第拾伍話 隠国(四)
8
改めて、蓮たちの居る隈手村――そこは、仄暗く瘴気漂う、なんとも陰気な村である。
携帯電話の電波も通じず、手持ちの地図のどこにも見当たらない、……深く黒い森の奥に、谷の合間でひっそりと広がる小さな山村だ。
そこで蓮たちは瘴気を気にしつつも、刻々と山から下りてくる夜の闇に追い立てられるようにして、村で唯一の古びた民宿に転がり込んだというわけだった。
その二階の客室で、
「どちらにせよ」
と葵が言った。
「この瘴気をどうにかしないことには、おちおち寝られもしないわ……瘴気の原因を探して何とかするのが先決ね」
それに慧も肯いた。
そのうえで、
「たしかに重頭馬の遺産とやらがここにあるなら、まずはそいつが怪しいが……とにかく、何かしら瘴気の本があるはずだ」
彼の視線に、柚葉も同意を返した。
「それでは急いで探しましょう。これ以上、夜が深くなる前に……」
一斉に立ち上がる三人に、一拍遅れて蓮と文太も慌てて続く。
呪符や経典、……といった呪具の準備を進める彼らに、「ところで」と蓮が言った。
「組み分けはどうしよっか」
「え」と固まるのは、彼の隣に立つ文太である。
「いや、だって全員で探し回るのは効率悪いでしょ」
蓮はさも自然な様子で「例えば、二手に分かれるとして……」と呟いた。
「素人である僕と文太のそれぞれに、君ら霊能力者がつけばいいわけだ。じゃあ、文太、慧、葵の三人と、僕に宗像さん、あかりさんの三人――というのは、どうだろう」
言いながら、蓮は背中に汗をかいていた。
というのも、窓の向こうはすっかりと暗いのだ。とっくに陽は落ちていて――つまり、先刻から剣王鬼が目覚めていた。
(ごめん、身体を代わるのは、もうちょっとだけ我慢していてくれない?)
愉快ではなさそうな気配で黙り込んでいる剣王鬼に、蓮は胸の内でひたすらそんな風に謝り倒している。……彼はいつまで、おとなしくしていてくれるだろうか。
なにしろ先日には、蓮の父親の前でも普通に姿を現していた剣王鬼である。
いつ何時、この友人たちの目の前で身体の支配を奪われるか、気が気でない蓮なのだった。
せめて、すでに事情を知っている緋崎コンビの前にしてほしい……。
身勝手極まる少年の、そんな切実なる願いの一方で、この発言に眉を顰める者がいた。
葵である。
いかにも不機嫌ですという語調で、「ねえ……」と口を開く。
「つまり、なにそれ。緋崎と二人っきりになりたいってこと?」
腰に手を当てて、思いっきり怪訝そうに蓮を睨みつけるのである。
あまりの剣幕に、蓮は慌てて顔の前で手を振った。
「え、……いやいや、そういうことじゃなくて。だいいち、あの、あかりさんもいるし……三人と三人に別けただけだよ、本当に」
とうの妖狐は柚葉の肩の上で、「やれやれ」といった呆れ顔をしている。
「そんなじゃれ合いをしている時間はないよ」
と述べる彼女までをも葵が睨みつけるが、それを柚葉が手で制した。
「それでは、こうしましょう。私はあかりと二人で大丈夫なので、皆さんも二人ずつ……例えば渡辺さんと神谷さん、千田さんと不死川さん。二手ではなく、三手に別れるんです」
どうですか、と続ける少女に「よし、それでいこう」とすかさず慧が頷いた。
「まあ、それなら……べつに言うことないわね」
と葵も拳を下ろす。
ただひとり、蓮だけは(どうしよう……)と汗をかいていた。
9
宿舎の廊下は薄暗かった。
黒く染みの浮いた床板は、誰かが踏むだけでギシギシと音が鳴る。そのたびに、天井にひとつ下がっている裸電球がぐらぐらと揺れて、薄オレンジ色に縁どられた影の行列が、廊下や壁に大きくなったり小さくなったりした。
村一帯を包み込む瘴気の影響だろうか……思わず息を呑むような不穏さが、すでに部屋を出たすぐそこからあった。
「なんか、また牛鬼とか出てこないよな……」
呟く文太は、わずか一か月前の出来事を思い起こす。
ジンゴさんと呼称される怪異による異界は、無人の農村という景観であった。
不気味な村という点で、現在の状況は、どことなくあの時のことを想起させる要素がある。
「大丈夫、あのときとは違うよ」
すぐ後ろに控えていた慧が答える。
ほぼ同時、一行の先頭で早くも階段を降り始めていた葵も答えた。
「瘴気が濃いだけで、ここは異界じゃないわ」
それらに「なるほど」と文太が安堵すれば、蓮もまた思い付いたように言うのだった。
「ひとだって住んでるしね」
そこで、ちょうど皆が一階まで下り切った。
階段からすぐ目の前には、さっそく玄関口が広がっている。
「さて――」
振り返った葵が音頭を取る。
