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物怪伝 鬼の章  作者: 犬尾南北
大倭篇
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第参話 儕輩(二)




        3




 夕焼けが、街をすっかりと覆っていた。

 帰路を急いでいる少年、佐藤さとう博司ひろしは腕時計を確かめる。


「まずいな……このままだと間に合わない」


 雑踏の人波の中をひょいひょいと縫いながら、焦ったような声を出す。

 彼はごく平凡な中学生だった。

 今年で十四歳。平均的な身体つきをチェックシャツとスラックスで包み、胴にボディバッグを回している。

 街中のゲームセンターで友人たちと遊び倒した後の帰途であったが、彼はつい先ほどまで重大なことを失念していた。


「今日は、絶対に見逃せない回なのにッ……!」


 すなわち、テレビ番組の録画忘れである。

 勿論、これまでも録画予約をしていたのだが、今朝ほどに出勤する母親が言ったのだ。


『そういえば録画データ、もう満杯になっていたから。アンタあの大量の録画いくつか消しときなさいよ、じゃないと今晩の容量不足で録画できないでしょ』


 寝起きで朝食を咀嚼していた博司は、寝惚けたままの頭で曖昧な返事をした。

 そしてついには録画機器に触ることすらなく、友人たちと遊びに出かけたのだった。


「俺の馬鹿野郎、アホ、オタンコナス……」


 ぶつくさと呟きながらも足は止めない。そうしているうちに赤信号に引っかかる。腕を腰元に構え、軽く足踏みをしながら待つが、この間にも時は進んでいる。

 焦れながら横断歩道の向かいを眺めるが、そちらの歩道も相変わらずに人が多い。車道横を走るという手もあるが、白線が狭いうえに交通量が多いので危険だ。

 そのとき、博司の目の隅に路地裏への入り口が映りこんだ。


「……しゃあない」


 躊躇は一瞬だった。信号が青になって横断歩道を渡り切ると、そのまま彼はビルの合間に暗く口を開けていた路地へと飛び込んだ。

 路地は狭く、両側にそびえるビルが影を落として薄暗い。

 酒の空き缶や煙草の吸殻など、雨風に晒されたゴミが散らばっているが、それらも然程に多いわけでもなく、通行の邪魔というほどではない。人の多い歩道を走るよりはずっとましで、そして何度か使用したことのある近道でもある。あのまま大通りそばを道なりに行くよりも、だいぶショートカットできる。


 ただ、懸念事項がないわけでもなかった。


 ここ最近、どうにも夜中の治安が悪いらしいのだ。実際に数日前、何人か行方不明になっている。テレビのニュースで見た限りでは、博司よりもずっと年下の少年少女が三人。

 いずれも、日が暮れて以降も家へ帰ってこなかった。

 彼らは皆がやんちゃな気質だったようなので、単なる家出かもしれない。しかし誘拐など犯罪に巻き込まれた線も捨てきれず、子を持つ親など地域の大人は仄かにピリついた空気を出している。

 博司の通う中学校でも、夜間の外出をしないよう指導された。


 とはいえ、未だ午後六時である。季節柄に空は七時過ぎまで明るいし、ひとけがなく薄暗い路地とはいえど、その長さはせいぜいが三十メートルもない。この道を抜ければまた大通りに当たり、その傍には交番だって存在する。


 こんな小さな区間で犯罪に巻き込まれるというのも難しい。


 だいいち、こうして彼が夕方まで街中に出ている様子を見ればわかるように、当の子供たちはそこまで危機感を持っていなかった。

 田舎の地方都市といえど、三浜市はそこそこに発展しており、とくに砂川町など中心部は著しい。付近で最も大きな砂川駅の周辺などは夜間の治安がよろしくない……そんな話題は昔からあるものであり、駅の裏でやれ麻薬の売人に声を掛けられるのだの、そういう怪しげな事実は山ほどあり、付近の子供は小学生の頃から注意するよう指導される。


