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物怪伝 鬼の章  作者: 犬尾南北
大倭篇

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第拾肆話 緋崎(二)




        2




 声を掛けてきた少年と共に川端を歩いている。

 祓い屋緋崎……と名乗った彼を横目で観察しながら、蓮は頭を働かせる。


(たしか剣王鬼には緋崎家と関係があるかのような節があった……やっぱり、ここは剣王鬼の記憶で間違いなさそうだ。――よしっ、そうであると決まったからには、最も近しい隣人の秘密をとことん漁ってやろうじゃないか)


 野次馬根性に染まった好奇心を全開にそんなことを思いながら、語り掛けられる言葉に耳を傾ける。

 なんと幸いなことに蓮の知る――柚葉と異なって、隣の緋崎はよく口の回る男だった。


「七星家といえば、最近どうにも羽振りが良いと聞く。これもやはり、噂の傑物が為せることやろうか。かつては凡百の一家でしかなかった七星が、今や数十の家を傘下に江戸咒師百家なぞと嘯いておる。彼の御仁が家督を継いでより、ここまで凡そ三十余年……院内いんないなぞ掃いて捨てるほど溢れる大江戸で、こりゃあ、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いじゃ。家門拡大のその秘訣、七星の麒麟児には是非とも御教示願いたいもんや」


 ぺらぺらと話す少年が、ちらりと目を向けてくる。


「やはり殿も、儂と同じ狙いかな」


 その問いに対して蓮がうんともすんとも答えられずにいれば、しかし彼は数拍置いて「成る程やなあ」となどと納得した様子で頷いた。


「ならば、このことはご存知か。巷の風聞によれば……」


 先から蓮は黙ったままであるというのに、けれど二人の間でまるで会話が成立しているかのように振る舞う少年に彼は密かに息を吐く。


 ――いや、事実、少年には受け答えが聞こえているのだろう。


 ただ、それが蓮には聞こえない――それだけで。

 ……つまりこれが、改めて「此処は記憶の世界だ」と確信するに至った事象の一つである。

 どうにも蓮は剣王鬼の夢境に這入り込んだようではあるが、以前に柚葉のもので体験した際のように自由勝手に行動することは出来ないようなのだった。

 剣王鬼が見聞きした範囲の光景を追体験する――その程度の世界であり、その記憶から外れる言動は大抵が実を結ばない。例えば景観として配置された桶の水を覗き込むことは可能でも、そこらを歩く通行人に話しかけようが反応は返ってこない。剣王鬼が実際に話しかけた記憶が無いからだ。……そして逆に剣王鬼が関わった人間であったとしても、現に隣を歩く緋崎少年は蓮の声には反応せず、蓮には聞こえぬ剣王鬼の言葉に返答する。


 なんとも不自由極まりない場所だった。


 柚葉の夢境とのこの差異は、人間と妖怪との違いだろうか……あるいは存在としての格差に由来するものなのか。

 色々と原因を考えつつも、然程の時を置かずに「まあ、これはこれで楽ではある」と蓮は結論していた。

 なにしろ、つまりは蓮があれこれと悩まずとも、勝手に周囲の状況が剣王鬼の足跡を辿ってくれるというわけである。

 蓮はただ気楽に眺めていさえすればいい。彼は、ある程度には不自由さを楽しむことを知っていた。


「ほら、あの橋や」


 前方に見えてきた木橋を指さして、緋崎少年が言う。


「あすこを越えれば、すぐに七星門下……咒師百家の道場じゃ。其処で今日はなにやら講釈ときごとがあるだとか」


 剣王鬼がなにか反応したのだろう、「そうやろう、不語仙ふごせん殿も気になるやろ」と少年は笑う。

 先程から少年が繰り返す「不語仙」の呼び名も、気がつけば蓮の与り知らぬうちに定まっていたもので、「雅な号じゃなあ」と述べていたことからして剣王鬼が名乗った偽名である。

