第拾肆話 緋崎(四)
6
刀の血を払った剣王鬼が、ジ……と瞳を巡らせる。
途端、森閑とする座敷であった。
実際のところは大勢が詰めかけて、ぎゅうぎゅうと狭苦しいほどなのに、物音ひとつ、呼吸の音まで聞こえない。
剣王鬼をぐるりと囲んだ者共が、人妖の区別なく誰ひとりとして動けなかった。
気配さえ失くして微動だにせぬ彼らはまるで樹々のようで、蓮はふと森然たる景色を幻視する――部屋のなかに、冷たい夜露を孕む風の息吹をすら覚える。
否、――錯覚ではなく、本当に風が巻いているのだと少年は遅れて気がついた。
剣王鬼が佇んでいる足元の辺りから、それは何か大きな生物が息をするように脈打って、少しずつ、少しずつ漏れ出ている。
その濃密な気配――鬼気に、周囲の咒師と妖怪はようやく気がついて、揃って恐れ戦いているのだった。
「素晴らしい」
じりじりと闇が深くなり、終には剣王鬼に呑み込まれんとしていた座敷の色が、その一声で切り裂かれた。
「素晴らしい技量だ、不語仙殿」
剣王鬼の闇とは別種の深淵が、人垣の奥で鮮烈に輝きだす。
灼灼たる陰の太陽――。
男が秘める黒曜の魂が、その熾烈な気配を解放していた。
彼の意志に籠る灼熱が座敷中を万遍なく照らし上げ、配下たちの凍った思考を焼き溶かす。
すれば、途端に息を吹き返したように身動ぎする彼らの瞳に、先まで色濃くあったはずの剣王鬼への恐怖は消えていた。
代わりになみなみと光るものは、固く引き絞られた戦意である。
人間も妖怪も、年齢も異形も関係なく、そこには一致団結した組織があった。
大倭維新会――七星礼二郎という稀代のカリスマを頭目として、彼にひたすら心酔した者共が人妖関わらず集ったテロリスト集団、その完成した姿である。
周囲のあまりの変貌に、蓮はぞわぞわとした怖気のようなものを感じるのだった。
そして。
「矢張り――欲しい」
後に蓮が思い返すに、礼二郎のこの言葉が合図になっていたのだろうと思われる。
唐突だった。
剣王鬼が、ふらりとたたらを踏む。
なんとも珍しい、間の抜けた足取り。
「なに……」
訝しげな声が剣王鬼から零れる。
さしもの彼にも予想が及ばない出来事が起きていた――体の自由が、利かない。
溢れ出ていた夜の気配も大きく揺らぎ、座敷の闇色が不安定に移ろい、薄れゆく。
囲む群衆が感嘆の声で騒めいた。
「貴方を知っている――と、私はお伝えした」
見れば、人垣が割れている。
道の奥から、今、老翁がにこやかに歩み寄ろうとしていた。
顔を隠した四人の側近が、その後ろに付き従っている。
「如何でしょう、貴方の為だけに組み上げた呪いです。まさか天魔であろうと逃れられまい……」
遥かにか弱いはずの人間たちによって、今まさに、暦とした魔王が拘束されようとしている――史上稀なる異常事態――。
剣王鬼の判断は早かった。
どういうわけか、彼の強大な呪力が封じられつつある――それならば。
怪異としての異能ではなく、異形としての純粋な身体能力で、彼は結界を突き破ったのである。
彼はただ、床を踏み蹴った。
不自由な足をなんとか操縦して、畳を蹴った……それだけだった。
それだけで、離れ座敷は崩壊した。
爆発音が轟いた後に残るのは、群衆の呆気にとられた声や、軒下に埋められていた呪具が破損する音……。
しかし、それらが剣王鬼の耳に届くことは無かった。
何故ならば、一瞬間の後には彼の姿は屋敷を下に、遠く空中であって――それは音波よりも速かったのである。
7
(う、うおおわあああひょええええええいっ)
蓮は興奮の絶頂にあった。
(つ、ちゅよい……)
いくらなんでも、強すぎる。
うちの魔王様が最強すぎる件について。――思考に変なスラングが混じるほどに、彼は高揚と同時に混乱していた。
慣れない音響で、未だに耳がキンキンしているような気がする。
あれは間違いなくソニックブーム……。
剣王鬼は、生身で音速を超えていた。
(いやあ、そりゃあ創作ではさ、マッハの速度だとかトンの握力だとかは普通に見かけるけれどもさ……え、やっぱ妖怪ってガチに超人なんだあ!)
