第拾伍話 隠国(一)
0
波の向こう、遠く山嶺が連なっている。
絶えず揺れる船のうえで、ようやく見え始めてきた岸を眺めている。
「あー、あう」
腕のなかから、上等な絹で包まれた乳児が顔を出し、山に向けて手を伸ばす。
それを男があやしていると、
「宿禰」
と呼ぶ声がある。
振り向けば、女だてらに鎧を着こんだ麗人が寄ってくる。
その姿を認めるなり一礼をして後、
「あの見えたるが紀伊水門で御座います」
と男が言えば、口を閉じる頃には隣に立っている。
共に潮風に晒されながら、頭を上げた男はそっと横顔を眺めた。
美しく女性らしい顔つきは、けれど戦争の予感で、凛々しくも硬く引き締まっている。
海の波は穏やかであるが、反して彼女の心中は荒れ狂っているのだろう――。
それは、陣中でもないのに、すでに鎧を着こんで太刀を下げ、背中に弓まで背負っている様子からして察して余りあった。
女が視線を落とし、男が抱く赤子を見つめる。
「吾が尊は海に飽いたのか」
短い手指を一生懸命に岸へと伸ばす姿から、そのように感じたようだった。
微かな笑みを浮かべて問う彼女に、「否」と男は返す。
幼い皇子の視線は、先ほどからずっと船の行き先……というよりも、さらに東にずれて山嶺の彼方へと向けて動かさないのである。
半島の奥地……深山幽谷の秘境――その先は死者の国である。
「隠国で御座いますれば……」
それだけ述べれば、女も含むところを汲んだようだった。
浅く息を呑み、それから濡れた声で囁いた。
「父を……探しているのか」
震える手を伸ばし、児の髪を撫ぜる。
聖母と太子の慈しむべき図に、男は思わず目を伏せた。
波で揺れるたび、船は軋む。
近づく港から烏が飛び立っていく。
遠く来たる気配は戦争の匂いだ。
男の腰元で、吊り下げられた剣が金銀の装飾を冷たく輝かせていた。
1
『――登山者の遭難事故が多発しております。和歌山県警によりますと、今年に起こった和歌山県内での山岳遭難は先月までに45件であり、昨年より大きく増加しております。夏の行楽シーズンで登山者が増えるなか、とくに紀伊山地では先月から計10人の行方がわからなくなっており、未だ捜索が続いております……』
ふと耳に飛び込んできた物々しい内容に、思わず蓮は振り返っていた。
ラジオである。
漁港の市場に併設された飲食・休憩用のウッドデッキにおいて、少し離れた席に座っている老人が、持ち込んだ携帯用ラジオを聞き流しながら新聞を読んでいた。
その新聞の見出しにも、大きく「遭難者多数」の文字がある。
「遭難か……無事に救助されるといいんだが」
同じく顔を向けていた慧が、そばでそっと囁くように言葉を零した。
西暦二〇一二年八月二日、木曜日。
夏休みも佳境である。
蒼穹の空から眩しい陽射しが降り注ぎ、どこからと言わずに蝉時雨と、鳶の鳴き声が響いている。生々しい潮風に包まれて、彼ら――赤沼怪奇探偵団の面々は、静岡県を遠く離れた熊野の地に在った。
和歌山県は東牟婁郡那智勝浦町である。
午後二時。
勝浦漁港の市場にて、彼らは遅い昼食をとっていた。
ウッドデッキに並べられている机のひとつを占拠して、市場の物販で購入したばかりの総菜を分け合っている。
机の上には、鮪や鯨の切り身を油で揚げたカツのほか、大人の握りこぶしほどもある巨大なおにぎりを高菜の葉の漬物で包んだ郷土料理――めはり寿司が広げられていた。
そのめはり寿司を小さな口で豪快に頬張りながら、葵が言う。
「ほら、さっさと食べなさいよ。時間がないんだから」
食事の手を止めていた蓮と慧に対する文句である。
「あ、ごめん」
慌てて蓮も手元のめはり寿司を口へと動かした。
慧も鯨のカツへと箸を伸ばす。