 しばらくして、二人は橋を渡ると屋敷風の門構えが続く町へと入っていく。

 どこか寂れた印象の道を奥へと進む。

 付近の様子をそぞろに眺め、ふと蓮は昼間のベッドタウン……といった印象を得る。

 そのうちに、ある屋敷の前で緋崎少年が足を止めた。


「ここやな」


 そう言うなり、声を張り上げる。


「もし! 何方か御座らんか!」


 途端、閉じられた門扉の向こう、庭先の辺りから僅かな声が漏れてくる。

 ごたごたと人が行き交う物音……。

 どうもその屋敷は周辺と異なって、昼間でも大勢の人間が詰めている気配があった。

 しばしあって、ごとり、と門のすぐ内側に音が立つ。


「何方様か」


 若い男の声に、緋崎少年も落ち着いた声音で返す。


「儂は緋崎、祓い屋緋崎……諸国で呪いをする者じゃ。其方は音に聞く江戸咒師百家の道場やろう。彼の宗家・七星翁が演説されると耳に挟みましてな……儂等も是非とも拝聴させていただきたく参った次第」


 やや沈黙を挟んでから、


「何方様からの御紹介で」

熊野くまの道人どうじん重頭馬えずま水空すいくう殿や」


 間髪入れずに答えた少年には、蓮の目から見て嘘を吐いている様子は微塵もなかった。実際に彼は紹介を得てこの屋敷に赴いたのだろう。……剣王鬼は、ちゃっかりとそれに便乗する形になっている。


(ぬらりひょんか何かかな)


 扉の開いた門を緋崎少年に続いて潜りながら、蓮はそんなくだらないことを考える。


「御館様の演説は一刻もすれば始まりまする。場所は離れです、御案内しましょう……」


 再び閂を掛けた男が、緋崎少年の背負う笈や蓮の腰の刀などをじろじろと眺めながらそう言った。

 歳の頃は二十代前半だろう彼は、けれどぴくりともせぬ愛想の無さからか多少老けて見えた。この男も七星門下の呪術師というわけか。

 蓮たちは顔を見合わせると、さっさと背を向ける男を追いかけた。




        3




 屋敷の庭先の離れ座敷へと案内されて入れば、そこにはすでに四五十人ほどの人間が詰めていた。

 襖を取って二室を繋げた長方形の座敷に、どことなく由緒不明の熱気が燻っている。

 部屋の後方の隅に辛うじて座れる場所を見繕うと、蓮と緋崎少年はそっと其処に腰を下ろした。

 周囲に座っている人間は、見たところ過半数が若い男であった。皆が皆、なにやら重々しそうな顔つきでこそこそと会話している。

 蓮の隣の少年は、それらの様子に目を細めると、


「盛況じゃな」


 そっと呟くなり、「もし」と近傍の男たちに声を掛けた。

 少年らしさの残る、朗らかで溌剌とした声音である。


「こりゃあ、もしや咒師百家の御歴々が揃っておるのかの」


 二三人で会話していた男が振り返り、胡乱げに少年と蓮とを眺める。

 この離れ座敷までを案内した男と凡そ変わらぬ年齢に見えた。


「なんじゃ、ぬしらは余所者か」

「儂は祓い屋緋崎、諸国を歩くが常なんやが、熊野の重頭馬先生から紹介を頂きましてな」

「重頭馬……聞いたことがあるな、道術の家だったか」


 男は顎を擦って頷くと、その瞳から警戒の色が若干薄れる。

 その隙を見逃さずに緋崎少年が問いかけた。


「本日は彼の七星翁がなにやら演説くださるということじゃが」


 嗚呼と男が膝を打つ。


「ぬしらは運が良い。なにしろ今日は特別じゃ」

「特別?」


 蓮が口を挟んだが、それが聞こえぬ彼らは言葉を続ける。


「御館様の御話をよくよく聴くことだ。すれば、ぬしらも我ら百家に成れるかもしれんぞ……」


 上機嫌にそう語る男に、愛想のよい笑顔で緋崎少年が相槌を打つ。

 そこから先の話は男の身の上の自慢話と、そして「御館様」と称される男に対する賛歌に終始した。

 男の名は正吾しょうごといった。

 江戸に限らず全国無数に溢れかえる弱小無名な呪術家のひとつ、箸にも棒にも掛からぬ一家「水土みずと」に生まれた男だった。

 水土家は土御門家から許状を受ける陰陽師であったが、その歴史は浅く、正吾でようやく三代目である。

 だいいち許状なぞは金銭さえ払えば、大抵の呪い師は授受できる代物であるから、それがすなわち権威と結びつくことは稀だった。水土の家も、地縁の顧客こそいるものの、代々吹けば飛ぶような素寒貧ぶりである。