「ここから、どう別れようかしらね」
それに、窓の向こうの暗闇――遠くの路地で、わずかに電柱の電灯が薄く瞬いている――を覗き見た文太が、慌てた様子で手を挙げた。
「ハイ! おれ、ここがいい!」
言ってからハッとすると、決まり悪げに目を泳がせながら、
「ああ、いや……まず、この宿のなかを調べてみるべきかと思ってさ」
「――うん……たしかに、一理あるな」
果たして、これに苦笑交じりに慧も続けば、
「じゃあ、あんたたち二人はまず宿のなかね」
と葵も頷いた。
「残り二組で外となれば……それでは、都合よく左右に道が分かれていますし、私たちはここで別れましょうか」
さっさと靴を履き替えていた柚葉が、玄関の引き戸の向こう、宿の前の道を指さして言う。
「まあ、いいんじゃない」
適当な返事をしながら葵も続いて外へ出る。
最後に蓮が振り返り、
「それじゃあ、いってくる」
「気をつけろよ」
「そっちもね」
そんな軽いやり取りの後、ガラガラと戸が閉められた。
玄関の向こうに彼らの声が遠ざかっていき……やがて、ついに聞こえなくなる。
途端、周囲を取り巻く静けさが圧を増したような気がして、どことなく文太は寒気を覚えるのだった。
10
山村の中の薄暗い道を、蓮と葵で連れ立って歩く。
まだ七時前だというのに、随分と闇が濃くなっていて、灯りの外を数歩も離れてしまうと輪郭しか見通せない。
灯りはというと、蓮と葵の手元にある安物の懐中電灯と、そしてところどころの電柱に備えられた古い街灯が、時折瞬きながらも、心細げな明かりで路を照らしているのみである。
曇っているのか、空に星はない。
もしも見えていれば、今夜はちょうど満月だったはずなので、もっと明るかったろうに……と蓮は思う。
まあ、詮無いことだと首を振ると、蓮は改めて周囲を見渡してみる。
暗がりのなか、周りに広がっているのはごく普通の山村に見えた。
街灯があり、塀や生垣があり、表札がある。家も古い家屋が多いようではあるが、田舎と考えれば違和感はない。
庭先に木の棒を何本も掛けてあるのは、物干し棹だろうか……暗くてよく見えないが、いくつかにシャツのような影が干されている。……棹の本数が多いところを見ると、あるいは本来の用途は、洗濯物とは別に、なにか藁などを干す場所なのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えていると、
「妙ね……」
という呟きが耳に入った。
顔を向ければ、葵が不審そうな目つきで周囲の家々を凝望している。
「……明かりの点いている家が、少なすぎるわ」
続いた言葉に、不思議そうだった蓮もハッとした。
慌てて見回せば……たしかに。
たしかに、その通りだった。
家の影は数十もあるのにも関わらず、明かりの漏れる家は数件程度なのだった。
道理で、村のなかが暗いわけである。
とはいえ、ただ過疎の進んだ集落という可能性だって十分にあるのだが――。
「あっ、ちょっと、葵っ」
蓮が止める間もなく、少女は手前の暗い家に目星を付けるなり、ひょいひょいと石階段を上って、門を潜って行ってしまった。
慌てて蓮も追いかければ、すでに民家の玄関は開け放たれている。
「鍵……開いてたのか」
「うん」
玄関や門の区切りを注意深げに観察していた葵は、言葉少なめに答えると、
「ちょっと奥を見てくるわね」
言うなり、土足でずかずかと玄関を上がってゆくのである。
「えっ、マジで……? いや、さすがに空き家じゃないでしょ、ここ!」
蓮の声を置き去りにして、少女の背中は廊下の奥へと消えてしまった。
さすがの蓮でも、ひとけがないとはいえ、明らかに空き家ではなさそうな家に上がり込む度胸はない。
数秒、追いかけるかどうか躊躇したところで、
「ん?」
その家の庭先から、妙な音がすることに気がついた。
「なんだろう……蠅のたかる音? 生ごみでもあるのかな」
意識を向けさえすれば、途端に蓮の五感は常人を越えて鋭くなる。
細かい羽音を耳が捉え、腐りかけの肉のような臭気を鼻が嗅ぎ分ける。
なんとなく気になった――そんな軽い気持ちで、知らず蓮の足はそちらに向いていた。
玄関の横をぐるりと回り込み、庭先のほうへと歩いていく。
一歩。二歩。……
そのとき、ずっと黙っていた剣王鬼が突然に声を上げた。
(まあ、待て――見ない方がいい)
けれど、遅かった。
薄く白い、懐中電灯の明かりの先に、赤黒いものが映り出ていた。
庭先の、物干し棹のような木の棒に……幾つも掛けられていた影……。
それは、無残に剝がされた人間の生皮だった。




