第拾肆話 緋崎(五)
9
慶応四年四月四日――。
江戸の中心区、巨大な城郭のなかへと大量の兵が入城していく。
兵を率いるのは三人の男だ。
東征大総督府、東海道先鋒軍――。
総督、橋本実梁。
副総督、柳原前光。
参謀、西郷隆盛。
天皇を戴く新政府よりの勅使――である。
旧幕府と新政府との政権争いは、先の戦争で以て、すでに大勢が決していた。
勅使を迎えるのは。敗軍である。
玄関前に立ち並ぶ幕府の役人が、彼らに恭しく頭を下げた。
男たちを本丸御殿の奥へと案内していく。
この日、男たちと旧幕府――徳川慶頼らが、大広間にて一堂に会するのだ。
新政府を上座に、旧幕府を下座に据えてのその場において、天皇よりの勅旨が下される。これにより、次々と城から退去が始まる――やがては徳川慶喜の水戸への退去をもって、無血開城と成るのである。
新政府と旧幕府、双方が歩み寄った長い対話の末の、この日であった。
この国の歴史が、ひとつ進むはずの日であった。
その様子を、遠く天守閣の上から眺めているのは剣王鬼である。
誰に咎められるということもなく、悠々と鯱の隣に腰を下ろしている。
本丸を囲むように展開する兵の姿を目で追いながら、彼はただ時を持っていた。
大倭維新会――その企みの始動に先立って、緋崎を名乗る少年が印を放つ算段になっていた。
彼と同じ視界を共有する蓮は、もはや映画を観ている気分である。
それも、教科書の裏で行われていた出来事のノンフィクションフィルムであった。
なにしろ、これから目の前で起こることは、史実に残る江戸城の明け渡し――その裏で、ひと知れず歴史の闇に消えていく事件である。
(わくわくするなァ)
興奮する一方で、蓮は未だにもやもやとする記憶を持て余してもいた。
「物事は、すべて釣り合いで成っている――」
あの日、赤い瞳の少年はそのように語り出した。
「浮世で呪いなぞ弄ぶ我らにとって、人の業ほど面倒なものはない。であれば、善行と悪行は等しく行うべきや。善悪と正邪は釣り合わなくてはならぬ。陰陽だってそうやろう――陽虚すれば陰虚、陰虚すれば陽虚し、陽実すれば陰実、陰実すれば陽実することが道理というものじゃ。人と妖も同様や、天秤は常に釣り合っていなくてはならん――彼奴等の企みは、少々といわず秤の振れが大きいな」
それが緋崎を名乗る少年の言であった。
「不語仙殿も同じ御心かと御推察するが……」
続き、問いかける彼に剣王鬼は「否」と返す。
そのまま歩き出せば、少年は慌てた様子で「此方も準備を整える――時が来れば、印を放つ」と補足した。
だから、少年には聞こえなかったのだろう。
けれど蓮には、同じ身体を共有する彼には聞こえていた。
理由を問われた剣王鬼が、口の中で微かに漏らした言葉。
どこか責任感すら混じった言葉。
「あれは正史ではないからだ」と――。
たしかにそう言ったのである。
(あれは……どういう意味だったんだろう)
正史――蓮にすれば、利き馴染みのない単語である。
素直に語感から推測するならば、正しい歴史だろうか――「正しい歴史」? それでは、まるで「あるべき未来」とでも言うべきものを剣王鬼が知っているかのようだ。
そこまで考えて、「いや――」と思い当たる。
以前に慧から「未来視」について聞き及んでいた。霊視能力の最上級という説明だったが、であるならば剣王鬼が保持していたとしても、さほど不思議ではないのかもしれない。
しかし――そうだとして、あの言葉に仄かに感じ取った責任感は、一体どういうことなのか。