語尾がふいに高くなっていて、話し方が気持ち悪い。
(本来がこれなら、そりゃあ剣王鬼も僕の体を愚鈍って言うわなあ)
以前に評された言葉に納得する蓮である。
日々進行する剣王鬼の侵蝕によって、現在は彼の身体能力もだいぶ人間離れしてきていたが、さすがに音速を超えるようなことはない。
(いずれは僕も音を置き去りにするのだろうか……)
期待でどきどきしている蓮を余所に、剣王鬼――の記憶に沿って動く体――は、どこか隘路を歩いていた。
大通りの雑踏からは離れた、あばら家のような家並みが続く道である。
先より剣王鬼の夢と深く同調している蓮には、なんとなく薄らとだが、当時に彼の考えていたことがわかる。
剣王鬼は思惟していた。
――あの呪術、果たしていかなる絡繰りで編まれたものだったのか。
文字通りの力づくで突破できたくせに、剣王鬼は礼二郎による結界……彼の呪力を封じにかかった呪術の正体を、先ほどからずっと推理している。
これに蓮は驚く。
(ううん、意外だ)
剣王鬼は、非常に慎重だった。
その在り方は、ともすれば臆病とすら言ってよい。
勿論、自身の能力に対して相応の自信を持っているので、――蓮は未だ知らない背景だが――彼は配下がいるにも関わらず、ふらふらと単身で行動する。
経験的に、何が起ころうとも自分ひとりで事は足りる――と、そう思っているからであるし、大抵においては事実その通りだからである。
そうしていると自然、彼の行動は傍から見て大胆に映る。
ところがそれは、すべてが想定内の世界だからである。対処できると判り切っているので、動じないだけ……。
仮に想定外の事態が起きたときには、彼はまず立ち止まるのだ。
そこに僅かでも未知があるならば、観察し、既知にすることを優先する。
……生物として至極当然の思考であるが、故にこそ蓮は驚きを覚えたのだった。
この精神構造は、ある事実を示唆していた。
すなわち――剣王鬼が、最初は弱かったという事実である。
何故なら始原からの強者であったならば、このような臆病さは持つはずが無いからだ。
これはまさしく――弱者から強者へと、その成長を経験したが故の精神構造に相違あるまい。
(最強系かと思っていたけど、努力系だったか……)
変な感心の仕方をする蓮である。
同時に、少年は剣王鬼に対する理解を深めていく。
魔王と称されるほどに強大な存在である彼は、しかし大胆不敵に見えて、その実はまず生存すること――生き延びることを第一に据えている。
それは、いつかの異界でも蓮が感じたことだった。
強力無比な妖怪であるくせに、その根幹にどこか人間臭さのようなものを覚えるのである。
この最も近しい隣人に対し、改めて
(不思議だなあ)
と蓮は思う。
先程の件だって、結局のところは結界を力技で崩せたのだから、そのまま圧倒できただろうにと彼は思う。
だけれど、ひとつ未知があった以上はふたつめ以降もあるかもしれない――そんなもしもを警戒して、剣王鬼は退いたのである。
どちらが正しいのかだなんてことは、経験の浅い蓮にはわからない。
だから、ただただ(不思議だなあ)と思うのだった。
8
猥雑な路地を歩いていた剣王鬼が、ふと足を止めた。
すっと横を向いて、日陰になっている横道に問いかける。
「何用か」
(えっ)
蓮も慌てて目を凝らすが、そこにはただ暗がりがあるようにしか映らない。
しかし数秒も置かずに、その薄闇から声が返ってくるのである。
「――いやはや、儂の隠形を見破るとはのう。流石は不語仙殿やなあ」
隘路の奥から幽霊のように音もなく姿を現したのは、果たして緋崎少年だった。
これには蓮もぎょっとした。
なにしろ先程まで彼と、そして剣王鬼がいた咒師百家の道場――そこは、ここから数十キロメートルは離れた場所にあるのである。
空を跳んだ剣王鬼はともかくとして、まさか普通の人間がどのような神速でもって追いついたというのだろうか。
緋崎少年は、相変わらずにこにこと邪気の無さそうな笑顔である。
親しみに溢れた声音で、
「先刻の術破りも、ほんに大したものやった」
なぞと褒めてくる。
蓮はすっかりと警戒心露わにこの少年を眺めていたが、剣王鬼はというと平淡な態度だった。
「然様か」
相槌を打てば、すすっと少年が肩を寄せてくる。
「そこで、魔王陛下に折り入ってご相談があるのじゃが……」
口振りこそ謙るようなものであるが、その様子からは、およそ恐れというものを感じられない。
胡散臭い男だ、と蓮は思った。
だいいちこの少年は、先程に剣王鬼を売っている。
今更に何を言うことがあるのか。
「大倭維新会――」
その単語に(やっぱりな)と蓮が思う。
すれば、にっこりと細められていた美少年の瞳が、さらに細く鋭くなる。
「彼奴等の企み、阻むんやろう?――どうじゃ、儂も仲間に入れてくれんかの」
一拍置いて。
(……ええ?)
蓮は困惑に支配された。
 




