第拾伍話 隠国(九)
19
「くくっ、ははっ……よく来たなあ……よく来た! よくぞ来た!」
一人だけ和装の口裂け女が、こらえきれぬ笑みと共に声を張り上げた。
「ついにこの日がやってきた! おれがお前を殺す日だ!」
爛々と輝く瞳は殺意でぎらつき、凄惨な笑みは獣のように鋭く深い。その矛先はまず間違いなく蓮――のなかに潜む剣王鬼なのだが、真正面からこの敵視を受けた友人たちは、わけがわからないままに背筋を震わせた。
女の隣で、スーツの男が平坦に問う。
「勝てるのか? まあ、いいさ。時間は稼げよ……俺は仕上げに入る」
異形に囲まれ、すっかりと足をすくませている蓮たちを流し見たのち、男は神殿へ向かって歩みを向けた。
その背に口裂け女が鼻を鳴らして声を掛ける。
「ふん。貴様こそしくじるなよ――御館様の御為に」
「誰に言っているんだ――御館様の御為に」
なにやら符丁染みたやりとりを終える。そして振り返ったその顔を見たとき、思わず蓮は一歩退いていた。
女の血走った瞳が、真っ直ぐと彼の瞳とかち合った。
「くひっ……それに――贄は多ければ多いほどよいのだろう?」
女の眼球が、ぎょろりと睥睨した。
それが合図だった。
「キィィィッヤァァオオオオオォゥゥッッ――」
獣が如く奇怪な雄叫びが四方で上がり、包囲網を形成していた怪物たちが一斉に地を蹴った。
「――あかり!」
すぐさまに柚葉の声が鋭く響き、
「応――」
妖狐の呼気と共に、爆炎。
激しく燃え盛る炎が大蛇となり、少年たちを守るように周囲を薙ぎ払った。怪物たちの異相が炎の咢に呑まれ、壁と化した熱の向こうで黒い影となる。
肉の焼ける臭気が立ち上り、恐ろし気な悲鳴が響き渡る。――その炎の中から、しかし無事に飛び出てくる異形もあった。
これに迎え撃つのは葵である。
「祓へ給へ、清め給へ!」
祝詞と共に白銀に輝く拳――それを怪物に叩き込む。
猿に似た顔の怪物は、毛皮で受けた攻撃ににやりと笑うが、途端、「グオゥ――」と体勢を崩す。
見れば足元に緑の蔓が巻き付いている。咄嗟の文太による援護である。
そこに、改めて葵の追撃が入った。
腰の入った拳と、そして――蹴り。
猿顔の怪物は、再び炎の壁の向こうへと弾き飛ばされた。
葵もその場から飛び退いて、焦りを滲ませて周りへ叫んだ。
「ッ!――効いてる感じがしない!」
それを聞いた柚葉が、汗を垂らしながら手を掲げる。腕環が銀色に輝いて、周囲を守る炎の勢いがより強くなる。
けれど、
「くそ! また突破してきた!」
慧が叫ぶ。彼の手元では伸縮式の錫杖が伸びている。それをぐるりと振り回し、飛び込んできた小鬼を打ち据えた。
葵も再び走って拳を振るう。
文太も方々へ種子を投げては、蔓や樹木を用いた足止めや援護を行う。
――ほんの数分のうちに、境内はすっかり修羅場と化していた。
いつの間にか蓮は、守られるように友人たちの中心に居た。
加勢をしようにも、蓮では素手で殴る蹴るしか出来はしない。人外に踏み入れつつある今の膂力なら多少は暴れられるかもしれないが、所詮は喧嘩の素人である――多勢に無勢である、という状況に変わりはあるまい。
で、あるならば。
蓮は、ふうと息を吐いた。
(結局、上手い説明が思いつかないままだったな……)
所詮、彼が黙っていたのは周りへの説明や説得などを面倒臭がっていたという、ただそれだけの理由である。
友人たちが傷つく様子を黙って眺めてまで、そこまでして隠そうという、そんなつもりは端からなかった。
だから、至極あっさりと、簡単に叫ぶのだった。
「――頼んだ!」
視界の左右の隅では、炎の向こうから飛び込んできた赤いコートの口裂け女、そのそれぞれに対応する友人たちがいた。
そのうちの一人、事情を知る慧が「まさか」という顔で振り向くのが映る。彼は「おい! 蓮――」と声を上げかけたが、口裂け女が振るう鎌の猛攻に押されて中断する。
そして、今まさに、蓮の目の前でも炎の壁を突き破り、鎌や鉈の刃を煌めかせるのは、凄まじい形相で嘲笑う着物姿の口裂け女――。
(契約通りに、僕たちを守ってくれ!)
