第拾伍話 隠国(五)
11
民宿に残った文太と慧は、どこか薄暗い建物のなかを確認してまわっていた。
古く年季の入った廊下はやはり、歩みを進めるたびに、床や壁、窓枠まで含めた全体が軋む。
ぎい、ぎい、というその音が、不自然なほど静かな宿へ響き渡る。
まるで、蟲か何かの悲鳴のようだと文太は感じていた。
「……やっぱり俺たち以外には、客はいなさそうだな」
宿の構造を把握しつつ、各部屋の様子を窺ってみたところで慧が言った。
文太も頷きながら、しかしと思う。
先程からずっと、厭な予感が頭の隅に留まって離れない。
相変わらず瘴気が漂っているからだろうか――いや、それにしても……と眉を寄せる。
予感は、時を追うごとに強くなるばかりだった。
気を紛らわせようと首を振ると、別で気がかりな点を指摘する。
「でもさ、お客どころか、従業員すら……あれから女将さんさえ見当たらないのは、ちょっと変じゃね」
「ああ。たしかにそう――」
と、慧も同意しようとして、突然に足を止める。
「――しっ。静かに」
その異様な雰囲気に、思わず文太も声を潜めた。
「どうした」
「……なにか聞こえないか」
言われ、文太も耳を澄ませる――彼らが向かっていた先、廊下の奥から微かな物音……まるで金属の擦れるような……。
顔を見合わせた二人は、なぜか自然と腰を落とし、そのまま足音を忍ばせて進み始めた。
このとき彼らはなにか頭の深くの、本能染みた部分で警戒心を共有していた。
「……」
果たして廊下の突き当りには、部屋があった。
天井の電灯が壊れているのか、そこだけ一層に暗く澱んでいる。
襖は半分だけ開いていて、中からは蝋燭か何かだろうか――薄く揺らぐ橙色の明かりが漏れている。
少年二人はそろりそろりと近づいて、気配を押し殺したまま、そっと覗き込んで――。
「……っ」
文太は思わず声を上げそうになって、咄嗟に両掌で口を抑えた。
慧もまた、必死に動揺を押し隠しながら、深く息を呑む。
二人ともに自分の心臓が激しく鼓動する様子を自覚して、その音が漏れ聞こえやしないかとさえ、心配した。
――そこは、台所であった。
明かりはやはり、燭台に立てられた蝋燭である。
電灯はない。
揺らぐ炎に照らされて、宿屋の女将がひとり作業をしていた。
流し台の横で、敷いた砥石に大振りの包丁を当てている。
しゅり……しゅり……しゅり……。
包丁を研ぐ音が、部屋に規則的に響いている。
聞こえていた音はこれだった。
……それだけであるならば、よかった。
もしも、ただ包丁を手入れしている、それだけであるならば――どれだけ、よかったか。
女将に変化はない。
にこにこと、先刻と変わらぬ薄い笑みを、ぴたりとも動かさずに包丁を研いでいる。
そんな彼女のすぐ傍らには机があった。
そして、その机上に並ぶものは――明らかに――。
(人間の……一部……)
赤くぬらぬらと照る血液に塗れて、腕が、脚が――まるで、食肉であるかのように並んでいる。
事実、血の気を失った白いそれらは、当初の一瞬間だけは、ハムか何かのようにすら見えた。
腕と脚だけが何本もあるから、複数人のものなのだろう。
細いものも、毛深いものも……老若男女のものがある。
一番手前の腕に、薬指で指輪が光っているのが生々しかった。
「……っ、……っ」
こみ上げる吐き気を無理やり抑えて、文太が涙目になっている。
その隣で、同じく顔色を蒼白にしながらも部屋を観察して、慧は気づく。
机の上だけではない。
床に、壁に、食器棚に――。
さながらB級のホラー映画だった。
また本当にこれが映画であったならば、制作陣はとりあえずスプラッタにすればよいと思っている……出来の悪い、悪意しか感じぬ、悪夢である。
壁一面に、フックで吊り下げられた人肉。腕。脚。
食器棚に並ぶ頭蓋骨。
赤い手形がべったりと付着した冷蔵庫。
