第参話 儕輩(三)
5
「蓮ッ――」
叫んだ慧が手を伸ばす。彼のその様子と、そして何かを知らせる感覚に、蓮は背後を振り返ろうとして――
「あっ……」
そのまま喉元を掻き切られた。
視界の端で、宙で煌めく血液と、尾のようにそれを引く手鎌が映った。
次いで、まるで溶鉄を流し込んだかのような激痛が首に在った。
「ぐぼっ……」
溢れ出した鮮血が傷の外のほか、体内にも流れていく。食道を逆流して鼻や口から吐き出され、気道に侵入して肺を溺れさせる。
強烈な痛み。苦悶。
迫りくる死の気配に、時間が引き延ばされ、世界が膜で包まれる。
前後不覚となった身体が崩れ落ちるように倒れこみ――地に横たわるより前に、背後の存在によって蹴り飛ばされた。
背骨の折れる音が体内に響き渡ると共に、蓮はくの字に曲がって飛んで行く。
呆けたように固まる友人のそばを風切り音を上げて過ぎ、彼の背後のベンチをひっかけて壊し、幾本もの木々を圧し折って、林の奥へと消えてゆく。
「……蓮ッ!!」
ハッと我に返った慧は悲鳴を上げて振り返る。十数メートルほど遠く、夕陽も満足に差し込まない場所で、木々の残骸のなかに転がる影を確認する。
駆け寄ろうと踏み出した足は、しかし一歩だけで踏みとどまった。
冷たい汗が、背筋に流れる。
知らず喉を鳴らして、すぐにでも友人のもとへ走り出したい心を抑えつける。
胸の奥底の、冷静な自分が静かに諭した。
――喉を大きく切られていた。致命傷だ、助からない――。
そして、今現在に、最も重要なことは別にあるのだ。
――危険はまだ、そこに居る。
慧の脳裏で、あらゆる感情と思考が高速で巡った。
それらは渋滞を起こし、躊躇いを起こす――だがその硬直は、現実世界においては一瞬間の出来事で。
「……ッ」
奥歯を噛み締めると、険しい表情の慧はゆっくりと林から背後の方へと体を戻した。
重々しく激しい感情が渦巻く瞳が、そこに佇む存在を睨みつける。
それは、ひとりの女だった。
つい今しがたに友の首を切り裂いた手鎌、血の滴るそれを握る右腕はだらりと下げられ、先ほどの場所から一歩も動いていない。
項垂れるかのように俯くその表情は伺えない。
長い黒髪を両腕と共に脱力して垂らし、身長は目算で百八十ほどはあり、この夏場に厚い皮のコートを着ている。
そしてなによりの特徴として、――体中から、血生臭い、すえた臭いが溢れていた。
それは物質的な臭気ではなく、臭いを錯覚させるほどに濃密な妖気である。
視れば視るほどに吐き気を催す、悍ましい気配。
……それは、慧がこれまでの半生において経験したことのないほどに強大な妖力であった。
(……ヤバい)
状況の理解が進めば進むほどに、動悸が早鐘のように激しくなっていく。
慧のこめかみに汗が浮かぶ。
目の前の存在が垂れ流す、その悍ましく強大な妖気は、すでに辺りの空間に毒水のように浸み込んでいる。
おそらくはこの広大な公園一帯、その程度は軽く包み込んでいるだろう……と慧は考える。
彼の脳裏で、かつて叩き込まれた知識が迸る。
――異界とは、つまりは空間の支配だ。
質量に引力が発生するように、霊力や妖力にも引力が発生する。それは周囲の空間に直接的に働きかけ、強い引力は空間を引っ張り込み、結果として局所的に世界の位相をずらすことができる。
簡易に言えば、そうして発生する隔離空間が異界と呼ばれるものだ。
異界として隔離された空間は、その内部の全てが基点となった存在に支配される。
時間も空間も、物理法則さえも――。
あらゆる全てが、支配者にとって都合の良いものへと書き換えられるという。
ただし、異界を形成することができるほどの存在は、そう多くはない。
まず人類で形成できる者など存在しないと言われるし、そしてそこまで高い能力を持つ妖は大抵が名を持つ古き者たちで、現代においては己の拠点から出ることは滅多に無い。
そしてその他の小妖怪は、それほどに成長するその前に、日本呪術協会に所属する者たちによって退治される。
だから、本来ならば在り得ないのだ。
当然のように異界を作り出す怪異が、こんな街中で、こうして現れるだなんて、そんなこと――。
「ッ――」
硬直したまま思考がどつぼに嵌まっていた慧は、目の前の存在が動きを見せたことで気を取り戻す。
項垂れるように脱力していた女性の、その肩がぴくり、ぴくりと微動して……
「――く、くくくっ……くははははははっっ」
瞬間、哄笑した。
女は肩を震わせて、何が可笑しいのか狂ったように笑い出す。不気味な声が辺りへと響く。