命を刈り取ろうと迫りくる白刃、それを前に蓮は瞳を閉じて、――
「ふん――勿論、約定は守るとも」
瞬間のうち、一閃。振り抜かれた刀が、それらを破壊した。
「くはっ、くははははっ!!」
哄笑を深めた怪異が、新たに取り出した包丁や山刀を振り上げるも、それらも瞬く間に腕ごと斬り落とす。
「くひっ、いひっ、くはははははッ!!」
続いて追撃の刀が女の首へと伸びるも、それをすんでのところで躱すと、彼女は狂った笑い声をあげながら後退する。
それを追わずに、剣王鬼は地を蹴った。
くるりと宙を舞って、一、二、三。
たったの三回だけ刀を振って、そのまま後方にいた柚葉のそばへと着地する。
途端、慧と葵、そして文太が相対していた二人の口裂け女と数体の異形、それらが血飛沫を上げて崩れ落ちる。
「……え?」
呆気にとられた様子で文太が声を漏らした。
葵も呆然とした顔で動きを止めており、慧もまたあっさりと「日常」を捨て去った友を信じられないという表情で見つめていた。
彼らの視線の先に居るのは、勿論蓮――の体に憑依した剣王鬼である。
いつの間にやら服装が黒い着物へと変じており、手には先まで持っていなかったはずの直刀を握っている。顔つきはといえば、トレードマークの黒縁眼鏡が消え、蓮とは似ても似つかない冷たい眼差しである。
その紅い爬虫類のような瞳が、隣の緋崎二人へと向いた。
「おい、そろそろ限界だろう。一旦、術を解け」
大粒の汗を浮かべて息も絶え絶えながら柚葉は眉を顰めたが、しかし言葉にするほどの気力はなかったのか、そのまま翳していた腕を下ろす。
腕環の光がしぼんでいき、同時に炎の結界も描き消える。
その向こうでは、これで数が減ったとは思えぬ量の異形が陣を組み、変わらず彼らを囲んでいた。
その陣頭に立つのは、やはり先ほど後退した着物姿の口裂け女である。
斬られた両の腕から、ぼどぼどと血が垂れている。その血液は地面に小さくない溜まりをつくり、まったく異様なことに、まるで沸騰しているかのように気泡が浮かんでは弾けている。
「くひひひひっ、まただ! また妹たちが殺されちまった! いひっ」
「……まったく。補充も楽じゃないのだが。自分が殺す云々はもういいのかい」
奥の神殿から、ゆったりとした歩みで男が進み出てくる。
彼は呆れたように口裂け女を見やったのち、ちらりとその視線を剣王鬼へと移した。
研究動物を観察する様な、妙にねっとりとした眼差しだった。
「ふうん……あれが、今の剣王鬼か」
その視線に、剣王鬼は覚えがあったらしい。
珍しく嫌悪の表情を浮かべると、嘲るように鼻を鳴らした。
「お前……まさか、あの転生師か」
「おや。おわかりになりますか……その節は大変お世話になりました」
男は慇懃無礼に腰を折ってみせる。
剣王鬼は目を細めると、ざり、と一歩を踏み出した。
歩き出す彼に、しかし周囲の異形たちは動けない。一歩を踏み締めるごとに、その陰から立ち昇る濃密な妖気――夜の匂い。その鬼気に充てられてしまい、剣王鬼がちろと睥睨するだけで金縛りに遭っているのである。
だがその妖術も、神殿前に佇む二人には効果がなかった。
「くひひっ」
口裂け女の狂気に塗れた笑みと共に、その足元の血溜まりから刃物が次々と生えるように溢れ――射出される。
