されて、嬉しくないわけなかった。

 自然と笑みが浮かぶ。


「ありがとう二人とも」


 いつもの部屋に案内され、大人しく待っていると、神様の接近に気づいた。彼の足音を覚えたからだ。


「珠子、待たせたな」

「ううん、そんなに待ってないよ」


 珠子の向かいの座布団に神様が腰を下ろす。


「ここに来るのは大変ではないか?」

「ううん、ちっとも! 神様に会えるの楽しみだもん」

「そうか」


 そう言って微笑む神様は、とても嬉しそうだ。

 眩しそうに目を細めて見つめられる。

 その滲み出る幸せそうな彼の雰囲気を感じて、なぜか体を激しく動かしたわけでもないのに胸の奥がドキドキと少し騒がしくなった。

 すぐに治まったけど、その不可解な自分の反応に驚いた。


(なんだろう?)


 でも、決して嫌な気分ではなかった。これから楽しそうなことが起きそうな嬉しい気持ちで浮き足立つような気持ちだ。


「失礼します」


 アソウたちがお茶を給仕してくれる。

 神様から近状を尋ねられ、珠子は父のその後を説明する。


 父が辞めると噂を聞いた他の同僚たちがなんと父が受けた被害を上層部に訴えたらしい。そのおかげで、加害者の同僚だけではなく、何も対応しなかった上司が会社で処分を受けたらしい。

 以前と違って父は穏やかに過ごしている。


 神様の言ったとおり、最悪な状態は終わり、改善されたようだった。


「良かった。珠子が遠くに行かずに済んで」

「うん。神様ありがとう」

「珠子には、これからも役に立ってもらう予定だからね」

「うん。珠子がいなくなると神様は困るんでしょう?」

「そうだよ」


 神様が柔らかく微笑む。その眼差しが嬉しくて、珠子もつられるように笑った。


 そのとき、ふと目に入った掛け軸を眺める。


「今日も小鳥さん、いないんだね」

「ああ、餌を探しているんだろう」


 すると、開け放たれた引き戸から、小さな生き物が入り込んできた。


 床に着地して跳ねるように歩くのは、先ほど話していた掛け軸に住む小鳥だ。口に何か咥えながら、珠子に素早く近づいてくる。


 小鳥は珠子に持ってきた物を掲げて、自慢げにわざわざ見せてくる。

 くちばしに挟まれていたのは、肥え太った大きな青虫だ。長くムチムチした体を苦しそうに動かしていた。

 その正体に気づいた珠子の背筋に悪寒が走る。


「ウネウネ長いの、イヤ!」


 慌てて腰を浮かし、そばにいた小鳥から離れ、一目散に部屋の隅へ逃げた。


 ところが、小鳥は珠子の気持ちに気づかず、虫と一緒に無邪気に追いかけてくる。


「神様、助けて!」


 恐ろしさのあまり、珠子は座っていた神様の背後に隠れた。

 神様の背中をぎゅうぎゅう抱きしめるほど、珠子は追い詰められていた。


「た、珠子!?」


 焦ったような神様の声が聞こえたが、それどころではなかった。


 警戒しながら小鳥を窺えば、さすがに神様には近づいてこないようだ。


 首を不思議そうに傾げたあと、素早い動きで掛け軸の中に戻っていった。

 ようやく危機が去り、珠子は一息をつく。


「気持ち悪かった……」


 青虫を思い出して、ぶるりと身震いする。

 ところが、今度は神様に異変が起きた。しがみつくように抱きついていた神様の身体が、いきなりなくなったのだ。


 服だけが支えを無くして萎んでいく。

 床の畳の上にぺしゃんこになって潰れてしまった。


「神様が、ど、どうしよう! アソウ、ウンソウ、助けて!」


 珠子の叫びを聞いて二人の神使が駆けつける。


「珠子様、どうされましたか?」

「神様が消えちゃったの!」

「消えた?」


 怪訝そうに首を傾げるので、珠子は神様の服を指差す。


「ほら、服だけ残していなくなったの!」


 ところが二人は慌てるどころか、戸惑っていた。


「いえ、これはいなくなった訳ではなく」

「姿を変えただけでは……?」


 二人の説明に今度は珠子が困惑する番だ。


「姿を変えた?」


 聞き返すと、二人は当然と言わんばかりに頷いた。


「そうです。神様の本性は蛇ですから」

「蛇?」

「はい、この通り」


 アソウが落ちていた服を持ち上げ、ゆさゆさと上下に振る。すると、白くて太い紐のような長い物がボトッと音を立てて落ちてきた。

 アソウの言う通り、蛇が現れた。


「……神様なの?」


 珠子の声に反応して、白い蛇はビクリと身体を震わせる。ゆっくりと顔を珠子のほうへ動かすが、その様子は怯えるように小刻みに震えていた。

 よく見ると、赤い目に涙が溢れていた。


「そうだが、珠子は私のことが嫌いなのだろう?」


 神様と同じ声が、不思議なことに蛇から聞こえる。

 確かに蛇は神様だと、すぐに理解できた。


「そんなことないよ。どうしてそう思ったの?」

「先ほどウネウネ長いのが嫌だと言ったではないか!」

「あ、あれは虫のことだよ?」


 慌てたせいで咄嗟に口から出た言葉だった。


「でも、私もウネウネ長い……」


 しょんぼりと落ち込んで俯いている姿が可哀想で、珠子は自分の発言を激しく悔やんだ。


「ごめんね。神様のことを言ったわけではないの」

「いいのだ。苦手なものは誰にでもある……」


 どんよりと暗い声なので、まだ神様が傷ついているのは明白だった。

 

(どうすれば誤解だと伝わるかな? そうだ!)