重いものを引きずったような血痕が夥しい床の隅には、おそらく被害者の持ち物が、雑多に積まれていた。
とくに目立つものは、色とりどりの登山用リュックサックである。
慧はそこで、ようやく昼間に流れていたラジオのニュースを思い出す。
(遭難者……行方不明……まさか、この村で)
同時に、
(ラジオでは十人だって言ってたけれど……これは)
山となっている持ち物や、解体された部位、並ぶ頭蓋骨の数を見るに、実際の被害者はもっと多いだろうと察してしまう。
おそらく、二十人は優に超えているのではないか……。
その、あまりに悍ましい事実――それに、さすがの慧も、ついに抑えきれなくなった動揺が足に出た。
無意識に、半歩下がってしまい、瞬間。
ぎいぃ――と、床が叫んだ。
(しまった――)
と思ったときには、静寂が辺りに満ちている。
文太の震える視線が、慧のそれとかち合った。
ずっと鳴っていた包丁を研ぐ音が、ぴたりと止んでいる。
――老婆が、ゆっくりと少年たちに振り向いた。
12
村の奥にある、その大きな屋敷は何十年も放置されていたようで、完全に廃墟と化していた。
屋根は半分以上が崩れ落ちていて、隙間という隙間から草木が伸び、壁という壁を蔦が覆っている。
それでも、かつては立派だったろう門扉に刻まれた「重頭馬」の表札だけは、かろうじて読み取れた。
「ここですね」
廃墟を仰ぐ柚葉に、肩の上で妖狐が囁いた。
「この辺りはずっと瘴気が濃い……気をつけなよ」
「ええ、わかってる」
何が起こっても対応できるように、腕の魔具を待機状態にする。薄く銀色に輝く腕輪を一瞥してから、彼女たちは屋敷へと踏み入った。
……危惧していたような、呪的な防護は施されていない。
荒れ果てた玄関まで、あっさりと侵入する。
そのまま警戒を保ちながらも周囲の様子を見回して、
「奥ですね」
「奥だね」
まったく同時に同じことを囁いた。
彼女たちは頷き合うと、廊下の先へと向かって歩みを進めた。
間違っても腐った床板を踏み抜かないように、慎重に歩く。
玄関から中の間、中の間から奥の間へ……。
途中途中の部屋ものぞきながら、静かに進んでいく。
放置された家具や、書籍たちを横目に、この家のかつての姿を想像する。本来の重頭馬は道術の家であった……ならば、あるはずなのだ。神殿が――。
「――柚葉」
囁く声に、ハッと顔を上げる。
見れば奥の間の先に戸があった。
木の板を張った引き戸は、しかし半ば崩れて穴が開いている。
その穴の向こうに、巨大な祭壇が見えていた。
「……」
ひとつ息を吐いてから、柚葉はそちらに向かう。
壊れかけの戸をゆっくりと開き、神殿へと立ち入って――。
「え?」
と思わず声を上げた。
たしかにそこは重頭馬の神殿だったのだろう、祭壇もある……しかし、そこは明らかにもぬけの殻であった。
「あかり、これは……」
動揺する柚葉に、妖狐もまた眉間に皺を寄せて、
「……もう一度、他の部屋を確認してみよう」
続けて、怪訝そうに呟く。
「それでも見つからなければ、これは……いや、まずはとにかく探そう」
肩から飛び降りた彼女に促され、柚葉も踵を返すと、再び探索を始める。
――けれども、やはり、この屋敷にそれらしきものは何も残ってはいなかったのである。
数十分の後に合流した彼女たちは、結論する。
「――ここに、重頭馬の秘術は残っていない」
言う柚葉に、あかりは頷いた。
「緋崎のジジイが耄碌したのでなければ、つまり誰かが、我々よりも先に回収したということになる」
異論はなかった。
そのうえで、現在の状況を鑑みるならば――
「その誰かが、いまこの村で重頭馬の秘術を行使している……?」
半ば思いつきで柚葉がそう呟いたところで、ほぼ同時に彼女たちは気がついた。
――屋敷の外が、騒がしい。
大勢の足音……気配……。
知らぬ間に、彼女たちは包囲されていたのである。