血にまみれた斧、刀、包丁、鎌……高速で飛来するそれらを、しかし剣王鬼は危なげなく全て斬り落とす。
「こんなもので……」と顔を上げたところで、視界に男の様子が映りこんだ。
「我々程度の有象無象や、小細工では魔王に太刀打ちできない……わかっているとも。貴様がこの日、この刻に現れることも、全てわかっていたことなのだ。だからこそ、既に準備は終わっている」
男は泣いていた。
狂気と狂喜に歪んだ笑みで、自分自身の胸をナイフで開いていた。
よろよろと、血に塗れた両手が神殿に向けて掲げられる。その掌におさめられているものは、脈動を続ける活きた心臓――。
「――御館様! 今です! この星辰、この刻です!」
刹那、雷鳴。
前方から凄まじい衝撃が風の壁となって吹き荒れる。剣王鬼もこれにはたまらず足を止め、咄嗟に腕で顔を覆う。
耳が音を手放し、世界が白く染まる。
――目の前に雷が落ちたのだ。
一拍置いてから、混乱する意識の中で蓮は辛うじてそれだけを理解した。
数秒と経たず、剣王鬼の視界と聴覚が回復する。
背後から友人たちのうめき声が聞こえるが、周囲の怪物たちも静止しているようだった。どころか、何やらどよめいて、これは……何かに驚いている?
そこまで考えて、ようやく蓮も気がついた。
上空にあれだけ色濃く、重く、黒々と立ち込めていた瘴気――暗雲が、どうしたことか全く消え去っていた。
代わりに天で輝くものは満月だ。
銀の光が降り注ぐ――その先に、神殿の上で佇む影があった。
先ほどまで、そこには確かに誰もいなかった。
異様を放っていた神殿は落雷で焼けて赤く崩れている。その頂上に、燻る死肉を踏みつけて、音も無く立ち上がったその影は、正しく唯今に、雷の中、虚空から出現したに違いなかった。
――あるいは、神殿の死骸の奥底、どこか深く遠く、地の根の向こうから這いずり出てきたのかもしれない。
そんな……言いようもしれない不気味さ、冷たい妖しさをそれは纏っていた。
……否、やもするとそれ自体が凝縮された妖気で形作られた存在なのかもしれない。
雷と共に空は晴れたが、まだ周囲に色濃く漂っていた黒々とした瘴気――それらが、ずずず……と渦を巻いてその影へと吸い込まれていき、やがて吸い尽くされた。
周囲の異形どもが、恐れ戦くように膝をつき、首を垂れるのが視界の隅に映っていた。
すらりと佇むその影が、振り向いた。
長身痩躯の男だ。若い。おそらく三十は越えていない。
闇で染めたような漆黒の軍服に軍帽、肩には同色のマントが掛けられ、腰の剣帯には日本刀が提げられている。
黒く艶のある髪が揺れると、額に刻まれた七曜紋状の痣が垣間見えた。
涼やかな顔立ちは端正で、切れ長の赤い瞳が眼差しを切り返す。
その男を、剣王鬼はよく知っていた。
「成る程……矢張り、貴様か」
紅の瞳を細めると、万感の思いを混じらせ男の名を呼ぶ。
「七星――礼二郎」
それは、日本呪術史に今なお悪名をとどろかせる大罪人である――。
旧大日本帝国陸軍に置かれた関東軍呪術部の創設者であり、その第一部隊を率いる部隊長だった男。
かつて屍山血河を築きあげ、数多の怨念を背負ったまま、終戦を待たずして僅か数年で歴史から姿を消した狂気の男。
剣王鬼が、かつて相打ちとなった男。
魔人が今、七十年の沈黙を破って黄泉の国から帰還した。