考えども考えども、よくわからない。
蓮がウンウン唸っているうちに、気がつけば夢中の世界は日数を経ていて、ついにこの日に至っていたというわけである。
(まあ、今度直接聞いてみるかあ)
答えてくれる未来はあまり見えないけれど――そんなことを思っていれば、ふと蓮は気がついた。
風が、消えている。
つい先ほどまでびゅうびゅうと耳元で煩かった大気が、今やシンと凪いでいる。
その一方で、遥か頭上では急激に雲が渦を巻き始めていた。
江戸城を囲むように、どんよりと曇る――城郭の上空だけに、やたらと重い雲が集まっている。
昼間なのに、あっという間に夜のような暗さが訪れた。
さすがに蓮も不気味な気配を覚えれば、果たしてぴしゃりと雲海が光り――。
わあああ、と。
異形の軍勢が城郭へと降ってきた。
10
天に渦巻く黒雲のなかから、雷鳴と共に次々に現れるその軍勢は、江戸城のいたるところに降り注いだ。
異形の者共に混じり、所々に覆面の人間も見える。――江戸咒師百家の呪術師だ。
そして、人妖入り乱れたこの集団こそが、七星礼二郎率いる大倭維新会である。
空からの突然の強襲に、城内のあちこちで混乱する気配があった。
――が、揚々とやってきた闖入者たちは、その多くが内郭にすら入れず堀の向こうへと落ちていた。
江戸城に詰めていた陰陽師たち――陰陽寮の呪術師たちが結んでいた結界に弾かれたのである。
混乱する兵士を押しのけて、詰所から飛び出した陰陽師たちが交戦を始めた。それに触発されたのか、一部の侍たちも刀を抜いて走り出す……。
そんな階下の景色を余所に、剣王鬼の視線は真っ直ぐと空から動かなかった。
最初に現れた異形の軍勢の、その先頭を走っていた者共は未だ上空で留まっていたのである。
蓮もまた、そこにいる存在から目を離せなかった。
龍の如き頭部に、鹿のような胴、牛の尾に馬の蹄……。
(き、麒麟だぁッ!!)
覆面の側近たちを従えて、七星礼二郎が天空から江戸城を見下ろしている。
その礼二郎が跨っている怪獣――それはまさしく、神獣とも謳われる麒麟であった。
礼二郎がなにやら命令すると、その雄々しい麒麟がすっと前脚の蹄を踏み鳴らす。
りぃん……と鈴のような音が空に響き、瞬間、怒号が城内で起きた。
強固に張られていたはずの結界が立ち消え、大倭維新会の軍勢が内郭へと踏み入ったのである。
満足そうに頷いた礼二郎を背中に乗せて、そのまま麒麟が天守閣に向かって降りてくる。
堂々と空を歩むその後ろに、しずしずと覆面姿の呪術師と妖怪が十名ばかり付き従う。
それを、腰を下ろしたままに剣王鬼は迎えるのだった。
「お久しゅうございまする」
天守閣の手前、数メートル程度の宙空で足を止めた礼二郎が語り掛ける。
老いてなお精悍な老人はぎらぎらと瞳が野心に輝き、彼の腕の中では抱きかかえられたいつかの子狐が、健気にも毛を逆立てて剣王鬼を威嚇していた。
「流石は不語仙殿だ。ここは特上の席でございますな……」
ちらりと下界の混乱を見やり、
「この国が生まれ変わる時が……再生の時がよくわかる」
にこりと笑んだ。
眼下の霊脈――改めて見るに、やはり一級の霊地である。この場こそ大願成就の祭場にふさわしい……と胸を高鳴らせた。
「今一度問いましょう、不語仙殿――我ら大倭維新会に御助力をいただけますかな」
対する剣王鬼は、ただ静かに瞑目し、深く息を吐くのみだった。
「……然様ですか」
心底に残念だと思っていることが伝わる声音だった。
礼二郎もまた息を吐くと、
