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物怪伝 鬼の章  作者: 犬尾南北
大倭篇

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第拾陸話 蓮華(一)




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 承平じょうへい七年、夏のことである。

 平安京の東端、九条の貧民窟を一人の少年が歩いていた。

 屋根の崩れ落ちかけた粗末な小屋の合間を、ためらうような足取りで進んでいく。右手には書きなぐりの地図を持ち、左手はずっと鼻と口に端切れを当てたまま離れない。

 ひどい臭気であった。

 人と動物の汗と垢、糞尿に……あるいは死骸、腐った食物。夏の陽射しが、それらの穢れを余すことなく大気へと飛散させていた。

 周囲の小屋からは、見慣れぬ闖入者を窺い見やる数多の視線があった。

 さらにニ十歩ほど背後には、先ほどからずっと彼を追うように歩く複数の気配もある。

 少年は痩せてはいたが、上背もあり、周囲の貧民と比べればずっと身綺麗なのだった。それもそのはずで、彼は下級とはいえ、五位――貴族の子であった。

 そんな立場の少年が、ひとりでこのような場所を歩いていれば、たちまちに身ぐるみを剥がされそうなものであるが、それは彼の腰元にさがる刀が一定の抑止力となっている。

 刀をもち、上背もある。それだけで、襲う方にもある程度は躊躇が生まれるようなのだった。

 とはいえ、それも時間の問題である。

 少年を追いかける影がこのまま増え続ければ、やがては多勢に無勢の窮地となるだろう。


 しかし――その未来が訪れる時よりも、少年がに辿り着くほうが早かった。


 鴨川の河原にまで広がる貧民窟、そのとある一画へと少年が足を踏み入れた途端、背後の気配はたちまちに散会したのだった。

 振り返れば、恐れるように立ち去る複数の背中がある。

 彼らは一体なにを恐れているのか?――その答えは、きっとすぐ先にあった。

 気を取り直して歩くこと十歩。

 貧民窟に立ち入ってからここまで、目に入る小屋という小屋はすべて押し合いへし合うように乱立していたのにも関わらず、その小屋の周りにはなにもなかった。

 さらに述べれば、それは小屋……と呼んでいいのかすらわからぬ代物であった。

 土を掘り、その上に拾い集めた端材、板、菰といったごみが組み合わさって、かろうじて屋根がある――ただそれだけの穴倉であった。

 ほかの貧民の住居は、屋根もあって壁もあり、玄関もある――目の前の穴倉と比べると、それらのほうがまだ文明的であった。

 そして、そんな穴倉の奥底に――闇のなか、ぽっかりと浮かび上がる瞳があった。

 紅い。

 紅く妖しく輝くその両の瞳は、まるで獣のような瞳孔をしていた。

 少年は知らず息をのむ。

 空は青く、真夏の陽射しは生命に溢れている――にも関わらず、穴倉のなかは夜の闇に沈んで、底が見えない。

 その奥から、姿の見えぬ住人の、妖しげな声が響くのである。


「おや――童子丸どうじまるではないか」


 それは少年の幼名であった。

 元服して数年、すでに呼ばれる機会のない名であった。

 少年は、見ず知らずの異人に名を知られていることに動揺したが、かろうじて口を開いた。


「わ、私は」


 いまだ震える口を、そこでなんとか調伏する。


「私は、安倍あべの晴明はるあきらだ……貴殿は、私を知っているのか」


 そう問えば、闇の奥から含み笑いが漏れた。


「嗚呼、知っている。――此処に訪れたその理由まで、すべてを知っているとも」


 晴明が思わず後ずされば、闇のなかで紅い瞳が笑みに歪む。


「君は、やがて術法に長じるだろう。いずれ陰陽頭おんみょうのかみとなる賀茂かもの保憲やすのりはだの具瞻ともみ、ふたりの弟子となり、そしてそれらを超越するのだ……」


 その言葉に、少年は息をのんだ。

 つい先ほどと同じ動作、しかし至る心意は真逆であった。


「――ならば」


 そう言って一歩を踏み出す彼の瞳は、野心の色に輝いている。


「ならば、私に陰陽道を教えてくれ」


 都の場末、九条の河原に居ついた怪しげな法師陰陽師は、ひとの宿運を見通し、成功のための道を示すのだという――その噂を信じた少年は、今、自分の運命を切り開くためにこの場に居た。