めはり寿司というのは、食べるときに口だけでなく目も大きく張るというところから、そのように呼ばれるのだという。果たして蓮も大きく目を開けてかぶりつくと、もごもごと咀嚼しながら辺りを眺めた。
彼らがいる市場からは、漁港のある入り江がよく見える。
ごつごつとした急峻な岩山に囲まれた地形はどこか窮屈であると同時に、まるで異国のような神秘的な気配があった。このようなリアス式海岸は、故郷でも伊豆半島のほうへ南下していけば同じく見られるのだろうが、やはり一番馴染み深い海――砂川町から望見する駿河湾とはまるっきり異なっていた。
「それで、まだ連絡はないの」
鯨のカツを気に入ったらしい文太が、同じく箸を動かす柚葉へと問いかけている。
「ええ、まったく……しばらくは観光として良いでしょう」
頷く柚葉に、「よしっ」と声を上げるのは葵である。
この日の彼ら一行は、柚葉の……「祓い屋緋崎」としての任務に同行する、というかたちで熊野までやってきていた。
いわく「もの捜し」であるというその任務は、同行者まで含めての交通費や滞在費が経費で与えられるとのことで、――「せっかくの夏休みなのですし、皆で旅行がてらお手伝いしてくださいませんか」――という柚葉の言葉に、青春真っ盛りの高校生たちは一も二もなく頷いたというわけだった。
それも〈緋崎〉の仕事を手伝うということで当初には不安視された葵ですら、むしろ「緋崎の金で豪遊してやる」と鼻息を荒くするほどである。
これは、たしかに未だ〈緋崎〉は気に食わないが、それはそれとして柚葉個人に対しては多少は気を許し始めた……ということなのだろうと、蓮たち男子は分析している。
柚葉も柚葉で、探偵団の面々に対して同じく大分に気を許した様子である。この任務にかこつけた旅行の計画を皆で車座になって相談するなかで、うっすらと口角が上がりすらしていたのは……彼女にとっても無意識の変化であった。
その様子を、ただ彼女の相棒だけが嬉しげに眺めていたのである。
ともあれ、斯様な経緯で彼らは旅行することに相成った。
八月二日――。
午前七時から三浜駅に集合した一行は、そこから新幹線で名古屋駅に向かうと、さらに特急電車へと乗り換える。そのまま目的地まで乗り続け、ついに紀伊勝浦駅で降車したときには午後一時も半を超えていた。
この時点ですでに、あわせて六時間を超える大道程である。
まさに、十代の若さにかまけた旅程であった。
夜は勝浦付近で宿泊する予定――葵の要望により温泉旅館を予約している――だったが、皆で遅い昼食をとっているうちに、未だ昼間であるし、せっかくなのだから今のうちに観光してしまおう――ということになる。
この任務に関して柚葉は「現地に着けばわかる」としか知らされておらず、到着後に改めて詳細を問う連絡をしても未だ返事が無い、という事実も手伝っていた。
「お昼も食べたし、みんな元気あるわよね? あるって言いなさい――よし。それじゃ、熊野古道から歩くわよ!」
元気一杯といった葵の一声により、昼食をとり終えた途端に漁港から駅前へと戻る。
商店街を潜り、駅前に至るとバス停がある。
行先は「那智山」だ。
午後二時二十五分に駅前を出発したバスは、市街を越え、川を越えると、やがて那智湾に背を向けて山路を登ってゆく。
バス停が「大門坂」に至ったところで、一行は下車するのだった。
「朝から座りっぱなしだと、腰が痛えや」
「そんなこと言って、身体はおめーが一番若いじゃねえか」
腰を擦って嘯く文太をからかいながら、バスを追いかけるように歩き出す。
バスの中は満員の観光客で混雑していたが、このバス停で同じように降りたのは、登山ウェアを着込んだ外国旅行者や老夫婦などが数組いるのみだった。
世界遺産と銘打たれた石碑の脇を通る。