「それでは恐縮にございますが、せめて邪魔立てはせぬように――」
そのときである。
ぼっ――と間抜けにも聞こえる音を立てて、彼の周囲に立っていた配下たちの覆面が紅い炎で包まれた。
「なにっ」
振り向いた礼二郎の顔に初めて焦りが浮かんでいた。
炎は瞬く間に覆面から全身へと回り、赤い蛇がとぐろを巻くなかで。側近が次々に消し炭になっていく。
――対魔王のための呪物が、この炎によって破損していく。
「まさか、緋崎殿――」
裏切者の名を叫ぶも、瞬間に麒麟が大きく身を跳ねさせたために途切れる。
剣王鬼の放った剣閃――それが礼二郎の首の皮一枚、まさにぎりぎりのところを掠って過ぎた。
「きゃっ……」
微かな悲鳴を上げて、代わりに子狐が天守閣へと転げ落ちる。
宙に跳び上がった剣王鬼は、そのまま空を蹴って麒麟を追いかける。
一撃、二撃、三撃。
次々に繰り出す白刃を、麒麟が軽やかに――けれど危なげな様子で避けていく。
「不語仙殿っ」
叫んだ礼二郎が呪を放った。
それを斬り捨てたところで、剣王鬼の懐に神速で踏み込むのは麒麟である。
神獣の角と牙、そして蹄による連撃を受けたところで、異変――。
剣王鬼の握る刀が、二本ともに砕け折れる。
(あっ――)
思わず蓮が声を上げたのと同時、天守閣のうえで童女に変化していた子狐もまた、「御館様っ――」と歓声を上げかけた。
――が、しかし。
雷鳴が轟き、世界が白く反転し――
「なんとッ――」
瞬きの後、血を吐いたのは礼二郎であった。
麒麟の首が宙へと跳んで、そこから血の筋を引いているのは、刹那の前まで影も形も無かったはずの剣である。
(うおっ)
と、蓮も驚く。
金銀の装飾が施された、鋭い直刀――白銀に輝く神剣。
蓮が見慣れている剣だった。
「成る程……それが、貴方の……」
刃に刻まれた金の象嵌、その文章を流し見た礼二郎が、吐血とともに薄く笑みを浮かべた。
彼もまた、寸前で身を引いたために辛うじて首は繋がっているものの、首の前面がぱっくりと開いてしまっている。これでは真面に呪術も唱えられぬ――致命傷だ。
「お、御館様っ――そんなっ、礼二郎さまぁっ」
悲壮な叫びが天守閣から放たれた。
童女の声に蓮は思わず胸を痛めるが、剣王鬼はからりとしていて素っ気ない。
その様子に、礼二郎が今度は深い笑みを浮かべる。
「この度の……大倭維新、は……失敗か――まあ、いい」
そして、叫ぶのだ。
「聞けえい、我が朋友たちよ!」
喉から大量の血液が零れ落ちるなか、それを抑えもせずに両腕を広げ、ぎらぎらと輝く瞳で剣王鬼を見つめながら――。
「失敗だ! 遁走せよ! しかし、諦めるな! 私は黄泉返る――我々は、総てに勝利するのだァ!」
あまりの気迫に、びりびりと江戸城が震えるほどだった。
とても喉が開いているとは思えない大音声で絶叫したのち、礼二郎はふらりと後ろへ倒れ、そのまま麒麟の死体とともに眼下へ――内堀のなかへと落水し、沈んでいった。
(う、うわあ、壮絶ぅ……)
蓮がドン引きしながら呟いたところで、
「……許さない」
怨嗟の声だった。
天守閣のうえで、涙に濡れた瞳を黒々と燃やした童女が剣王鬼を睨んでいた。
端正な顔が、激しい憎悪に歪んでいる。
どろどろとした、本物の殺意。
ひゅん、と蓮の肝が冷える――ホラー映画よりも怖い。
「おれは、絶対に……」
睨む妖狐を見下ろす剣王鬼はというと、彼自身は淡々としたものだった。
醒めた眼差しで彼女を見つめている。