 だから、今更なのだ。

 この街の夜は治安が悪い、などというのは知っているし、十年前から時代を超えてきたような不良が改造バイクで暴走しているということも知っている。

 家出や行方不明だって、大きな市なので年に数人は出ているだろう。


 そういうわけなので、夜の危険性をよく理解しているつもりの子供たちは、まさか自分が犯罪に巻き込まれるようなをするとは思わない。


 事実、それは傲慢であり、油断である。

 幼いゆえに純粋な、誰でも持つ、小さな驕りである。


 だからこそ、気を付けて生きねばならない。

 この世界は、それほど優しくないのだ。ふとしたことで牙をむく。

 慢心のツケは、思いもよらぬ形で払わされることになる。


「――あれ?」


 博司は足を止めた。

 乱れた息を整えながら、前後を確認する。

 随分と走っていた。

 しかし――路地が終わらない。


「嘘だろ……」


 腕時計を確認すれば、路地に入ってから十分以上も経っている。

 短い路地だ。

 とっくに抜けていなければおかしかった。


 異常が、起きている。


 ビルの合間に切り取られた空は、少しずつ色濃くなっている。周囲もより暗くなってきていた。

 どこからともなく、得体のしれない寒気が博司を襲った。

 夏だというのに、腕には鳥肌が立っている。


「と、とりあえず戻ろう……」


 反転して、元来た道を走り出す、

 テレビ番組の録画のことなど、すでに忘れ去っていた。


 なぜだかわからないが、とにかく由緒不明の不安感が胸中を覆っていた。


 そして――路地は、終わらない。


 来た時以上のスピードで、それこそジョグではなくランニングの意識で走るも、……来た時にかかった十分を超えてなお、出口は現れなかった。


「……どうなってるんだ」


 もとより体力自慢というわけでもない博司は、へばった様子で足を止める。上体を屈めるように膝に手をつけば、顎から垂れる滴が路面にポタポタと染みを作る。

 そして、荒い息をしながら再び顔を上げて……


「あ」


 前方に、人影を見つける。

 こちらに背を向けて、赤いコートを羽織った女性がひとり立っている。


「あの! すみません!」


 気づいたときには駆けだしていた。

 そうして近寄って声をかけて――、そこでようやく博司は気が付いた。


 百七十センチの博司よりも遥かに身長が高い。

 なによりも、夏で、こんなに暑いのに――女性は膝下まで届くコートを着込んでいる。


 背を向けていた女性が、緩慢な所作で少年を振り返った。


 博司は思わず、ひっ……と叫びそうになって呼気を呑む。


 長い黒髪は手入れされていないのかぼさぼさで、充血した瞳の下には隈がある。肌は青白く生気がなく、口元を大きな衛生マスクで隠している。

 まさしくホラー映画にでも出て来そうなほどに陰鬱な空気を纏った女が、のっそりと博司の顔を見下ろした。


「あ、えと、その……」


 あまりのインパクトに頭が真っ白になった博司は、視線をさ迷わせながら口ごもる。

 そんな彼に、女性は外見通りの陰気な声で囁いた。


「ねえ……わたし、綺麗?」


「……へ?」


 呆けた声を出して見上げれば、依然として陰鬱な顔が見下ろしている。

 女性は再び繰り返して、声。


「ねえ……わたし、綺麗?」


 ぴくりとも変わらない表情に、平坦で、酒で焼けたように掠れた声。ジッと見下ろしてくる血走った眼光。

 怖くなってきた博司はバッと目を逸らすと、


「き、きれい……ですよ?」


 裏返りそうになる声で、なんとかそう返した。

 震えそうな声を努めて制御しつつ、


「それじゃ、あの、ボクこれで……」


 一歩、後ろへ足を戻した。

 そうして逃げるように離れようとしたところで、呼び止められる。


「ねえ……」


 逃げようとする後ろめたさもあった。博司は警戒もなく、思わず振り返り――。



「――これでも、わたし、綺麗?」



 マスクを外した女が、嗤っていた。

 血走った瞳は愉悦に歪み、両方の頬は口元から耳の元まで、ずたずたに切り裂かれていた。鈍い刃物で裂いたのか、その傷の断面は非常に痛々しい。黒血の凝固した傷口の間から黄色い歯がのぞき、そして粘質の涎が一筋垂れた。