「弱い……弱い、弱いッ!! あの魔王が、弱いィィッ!! あははははははッッ!!」
何事かと目を見開く慧の前で、そして女はその顔をゆっくりと上げた。
ぼさぼさの黒髪の下には、青白く生気のない肌があり、充血した瞳の下には深い隈。大きな衛生マスクをしている。
喜悦に歪んだ赤い瞳が、慧の瞳とかち合った。
「嗚呼――、でも、その前に……」
まるでそこで初めて彼の存在を認知したかのように、女の視線は慧に固定されて動かない。
そして慧もまた、蛇に睨まれた蛙のように動けない。
金縛りだ。
女が視線を向けた――意識を向けた、ただそれだけのことで指向された妖力の圧、それが弱者である少年の神経を凍らせている。
女が、ゆっくりと耳元へ手を遣る。
そしてマスクの紐を耳から外し――そこで、慧もこの怪異の名へとたどり着く。
口の裂けた女は、弓なりに歪んだ瞳で彼を見据えて、
「――わたし、綺麗?」
途端に爆発するのは、純粋なほどに黒々とした殺意。
生存本能が、慧の体を動かした。
はじかれるようにして腕を前に構え――両手で結ぶのは独古印。
古くは大陸の道教、その六甲秘呪から始まり、修験を通して仏道の力となった、魔を拒絶する秘術。
博文堂庄左衛門によって明治一四年に刊行された秘法書『九字護身法』では、独古印は次のように説明される。
“左右の手を内へ組みて、頭指を立てて合わす”。
果たしてそのように印を組んだ慧は、悲鳴の代わりに叫んでいた。
「――“臨”ッ!!」
次の瞬間、目前に鎌。
法印と呪文によって発動した霊力の壁、そこに錆びついた鎌の刃が鋭く突き刺さっていた。
薄く波紋する障壁の向こうには、一瞬間で距離を詰めた怪異の、不気味な笑顔。
女は、怪異は、口裂け女は――、その惨たらしく裂けられた口を大きく広げ、
「くひっ、くひひひっ、くははははははははははははっっ!!」
さも、さも愉快そうに声を上げる。
生きの良い獲物を前にした、捕食者の歓声だった。
早くも綻び始める障壁から地を蹴って後ろへ飛びずさり、慧は無心で更なる印を結ぶ。
大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印――。
更に口でも同時に呪を叫ぶ。
兵、闘、者、皆――。
霊力で編まれた障壁が次々に道をふさいでいくが、しかしそれらを一振り、二振り、三振りの鎌で破り、女は狂い笑いながら歩みを止めない。
(……これは、もう駄目かもしれない……)
二周目の九字を切りながら、慧は絶体絶命の気配を感じていた。
6
遠く高みにある木々の枝葉の間から、僅かな夕陽が薄く降っている。
折れ重なった枝の上に瀕死の状態で転がっている蓮は、激しい苦痛の中で、しかし何故か懐かしささえ覚えていた。
じりじりと迫りくる死の感覚。
つい先日――そう、ちょうど一週間前にも通った道だった。
(は、はは……つまり、どう足掻いても僕の寿命はここまでだった……ってことなのかもしれないな……)
夕空を仰ぎ、血だらけの蓮は力なく笑みの形に口をゆがませる。
そして、思う。
一週間前は奇妙な鬼に助けられたが、しかし今回はここまでなのだ。
剣王鬼と名乗った鬼は、おそらくもう消滅している。
地域最大の一宮で受けた御祓い、それを受けて無事な存在などそうは居ない。
だからもう、これで、今度こそ自分は――死ぬ。
(思えば……剣王鬼と語り合うことはなかった……勿体なかったかも、しれないな……)
剣王鬼に取り憑かれて以降、日の入りと共に蓮の意識は深い眠りの中へと落ちるようになっていた。
だから、最初のあの夕陽の丘以来のこの一週間、蓮は剣王鬼と語り合うことが一度も無かった。
日が出ている間は逆に剣王鬼の方が眠りについていた様子なので、つまり互いの活動時間は最初の夕暮れ時を除いて完全に重なっていなかったのだ。
日の入りと共に消え去る意識。そして夜間、自分の身体が第三者に自由に使われる。更に余命は長くても一年間。
突然に放り込まれたそんな日々だったので、剣王鬼を敵視し、なんとか自由を取り戻そうと躍起になったことは仕様がないことであった。
しかし、こうして死の淵に立って改めて俯瞰してみると――これは走馬灯なのかもしれないが――、実は剣王鬼はまだ歩み寄れる存在だったのかもしれないと、ふと気づく。
なぜなら彼は、曲がりなりにも蓮の命を救ってくれた。
延命が一年間のみという点、そして体を乗っ取るという宣言、それらが先に立って理解を邪魔していたが、それも彼がそもそも人間ではないという視座に立てば、まだ誠実なほうなのかもしれないと思い至る。