 長子として家を継がなければならぬ正吾には、それが我慢ならなかった。

 その日暮らしを諦観と共に受け入れている老父と異なって、若い彼には腹の底から尽きず湧きだす熱意とそして野心があった。


 おれがこの家を大きくしてみせる――。


 斯様な想いを抱え、彼は随分と努力した。

 家に金が無いのは呪術師としての能力が低いからだと考え、幼いときから修行を欠かさぬ日はなかったし、長じて家督を継いでからは、新たな顧客を獲得するための方策を次々に考えては実行した。

 どんな仄暗い仕事でも請け負い、家の為になることはなんでもした。とにかくひたすらに、方々へと手を尽くした。

 しかし、それでも――男の家が裕福になることはなかった。

 もちろん多少の蓄えは出来た。――が、それだけだった。

 名の知れた呪術家どころか、そこらに転がる三流の商家と比べてなお、雀の涙程度の財産だった。


 やはり世の成功者とは生まれで決まるものなのか……。


 とうとう正吾の心中も、父同様にそのような諦観で包まれるようになった。

 そんなときだった。

 曇天のなかでふと一筋の陽光が差すように、彼に掛けられた声があった。


 ――我等でひとつの家門とならないか。


 その声の主こそが、今や江戸咒師百家が宗家を名乗る――、彼ら百家成員が心服してやまない「御館様」――七星礼二郎である。


 彼は正吾の水土家のようなうだつの上がらない三流呪術家、江戸中に散在するそれらの家を束ね上げ、ひとつの組織――「江戸咒師百家」として再編しようと考えていた。

 この礼二郎の提唱した「江戸咒師百家」構想とは、べつにいわゆる職能互助組織というわけではない。

 七星家を頂点として、百家と称される呪術家が下につく……明確な臣従関係をもつ、そんな武家にも似た制度をとった。


 おれの下につけ――というわけである。


 もちろん提案を拒む家も、反発する家もあった。

 けれど、水土家を含む多くの家は――すでに家督を継いでいる若者たちは、この提案に底知れぬ魅力を感じずにはいられなかった。


 これが、ほかならぬ七星礼二郎により齎された提案だったからである。


 礼二郎の生家である七星家――今でこそ中堅の陰陽家として地位を確立させているこの家もまた、ほんの三十数年前までは彼らと何も変わらぬ無名だったのだ。

 遡ること四十八年前、江戸の片隅で細々と退魔や占いをして食いつないでいたこの一族に、礼二郎という麒麟児が産まれたこと――それだけが七星家の未来を他家から別けた要因である。

 文政ぶんせい三年の冬至に出生したとき、彼は双子だった。

 この時代、双生児であることは忌まれる事柄であったが、先に頭を出した兄のほうが死産だったため、そのこと自体は大した問題にはならなかった。

 話題になったのは、残った弟のほう――この生児がもつ、生まれながらの霊質であった。

 魂の輝きとも称されることがあるそれは、呪術師としての行く末を決定づける重要な素質である。

 礼二郎のもつそれは――あまりにも、眩かった。

 通常、魂とは精神と共に成長していくものであるが、彼の魂はこのときすでに生後間もない嬰児だとは思えぬほどに力強かった。

 さすがに大人同然とはいかずとも、物心ついた子供二人分程度には大きく肥えていたのだ。

 この子はひとりで兄の分まで才を持っているに違いない――生まれながらにして天に選ばれた人間なのだ――家中ではそのように語られることになった。


 そして果たして――礼二郎は、まさしく神童であった。


 齢一つで言葉を覚え、二つで文字を、三つで呪術をすら解したとされる。

 人並み外れて才能に富んだ礼二郎は瞬く間に一族の希望の光となり、十八歳で家督を継ぐと破竹の勢いで家門を拡大させていった。

 みるみるうちに力をつけていった七星家は、ついにこうして他の呪術家すら傘下に呑み込もうというのである。


 ――しかしながら、それは同時にこの稀代の男の庇護を得るということでもあった。


 その事実は、ただひたすらに、正吾ら若き当主の胸を衝いた。

 自分たちがどれほど努めても成し得ぬ偉業を、たった一代で完遂し、そして今なお前へと邁進する礼二郎の姿勢は、深く熱い羨望と、なにより青く純粋な尊敬を持たずにはいられなかったのである。