 珠子は神様の身体にそっと触れた。ひんやりした滑らかな鱗が気持ち良い。


「ほら、神様なら怖くないし、触れるよ」

「……無理していないか?」

「してないよ、ほら」

「わぁ!」


 珠子は神様を持ち上げて抱きかかえる。バランスが悪かったのか、神様はすぐに長い胴体を巧みに動かして珠子の腕にしっかり絡みつく。素早く滑らかにスルスルと移動して肩と首に巻きついてきた。

 珠子の顔色を窺うように神様は顔を向けてくる。


「ねっ? 神様のこと、大好きだよ」

「う、うむ。私も珠子のことが、好きだ」


 すりすりと神様が頬擦りしてきたので、すっかり彼の機嫌は良くなったようだ。


「えへへ」


 珠子もつられて嬉しくなる。


「そうだ神様。これから一緒にお外をお散歩しようよ。珠子が連れて行ってあげる!」

「それは嬉しいが、重くはないのか?」

「うん、大丈夫!」


 この神様の屋敷が気になって探検したかっただけではなく、神様に世話になった両親からもお手伝いを頑張るように言われていたので気合いが入っていた。


「それなら珠子の言葉に甘えようかな」


 目を細めて喜ぶ蛇の神様の様子が可愛らしい。

 それからというのも、珠子はますます張り切るようになった。


「神様、片付けなら私がやっておきます!」

「そうかい? ありがとう」


「神様、今日は私がご飯を作ったんですよ」

「それは楽しみだね」


「神様、こちらに用意したお召物をどうぞ」

「何から何まですまないね」

「お役に立てて嬉しいです!」


 その珠子のお世話ぶりは甲斐甲斐しいものだった。


 いつしか自覚した神様への恋心も加わり、相手が喜んでくれるからこそ、珠子は自ら率先して神様のために働くようになっていた。


 ところが、そんな至れり尽くせりな状況が十年も続けば、神様に変化が起きていた。



 §



 今日も珠子は神様の元を訪ねる。格好は高校の制服姿となり、学校帰りに神社に直接伺うようになっていた。


 神様の部屋を開けるなり、珠子の叱る声が屋敷に響き渡る。


「もう、ちゃんと片付けないとダメですよ」

「うん、ごめんごめん」


 神様がへにゃりと締まりのない顔で散らかった部屋で寛いでいる。

 数日前に珠子が訪れたときに綺麗に片付いていた部屋がすっかり様変わりしていた。

 神様が食べたと思われるみかんの皮まで炬燵こたつの上に放置されたままである。

 呆れ果てた珠子は腰に手を当てて目を釣り上げる。


「このままじゃ、私がいなかったら、生活できないですよ」

「うん、珠子がいないと生きていけないんだ」


 即答な上にすがるような目で神様に見つめられる。捨てられた子犬みたいな顔をして。


 そんな様子を可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱みなのかもしれない。


「そ、そんな顔をしないでください。ずっとお仕えしますから!」


 つい絆されてしまい、いつものように世話を焼いてしまう。

 この想いが決して叶わないと分かっていても。


「珠子様、お疲れ様です」


 神様の部屋を一通り片付けて元の綺麗な状態に戻したあと、台所にいた神使たちが労ってくれる。


 二人がお茶を差し出してくれたので厚意を素直にいただく。


「神様って本当に面倒くさがり屋ですよね」


 最近の神様の自堕落な様子が、あまりにも心配になるレベルだ。つい思わず神使の二人に愚痴をこぼしていた。


 女性に言い寄られるたびに神様は面倒くさそうな顔をするので、元々そういう性格なのだと思っていた。


 ところが、神使たちは顔を見合わせて困惑していた。


「……珠子様がいらっしゃる前はご自分で何でもされていたんですが」

「えっ、そうだったんですか……!?」


 珠子は自身が幼かったこともあり、出会った頃の神様の様子をすっかり忘れていた。


(もしかして、私が何でもしてしまうから、面倒くさがり屋が悪化したのかしら!?)


 ショックを受ける珠子が本当の理由を知るのは、あと少し先である。


 ―了―


お読みくださり、ありがとうございました!

このあとに本編が続きます。

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「面倒くさがり屋の神様にご奉仕中!」
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