少なくとも、唐突に殺しにかかってくる、あの赤沼の女怪や、そして先ほどの存在よりは、ずっと人間に優しかった。
一度そう思ってしまうと、どうにもこうにも、オカルトマニアとしての気性の部分が「仲良くできたかもしれない」……などとありもしない妄想を始める。
(ま、後の祭りだけどね……)
小さく自嘲の笑みを浮かべたところで、いよいよ意識が遠くなってきた。
気づけば、見上げていた空も夕暮れから夜のものへと変じている。
この時期に日の入りということは、つまりもう午後も八時に近い。
それが自分の死亡時刻かな――と思ったところで、おや、と気づく。
いくらなんでも、時間が経つのが早すぎる。
先ほどまではまだ六時過ぎだった。
そもそもの話として、喉を切断された状態で手当ても無く二時間近くも生きていられるわけがない。
それに――
――よく見れば、星の並びが今の時期の夜空ではない。
先日まで見えていた天の川がずっと淡く薄くなり、代わりに中天で燦然と輝くのは一つの青い星――。
――天狼星――。
蓮がそれに気づいたと同時、彼の魂が、すとん、と退かされた。
《――相も変わらず、惰弱に過ぎる》
脳裏に響くのは、すっかりと聞き覚えのある声で。
ふと見てみれば、暗い気配が自分の身体を中心にして渦を巻いている。
今までは恐怖しか覚えていなかったその気配を見て、蓮は何故か今しがたに見たばかりの、天上に広がる夜空を想起した。
知らぬ間に身体は起き上がり、ゆっくりと喉元を撫でている。
傷口はすべて痕なく塞がり、破れていた服は黒い着物装束に変じている。
(大祓は……効かなかったってことなのか……?)
呟く蓮に、身体を奪い取った剣王鬼は鼻で笑った。
「戯けたことをぬかしおる――あんな社より、己の方がずっと古く生きている」
三浜大社はたしか、千三百年程度は歴史を遡れる。ならば、それより古いという剣王鬼とは、一体……。
息をのむ蓮をよそに、剣王鬼は体の調子を確かめるように動かしながら、
「――とはいえ、少しばかり眠りが深くなっていたようではあるな……」
感慨深げにそうこぼす。
その様子を体の内側から眺め――そこで、命の危機から脱した蓮はようやく思い至る。
(慧っ! そうだ、慧が危ないっ!!)
つい先ほどに自分を殺しにかかってきた存在。
一体それが何なのか――そこまでは見ることすらできなかった蓮だったが、それでもその気配……悍ましく漂わせる気配は覚えていた。
あんな気配の存在は……人間に何とかできるものとは思えない。
友人の身が、命が――まさしく危機に瀕していた。
(慧っ、慧をッ――)
そこまで叫んだところで、蓮は我に返った。
身体の調子を確かめていた剣王鬼が、その動きを止め――いやに静かに慟哭を聞いている。
(ぁ……)
蓮の声はたじろぎ、尻すぼみになって消え去った。
彼は今、明らかに「助けてくれ」と叫ぼうとしていた。しかし、相手は連日に除霊を試し、本日に至っては一宮で御祓いさえした存在である。
今際の際の走馬灯の中で、ふと敵愾心が薄くなった蓮の側はさておいて、剣王鬼の側からすればその言葉に従う道理はひとつも存在しなかった。
数瞬間の沈黙がその場に降りて、……だがそれは、剣王鬼が小さく鼻を鳴らしたことで破られた。
「――まあ、報復はせねばなるまいて」
(……え)
その言葉の意味を蓮が推し量ろうとするよりも、剣王鬼が大地を踏みしめるほうが早かった。
次の瞬間には、弾丸のように飛び出していた。
(は、はああああああ!?)
唐突な急加速に動転する蓮を置いて、剣王鬼の操る身体は地を踏み砕き、一足で林の奥から元の広場のほうへと飛び出した。
そして――。
「くははははは、――ッ!?」
狂気の笑みで、今まさに友人たる少年の首を刎ねようとしていた女の、その喉元へと、いつのまにか抜刀していた直剣を滑らせていた。
○剣王鬼
年齢不詳。神代から生きる鬼。別称に長人、悪法師、第七師父、等。
魂だけの状態で神剣に封印されていたが、蓮の身体を乗っ取る形で復活する。とはいえ、現在はひとつの肉体(魄)に両者の魂が混在している半端な状態である。いずれ完全復活するために、少しずつ彼の存在を侵蝕している。
○天狼星
冬の夜空でひときわに青白く燃える一等星。シリウス。中国では古くから不吉を司る星とされた。
(四年七月十一日 あとがきにTIPS追加)
(六年九月二十七日 一部改稿)