 一拍置き、少年が声を上げて逃げ出すのと、女がコートの裏から錆びついた手鎌を取り出すのはほぼ同時だった。

 ひどく汚れた手鎌から、ぽたりとひとつ、乾ききっていない血が路上に落ちた。




        4




 少し歩こう――そう言って慧を連れ出した蓮は、三浜大社から出て二十分ほど街中を歩く。

 しかしその間、会話は殆どなかった。

 蓮は蓮でどのように話し出そうか考えていたし、慧もまた道順から目的地の見当が付いていたので、問いただすのはそこに着いてからで良いだろうと思っていた。


 やがて二人は、大きな公園の中へと入る。

 三浜大社から南に下った場所にあるそこは、一級河川である柿田川、その湧水群を保存する自然公園である。

 手入れされた林が広がり、そこらにある清流の小川では保護者同伴の幼児たちが水浴びをしてはしゃいでいた。

 林の中の小道を通り、広々と整備された芝生広場にやってくる。


「あそこに座ろう」

「おう」


 広場の外縁、林の木陰になっているベンチが空いていたので、声を掛け合ってそこに座る。

 ベンチからは広場の様子が一望でき、あちこちでボールを蹴る少年たちや家族の姿が見える。広場の中心にある鉄柱、その頭に設置された時計は午後四時過ぎを示している。

 頭上を仰げば、どこまで続きそうな青空があり、その端で白い雲が入道を造ろうとしていた。


「それで」

「うん」


 空を眺める蓮に慧が切り出す。短く返事をして、さらに一拍置いてから、蓮もようやく友人へと向き直った。


「実は――」


 一週間前から始まった怪奇な出来事、そのすべてをありのままに話した。

 ところどころで慧は何か言いたそうに口を開けたが、結局はなにも言葉にせずに閉じた。蓮はその都度に気にしながらも、静かに語り続けた。


 気づけば、空は夕焼けに染まっていた。


「――まあ、そういうわけでね。たぶん、もう大丈夫だと思う」


 話をそう締めた蓮は、小さく息を吐くと握っていた缶ジュースを口につけた。これは途中、席を離れてそばの自販機で購入したものである。すっかりと温くなった清涼飲料水が、それでも爽やかな香りと共に喉を潤した。


 ふと広場中央の時計を見れば、時刻は午後六時になろうとしていた。


「色々と言いたいこともあるけど……まあ、まずはおつかれ」


 ずっと黙っていた慧が口を開き、蓮もそちらに改めて顔を向ける。

 夕陽を背に、親友と言ってよい友人は言葉を選ぶように顔を悩ませながら、ぽつりぽつりと話し出す。


「ひとまず、蓮が無事でよかった。本当に。……三浜大社の大祓なら、間違いなく最高級の厄除け……除霊だと俺も思う」


 慧の実家は赤沼町にある寺である。いわば蓮にとって最も身近な宗教者の一人は、彼の父親といえる。そして蓮は、彼もまた少なからぬ霊感というものを保有しているらしきこと、そして将来は実家を継ぐだろうことを本人から聞いていた。

 そんな友人が太鼓判を押したことで、蓮も大きく胸をなでおろした。


 その様子を横目で眺めてから、慧は「でも」と、堅い言葉を落とした。


「でも、納得できないな」


 その声は重く、少なくない非難の色があった。

 ハッとした蓮が見れば、彼は真剣な瞳で見つめている。


「なんで俺たちに相談してくれなかったんだ」


「……いや、それは」


 口ごもる蓮に、慧は続ける。


「相談さえしてくれていれば、もっと早く解決できていたかもしれないのに。……なあ、友達がさ、自分の知らないところで死にそうになっていただなんて――それも、もし相談されていたら、助けになれていたかもしれないことでさ。……そんなの、ぞっとしないぜ」