 果たして声は、


「――いだろう」


 次いで暗闇の向こうで腰を上げる気配がある。


「あ」


 と思って晴明が数歩下がれば、先ほどまで彼が立っていた入口に、夜のなかから一人の男が現れた。

 ぬっ……と闇を脱ぎ去ったその男は、晴明と負けず劣らずの上背があった。

 草臥れた黒い僧服の腰元には、ぼろ衣で包まれた剣が提げられている。

 ぼさぼさの黒髪の下にはあの紅い瞳があり、なにやら面白そうに少年を眺めまわしている。

 ついに白日の下に晒されたその姿に、しかし晴明は驚きの声を上げた。

 声はまるで老人のように聞こえたのに、その姿は驚くほどに若かったのだ。

 見る限りでは、晴明とほぼ同じ年頃に見えた。

 そのことを指摘すれば、男はおかしそうに「見た目以上に生きている」などと嘯く。


 そうして男は、悪法師あくほうしと名乗った。




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 西暦二〇一二年八月一〇日、金曜日。

 畳の上で着信に震える携帯電話を、神谷葵は布団の中からボウと眺めていた。

 電話の振動が治まってからしばらくして、ようやくのろのろと腕を伸ばし、ストラップ部分を掴んで布団の中へと引きずり込む。

 折り畳みの画面を開けば、「着信あり」の表示……送信元は「不死川慧」とある。

 未読のメールも新たに何件か溜まっていた。それらの送信元も、「不死川慧」、「不死川慧」、「千田文太」、「不死川慧」、「渡辺蓮」……。

 そこまで眺めて、葵はポイと携帯電話を放る。

 そして再び掛け布団にくるまった。

 あの日――友人たちと皆で和歌山県まで出かけた日から、すでに一週間が経っていた。

 葵が瞳を閉じれば、瞼の裏の闇のなか、あの夜に鬼が嘯く声がたちまちに想起となって響き渡る。


『――汝らの守護と引き換えに、此奴は己に一年でからだを譲り渡す。そのような契約を結んでいる』


 続いて、大事なひとの、信じたくない言葉も――。


『確かに一年は短いかもだけれど、まあ、それまで楽しければ、()()()()()()()()――』


 いいわけがない。

 いいわけが、ない……。


「いいわけ、ないでしょ……ばか」


 枕に伏せたまま、少女は力なく呟く。

 そこに普段の快活さはまったく影を潜めている。その様子は、ただただ打ちひしがれた少女のものだった。

 あの日、衝撃の告白があって、その後――その後はどうしたのだったっけ。と少女はぼんやり考える。

 よく覚えていなかった。

 なにか怒鳴ったような気も、あるいは泣き叫んだような気もするし、だれかに平手打ちをしたような気もする。

 ただ確かなことは、ふと気が付いたときには彼女はひとりだけで帰りの電車に乗っていた、ということだけである。

 おそらく逃げ出したのだ。

 あれ以上、何も聞きたくなくて、認めたくなくて……ひとり、背を向けて逃げ出したのだ。


 ――だって、そうじゃないか。


 あんなにも、あっさりと、軽々しく自分の余命を認めている――命を差し出している様を見せられて、ばからしいじゃないか。


 まるで、自分たちが――自分が、()()()()()()()()()()()()()()()()ような、そんな気がするじゃないか。


 だから少女は、あははと笑う少年が信じられなくて、信じたくなくて、……逃げ出したのだ。

 それから一週間、無数の電話やメール、果ては家への訪問もあったが、それらすべてを無視して、少女はひたすらに友人たちを避け続けていた。


「……葵お姉ちゃん。今日はお昼、食べれる?」


 誰かが部屋の前で立ち止まったな、と気配を覚えていれば、そんな言葉が襖の向こうから掛けられた。

 今年で小学六年生になった神谷いつきの声である。

 そんな、普段は猫かわいがりしている妹に対しても、葵の返事はそっけなかった。


「いや、いい」

「……そう。あの、ご飯はラップして置いとくからね。食べたくなったら、チンして食べれるからね」


 心配そうな妹の声に、またも「そう」とだけ返す。

 軽い足音が立ち去ってからしばらくして、葵はゆっくりと起き上がった。


「……家はダメね。心配かけてる」


 小さく零して、のっそりと着替えだした。

 ここ数日、明らかに元気をなくしている次女の様子に、神谷家全体が少し妙な空気になっているのは、当人も把握していたのである。

 部屋にこもっていれは、余計に心配をかけてしまうだろう――そう考えた彼女は、家族の集う居間にバレないよう音を殺すと、そっと家から抜け出すのだった。

 そうして当てもなく歩いているうちに、気が付けば見覚えのある場所に辿り着いていた。


 三浜みはま市立赤沼西あかぬまにし中学校。


 そこは葵の母校であり、そして彼女と渡辺蓮が、初めて出会った場所だった。




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