(剣王鬼ほどにもなれば、たぶん恨みを買うのも慣れているのだろうな……)
そのように感想を持ったところで、蓮はハッと気がついた。
段々と世界が薄く、遠くなっていく。
夢境からの帰還――目覚めるのだ、と直感した。
(でも、これじゃあ、なんだか後味の悪い終わり方だぜ)
そんな風にぼやく蓮の意識も、段々と覚醒世界へと浮上していくにつれて白く染められていく。
――意識が朦朧としていく最中にも、ずっと童女の憤怒が後を追いかけてくるようだった。
11
「……懐かしい夢を見た」
布団から上体を起こした男が、ひとり呟いた。
老人である。
総髪は真っ白に色が抜け落ち、肌も皺が目立つ――しかし、同年齢の人間と比較すれば天と地ほどに若々しく、精力に溢れた風貌だった。
ふと見やれば、部屋の隅の姿見に映るその瞳は深紅である。
緋崎――。
男は、そう名乗る呪術師一門の、今代の宗主――十六代目であった。
「八代目の記憶……継承が反転したか……」
ハアと息を吐く。
「思えば神統を模した記憶の継承も……やはり甚だ不完全な出来だな」
次いで忌々しげに舌打ちをする。
「……しかし思い返すといえば、つくづく鼎の件は惜しまれる」
億劫そうに掌で瞳を覆う。
「あれは緋崎三百年の集大成、我等の最高傑作だった。ゆくゆくは最新の魔人へと至る筈だったのだ……」
そのまま、しばらくの間を置いて顔を上げる。
「――まあ、よい」
男は息を吐くと、空中に向けて「おい」と声を掛けた。
すれば、忽ちに黒い人型の存在が目前に傅いている。
「回線だ。狗に繋げ」
了承した人型が、どこからともなく受話器のようなものを差し出す。
受け取った男が耳に宛てれば、ひどく畏まった――怯えるような声が耳朶を打った。
若い女の声。
『お、おはようございます……』
早朝である。
つい今に叩き起こされたのだろうに、随分と従順だった。――もちろん、そのように躾けたのだから、当然である。
男は労うこともなく、「次の指令だ」と冷たく言い放つ。
「剣王鬼を連れ、熊野へ向かえ。――重頭馬の秘術を見つけ出し、誰よりも先に回収せよ」
言葉少なに了承する声。
続いて、いくつかの質問。……察しが悪い。
……これが、今の祓い屋緋崎の役である――そう思うと、男は憤懣やるかたない、どうしようもない気持ちになる。
まあ、よい……母胎としては優秀になるよう調整しているのだ――使い道があるのだからと、そう自分を慰めて通話を切った。
第拾肆話 緋崎 /了。
○大倭維新会
現代風に言えば、幕末期に決起したテロリスト集団である。
攘夷開国を目指す「御一新」(維新)が隆盛するなかで、彼らのそれだけでは真なる神武復古、大倭への回帰は為されないと考えた七星礼二郎翁が、七星家をはじめとする傘下の呪術家(江戸咒師百家)と子飼いの妖怪たちを引き連れて立ち上げた組織。
その最初にして最終の計画目標は「真なる維新」あるいは「大倭維新」と称された。
大倭維新計画は、慶応4年(西暦1868年)に行われた江戸城明け渡しの場にて黄泉への道を開き、国土全体へ瘴気と神気を取り戻させるというもの。この一大事業の完遂によって、再び日本国は神国「大日本」へと至るのだと語る。
当時に明治維新を目指した多くの志士たちと同様に、彼もまた彼なりの理念を持った愛国者であり、この活動は彼なりのナショナリズムであった。
しかしながら、その計画は実行されるも成就することなく阻止される。礼二郎は剣王鬼に斬首され、大倭維新会の残党も散り散りに逃亡した事で事件は一旦終息する。