 言葉の端々に、心底に友人を思いやる音があった。

 蓮はとうとう俯いてしまう。

 どんよりとでも擬音を付すべき様子で頭を沈める彼に、慧もようやく硬かった表情を崩す。

 努めて明るい声で、


「ま、これからは気を付けてくれよな」


 恐る恐る顔を上げれば、悪戯げに笑んで蓮を見ている。


「それに、考えてみれば自分で何とかしようと試しまくるだなんて、なんとも蓮らしい話だった」


 それは普段通りの友人の顔だった。

 蓮は小さく息を吐くと、


「いや、こちらこそごめん。……気が動転していたのと、巻き込みたくないので、選択肢から外してた」


 再び、今度は謝罪として頭を下げる蓮に慧はいいよ、と手を振る。


「俺も言い過ぎたかも。……でもさ、俺も神谷も、文太だって。蓮に相談されれば何だって力になるぜ」


 非常にありがたい言葉だった。

 自分はなんて良い友人を持ったのだろう――蓮は胸の内で感動した。


「それに」と慧は茶目っ気のある声で続ける。「オカルト関係なら、とくにだ。――俺たちは、同じ“怪奇探偵団”じゃないか」


 思わず蓮は噴き出した。顔を向ければ、同じように笑う慧と目が合った。


「たしかに。そうだった」

「忘れてたのか」

「うん」


 一通り笑って、蓮は目尻に浮かんだ涙を拭く。

 随分とひさしぶりに大きく笑った……そんな気がした。


「さ、そろそろ帰ろうか」


 蓮の隣で慧が立ち上がる。背中を伸ばすように上体を反らしながら、


「俺、実は親父のお使いしてたんだよな。さすがにもう帰んねえと怒られるわ」

「それはごめん」


 慌てたように立ち上がる蓮に、慧は笑う。


「いいって。それに、そもそも最近は物騒みたいだし……」


 リュックサック型のカバンを背負いなおしていた蓮が、その言葉に首を傾げた。


「物騒って?」


 同じく荷物を手に取っていた慧が、驚いた様子で振り向いた。


「もしかしてニュース見てないのか」


 肯く蓮に、「ああ、その」と言葉を濁しながら慧は言う。


「水曜日だったかな、近辺の小学生が三人、行方不明になったんだ。家出かもしれないし、誘拐を知らせる電話もないけれど、なにか事件に巻き込まれたんじゃないかってことで、わりと大人はぴりぴりしてる」


 どうも、蓮が家に引きこもって怪しげな儀式を繰り返していた間に、世間ではそのような事件が起こっていたらしい。


「そうだったのか……」


 蓮は驚いたような声を上げて、なるほどと周囲を見渡した。


「だから、もうひとけがないんだな」


 まだ六時過ぎなのに、やけに早いなと思ったんだと暢気に続ける。

 慧もつられるようにして辺りを見回した。


 つい一時間ほど前までは家族連れや少年たちが思い思いに遊んでいた広大な芝生広場、それが今や自分たち二人を除けば誰もいない。

 静かな公園に、寂し気な夕陽だけが差し込んでいる。


「本当だ……」


 これには慧も驚いた。

 声を漏らし、さらに何か冗談を言おうと口を開いたところで――唐突にそれに気が付いた。


 ()()()()()()()()()()()――。


 第六感が感じ取ったその事実、それが意味するところを慧は知っていた。


(――“()()”だ)


 思い至ると同時に叫んでいた。


「まずいッ! 蓮――」


 ――逃げよう。そう続けようとした言葉は、しかし続かなかった。


 振り返ったそのとき、慧は見た。


 暢気に佇む友人のその背後、その直ぐ傍で女がひとり手鎌を振り上げていた。


 夕陽を鮮やかに反射して、手鎌の刃が蓮の喉元へと下ろされる。


 芝生の上に、赤いコートの裾と飛沫が舞った。


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