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物怪伝 鬼の章  作者: 犬尾南北
大倭篇

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第拾伍話 隠国(六)




        13




 懐中電灯が照らし出す庭先で、ずたずたになった人間の皮膚が、まるで垂れ幕のように吊り下がっている。

 ものそれらは、瑞々しい肉片や神経が筋のように零れているものもあれば、薄黒く乾燥して半ば以上ミイラとなったものもある。総じて荒々しい傷だらけの様子から、鈍らな刃物で無理やり剥がされたのだろうと一見して分かった。

 果たして、この猟奇的な光景を目撃した蓮は、如何にも吃驚した顔で、


「うおっ――」


 ――と声を零して、仰け反る様に一歩後ずさる。

 だが、それだけだった。

 これほどに悍ましい遺物を目前にして、まるで恐怖する様子も、吐き気を耐える様子も、――忌避する様子さえ見られない。

 明らかに、どこか人間としての感性が壊れていた。

 もちろん生来の性質では無い……もしも一か月前の彼が同じ光景を目にすれば、少年は腰をぬかし、胃の中身を吐き出し、みっともなく泣き叫びながら逃げ出していただろう。

 したのだ。

 化け物のそれへと、精神が変調をきたしている――それは剣王鬼の齎すが、静かに、けれど確かに、少年の根幹を成す部分で、今現在も順調に進行していることの証左である。

 これまで身体能力的な部分はともかく、精神的な部分における変容に関してはずっと無自覚であった当人も、この現実にはさすがに違和感を覚えた。

 すれば、思考はすぐに原因へと思い至る。

 知らず目線が揺れて、喉が鳴る。動揺が走っていた。

 一方で、蓮と異なって、これまでもその変質を観察していた剣王鬼にしてみれば、今回はその事実を改めて確認するかたちである。少しの間を置いて、彼は一言だけ宿主に問いかける。


(大事ないか)


 それは色の無い言葉で、だから蓮は意図を推し量ることができなかった。まさか言葉そのままに、剣王鬼は蓮を案じているのだろうか。

 彼が変容していく原因であり、いずれ彼の存在を喰らい尽くして成り代わる予定の怪物が、対等を謳う契約者とはいえ、まさかその相手である人間を心配しているのだろうか――。

 そう考えついた途端、蓮はなんだかとても愉快な気分になった。

 妖怪たる剣王鬼と心を通わせるというのは、当初の目標のひとつでもあったが、どことなく蓮からの一方通行で終わるのではないかと思っていた。

 それが、にわかには信じられないが――どうにも、そういうわけでもないのかもしれない。

 蓮はひとつ息を吐くと、結局いつもどおり、たいして深く考えずに


「ああ、うん。大丈夫。吃驚したなあ」


 と嘯くのであった。

 無言でもって返す剣王鬼を余所に、蓮は再び前方へと懐中電灯を向けた。

 闇夜に浮かび上がる赤黒い惨状を、改めて眺めるが、やはり蓮には如何なる衝動も湧き上がらない。

 恐怖も、嫌悪もなく、動じない精神はあくまで普段からの延長線上にあった。

 蠅のたかる皮膚を物珍しそうに眺めながら、


「まあ、これはこれで便利かもしれん」


 なぞと思うことにする。

 蓮は人並み以上にはホラー映画を好んで観る方なのだが、どうしてもスプラッタ系が苦手であったために、冒頭までしか視聴を継続できなかったタイトルが幾つかあった。グロテスクなものに耐性が出来たということは、今後は途中で降参することなく、きちんとエンディングまで楽しめるということである。