やがて石の鳥居をくぐり、橋を渡り、茶屋を過ぎれば、ようやく原始林への入口が姿を見せる。中世の道が密やかに続く、黒々とした深い森――。
道を挟んで屹立する夫婦杉は、さながら門番である。その巨樹の間を抜けて、森の奥へと続く古道に踏み入れば途端、緑の匂いが重々しく胸を衝いた。涼しげな気分だった。
青々とした樹々の合間を縫って、古く敷き詰められた石畳を、ただ木漏れ日だけが照らしている。一面が深く黒い、濃い緑の世界である。
風光明媚と讃えるに足る――。
まるで映画の中の一幕だった。感嘆の声とともに踏み出すと、足元が苔で滑りやすいことに気づく。
歩きづらそうにしながらもわいわいと燥ぐ高校生たちの横を、登山服の旅行者や、歩き慣れた様子の老夫婦などがすいすいと追い抜いていき、気がつけば、彼らが歩いている周囲からはほかに人影が消えていた。
「そういえば」
と蓮がこぼした。
「熊野詣といえば、死者とすれ違うって話があるよね」
「えっ」
文太が肩を揺らす横で、「ああ、たしかに」と慧が頷いた。
続けて「あれは、なぜなんだろう」と蓮が呟けば、
「もともと、熊野っていう地域はあの世に近いんだ」
と述べるのである。
「古代、死者の国……地上のどこかで死後の霊魂が隠る国を、隠国と呼んだわけだけれど、実は熊野も同様の語源だといわれてるのさ。日本書紀で伊弉冉尊が埋葬された場所として熊野の有馬村が挙げられているところからしても、熊野――紀伊山地には神々の隠国があると考えられていたわけだ」
葵もそれに肯いた。
「その古代の熊野信仰が、やがて中世の熊野詣に繋がるわけよ」
「そう、とくに中世には修験道の霊場として大きく発展したわけで。捨身往生なんてことも多かった」
「捨身?」と文太が首を傾げると、そばの柚葉が「誤解を恐れずに言うなら、ようは自殺する修行です」と答える。
「現代の感覚からすると異様だけれど、昔は自殺紛いの苦行をすることで極楽浄土に往生しようとする修行者も少なくなかったんだ。生き埋めや入水、焼身……。例えば、日本霊異記にも熊野山中で捨身した聖の話がある。両足を麻縄で岩に括って、崖から投身して宙吊りになる苦行をしたらしい。――で、そのまま身体が腐って髑髏になった後も、功徳によって舌だけは腐らず、ずっと山中で法華経を誦み続けていた……とかなんとか」
「……それは功徳っていうより、むしろホラーじゃね?」
蓮が突っ込むが、反対意見は出なかった。
「あとは、熊野の浜からは補陀落渡海が行なわれていて、これも入水往生や水葬の歴史だな。ほかにも、熊野の霊鳥――神使として烏がいるけれど。これもミサキ烏と称したことからして、霊魂のとる姿として信仰されていたと考えられている」
情報の嵐に、蓮はなんだか段々と目が回ってきた。
その様子に慧が苦笑する。
「ともあれだ。最初に言ったとおり、熊野は古代からあの世と近い場所として信仰されてきたってわけさ」
言って、足を止めた先には――。
「ほら、着いた」
色々と蘊蓄を聴いているうちに、気がつけば一行は道を登り切り、参道の先までたどり着いていた。
大きな朱色の鳥居が前方に見えている。
熊野那智大社――日本第一大霊験所、根本熊野三所権現である。
○三浜市について
今更な情報であるが、ここで一度言及しておくと、作中世界における三浜市は巨大な政令指定都市であり、現実世界における旧駿東郡全域に三島市などを加えた市域をもっている。
主な舞台となっている赤沼町は裾野市ほか近郊、神南町は三島市、砂川町は沼津市がモデルとなっている。
何故このような面倒な置換を行っているのかについては、あくまで架空の舞台であるとして御放念いただきたい。
(令和五年十月二十八日 加筆修正およびTIPSの追加)
 




