住めば、都かもしれない 7
売店に行くためには、学食のラウンジを通らなければならない。
大勢の人が学年もめちゃくちゃに入り乱れる空間に入るのは、疲れる。
運動部の男子生徒達が、同じユニフォーム同士でかたまって、大きな笑い声を立てている様子を見るのは、あまり好きではない。
サッカー仲間と一緒にいる時の光くんもあまり好きではなかった。
知らない人と笑い合う光くんは、遠くにいるような感じがした。
もちろん、どんなにたくさんの人がラウンジにいたって、雲野桃を気にする人なんかいない。
空気のような私は、ラーメンの食券を持った人達が並ぶ長蛇の列を横目にすいすいと人波を抜けていくことができる・・・はずだった。
「桃ちゃん!」
ソプラノの声が、私を呼びとめた。
一瞬私の周囲が静かになって、痛いほどの視線が突き刺さった。
私と私の名前を呼んだ人物に。
坂野さんは、そんな視線を意に介さず、私に近づいてきた。
腰まで伸びた黒髪が、さらさらと揺れた。
私の目の前まで来た坂野さんは、つま先立ちになって、細くて真っ白な手を私の頬に伸ばした。
既視感を覚えた私は、一歩引いた。
泣いているわけでもないのにしっとりと濡れた黒い瞳が、私を映していた。
「私のウサギちゃん。そんなに急いでどこへ行くの?」
馬鹿馬鹿しい。
雰囲気にのまれてはいけない。
こんな綺麗で危険な人とは、距離を取っておかないと絶対に痛い目をみる。
「売店ですよ。」
「何を買いにいくの?」
「チョコチップメロンパンです。」
「そう。チョコチップメロンパン。」
ため息と共に洩れる『チョコチップメロンパン』は、私の発した単語と違う艶っぽい響きを持っていた。
「どうして、チョコチップメロンパンなのかしら。」
「好物だからです。」
坂野さんは、口元に薄ら微笑を浮かべた。
「私も好物なのよ。」
「はあ。」
坂野さんは、くるりと私に背を向けると、大きな声でもう一度言った。
「チョコチップメロンパンは、私の好物よ。」
急に数人の生徒が、売店へ入っていったと思うと、すぐに坂野さんのそばに走ってきた。
「売り切れでした。」
一番先にやって来た男子生徒が、息を切らしながら、言った。
でも、坂野さんは、その人を一瞥しただけで、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「チョコチップメロンパンは、私の好物よ。」
すると、また数人の生徒が走り寄ってきた。
手には、チョコチップメロンパンを持っている。
ショートカットの女子生徒は、顔を赤らめながら、チョコチップメロンパンを両手で坂野さんに差し出した。
「まだ、封を開けていません。よかったら、私のを食べてください。」
坂野さんは、差し出されたチョコチップメロンパンを極上の笑顔で受け取った。
「ありがとう。お礼に雪村さんの好きなものをあげるわ。なんでも言って。」
「あ、じゃあ。明日のお昼ご一緒してもいいですか。」
「もちろん。雪村さんの好きなメニューをごちそうするわ。デザートもつけてね。」
雪村さんというらしい女子生徒は、黄色い声を上げると、後ろに立っていた友人に抱きついた。
振り向いた坂野さんは、絶句している私の手にチョコチップメロンパンを乗せた。
「あの、こんなことして大丈夫なんですか。」
坂野さんは、にっこり笑う。
「私は、桃ちゃんが好き。桃ちゃんは、チョコチップメロンパンが好き。チョコチップメロンパンを持っていた雪村さんは、私が好き。つまり、桃ちゃんは、チョコチップメロンパンを食べていいのよ。」
お礼を言って受け取るのは、簡単だった。
だけど、なんだか、無性に腹立たしかった。
こんな風に扱われるのは、きらい。
「使い回しの好きは、いらないです。雪村さんのチョコチップメロンパンは、坂野さんが食べるべきです。」
坂野さんは、驚いたように私を見た。
周りの人も。
やってしまったみたい。
黙っていれば、いいのに。
あーあ。