 この旅行から帰宅したら、まずはそれらに再挑戦しなければと彼は心に決めた。

 少年が暢気なことを考えていると、その背後で気配があった。

 がさり、と微かに聞こえたのは、草を踏む音だ。

 慌てて振り向いて、


「あっ」


 と声を上げる。

 薄暗い闇の向こうで、人知れず背後に近づいてきていた影は、先程に玄関先で別れたばかりの少女――

 長身の男だ。制帽を目深に被り、上下ともに黒い制服で身を包んでいる、つまり夏なのに黒いジャケットを確りと着こんでいる。

 見覚えのある格好に、蓮はが自分たちを村まで乗せてきた、あのバスの運転手なのだと気がついた。

 バスを降りるときには陰となって見えなかった顔が、今、懐中電灯の前に照らし出されている。

 眼球の無い、闇色に落ち窪んだ眼孔。

 乾燥して罅割れた茶色い肌。

 鼻は腐り落ちていて、唇のあった場所は歯茎が剥き出しになっている。

 頬も半分破れていて、片側に至っては顎の間に肉の名残が何筋か糸を引くのみだった。


 ――それは、どうみても死人であった。


 その死人が、二本の足で立っている。

 漫画の様に眼孔に炎こそ灯っていないものの、彼の視線が敵対的で、そして何処に向いているのかということは明らかだった。

 明らかではあったが、今更この程度では動じない胆力を手に入れてしまった蓮は、ふむと顎を擦るとのんびり零す。


「なるほど、これがゾンビ……」


 途端、バス運転手だった怪人は、存外に俊敏な動きで少年へと飛び掛かった。

 てっきり多くの映画のように緩慢な動作だと思い込んでいた蓮は、これに虚を衝かれる。

 両手を前に掴み掛かってきた男に押され、後ろへと体勢を崩す。

 このまま背中から倒れ込んでしまうと、上から組み付かれるかたちになる――それは不味い、と意識の底で察していた。

 動物的な本能だった。

 後ろに倒れゆく刹那の間に、蓮は咄嗟に身体を制御していた。

 倒れるよりも先に、両掌を後ろ手で地に伸ばす。同時、懐に膝を戻すと、男との合間に両足が壁を作る。――瞬間、折り畳んでいた腕と脚を、バネの様に伸長する。

 靴底を通して、何本もの骨を蹴り折る感触があった。

 視界の天地が、ぐるりと回る。

 気がつけば蓮は、まるで変則的な後転をするような格好で、襲い掛かってきた怪人を、そのまま後方へと蹴り飛ばしていたのである。

 動く死体は、庭先にせり出していた家屋へと勢い突っ込むと、大きな音を立てて壁を破り、土埃のなかに消えた。

 腕を伸ばした反動だけで、さらに宙で一回転してから蓮の足は地面を叩いた。


「おっと」


 慣れぬ曲芸に、少しだけたたらを踏んでから、少年は「はあ」と息をついた。

 この一瞬の攻防で、結局、蓮の背中は一度も地面に触れなかった。

 さながら体操選手のような身軽さである。

 運動音痴だったはずの自分の身体とは思えない性能であるが、こと身体面に関しては驚くのは初めてではない。

 なるほど、とだけ思って、すぐに意識を現実に戻す。

 放り出していた懐中電灯を拾い、蹴り飛ばした先へと振り向くが、収まりつつある土埃の向こうには暗闇が広がっていて、先ほどの男の気配は掴むに掴めなかった。


「蓮っ! よかった、無事ねっ!」


 玄関のほうから慌ただしい足音が聞こえたかと思えば、音を聞きつけたのだろう、今度こそ葵が駆けつけてきた。

 庭先に佇む無傷の蓮と、彼が見ていた先にある壁の大穴とを見比べてから、


「えっと……無事よね?」


 改めて確認してくる少女に頷く。


「いったい、なにが――」


 続けて問いかけようとしたところで、葵は唐突に言葉を切った。

 眉根を寄せて、険しい表情で周囲を睥睨する。

 蓮も気がついていた。

 村のなかを渦巻く瘴気が、より深く、濃くなっていく――。

 それとともに夜の闇が、どろどろとした粘質な気配で満ちていく――その気色が悪いはずの感覚に、蓮の背筋でぞわぞわとするものがある。


(――


 剣王鬼の声が脳裏に響いて、そして、村のなかを風が吹き始めた。

 生暖かい風は、血と泥と腐肉と――死臭に塗れていた。

 瘴気と共に強くなっていく風は、村の中心に向かって巻いているようだった。

 そこには、小高い丘と神社がある。

 闇の向こう、遠目に見える赤い鳥居を睨みつけた葵が、「ようやくわかった」と呟いた。


「瘴気の中心地もあそこだわ」


 蓮も同意したところで、ぱきり、と音が鳴る。

 見れば、先ほどの穴から血だらけの死体が這い出てくる場面であった。

 また、それだけではない。

 いつのまにか、大勢の人影が二人を囲んでいた。

 村人らしき彼らは、皆が多かれ少なかれ破損している――動く死体の群れである。


「やっぱり村って、そういう意味――なのかしらね、ここ」


 軽口を言いながら霊符を用意する葵は、けれど多勢に無勢だからだろう、珍しく緊張した面持ちである。


「葵……」


 この状況には、さすがの蓮も剣王鬼のことを意識する。

 葵の前だけれど、仕方がない――そこまで考えた瞬間、少女が彼に振り向いた。


「蓮、心配ないわ」


 勝ち気な微笑みの内には、溢れ出る自信があった。

 肉体という器を越えて、なみなみと輝く生命の衝動が、霊力という指向性で現れる。

 それに、思わず蓮は息も忘れて見惚れてしまう。

 第六感を通して視える先では、少女から湧出する白銀の光輝が蜃気楼のように揺らいでいる。


「言ったでしょ。わたしは天才なの――大丈夫よ。あなたは、わたしが守るから」




隈手くまで

 死者の世界。あの世。八十隈手やそくまで。(古事記・日本書紀)


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