 加えて、赤児のころですら家人の目を灼いた礼二郎の魂は、長じた今では、もはや陰の太陽がごとく輝いている――。

 黒曜こくようの魂……それは直視できぬほどの光であり、そもそも一目すれば心服は免れないのだと正吾は述懐する。


 若者が一人頷けば、後は早かった。

 同様の背景を持つ男たちが次々に加盟を表明していき、かくして江戸咒師百家――その外郭が出来上がる。

 それが三年前だった。

 百家として七星家の傘下にくだった家は、今や五十を数えていた。

 これに加わらなかった呪術家――とりわけ元からの名家である家々は、ただ三流の家が集まっただけの烏合の衆――そのように彼らを評しているのだが、それは実態を知らぬ空事であった。

 明らかな事実として、百家は総じて三年前よりも豊かになっていた。


 そしてやはり、それはすべて彼らの戴く御館様――礼二郎の手腕である。


 礼二郎は、ともすれば三々五々に空中分解する危険があった彼ら数多の呪術家を、実に効率よく統制した。

 その指示に従っているうちに、気がつけば、彼らはそれまであったはずの個々の家々の垣根を越えて、百家という集団として協働し、支え合う関係に纏まっていた。

 自らも知らぬ間に一体となった彼らは、やがて江戸中にその根を下ろす一大組織として密かに完成を迎えつつある……。


 ――そのような背景を、男と緋崎少年との会話から窺い知る蓮だった。

 この夢境の記憶にて剣王鬼がひとまず目的としている人物が、先ほどから話中にでてくる七星礼二郎なのだろう、とようやく知ることになる。


「それにしても……どんなひとか、ちょっと想像できないなあ」


 呟く蓮は悩むように首を傾げた。

 なにしろ後半の話題になった途端、わらわらと周りの人間も顔を出して、口々に「御館様は素晴らしい」と語りだしたのである。

 さながらそれは、餌に群がる蟻の如く……一挙に湧いた。

 その様子は平成の時代に生まれ、誰かに心酔する――だとか、臣従する――だとかいう感覚を見知らぬ蓮からすると、どこか異様な光景に映るものである。

 偏見ではあるが、まるでカルト的な新興宗教の集会場にでも紛れ込んでしまったかのような――まさしく場違い、そんな悪寒すら覚えた。

 しかし、その渦中にあるはずの緋崎少年はというと、ずっと崩れることのない笑顔で頷きを返している。

 傍から見るぶんには変わらぬ自然体で、まるで無理をしている風ではない。


「おそろしくコミュ強だ」


 宗像さんとはだいぶ違うや……と呟くと、彼らから一歩引いている蓮は、改めて周りをきょろきょろと見回すのだった。

 そのまましばらく待っていると、やがて座敷の前方で襖が開く。


 ――瞬間。あれほど室内に立ち込めていた騒めきが、波の引くようにして治まった。


 大勢の瞳が其方へと向き直る。

 戸を開いたのは十歳程度の少女だった。

 彼女はぺこりと頭を下げると、戸を開き切って横へと控える。


 すっ――と、その奥から一人の老人が現れた。


 歳にして五十を越えるか否かの頃合いか、白髪を後ろで束ねた男は老いてなお精悍な顔つきの美丈夫であった。

 纏う黒衣には彼の家紋であろう、七曜紋が白く染め抜かれている。

 彼が入室したその途端、座敷の空気が一挙に変わる。

 熱で満ちた――と蓮は肌で感じていた。周囲の人々が先刻からずっと抱えていた熱情が、男を目にしてさらに激しく燃え上がっているのだ。

 一度閉じた口が再び開いて、口々に「御館様」だとか「七星翁」、「黒曜様」などの名で讃えている。

 蓮の視線もまた、老人が姿を見せたそのときから自然と吸い込まれ、今も外せずにその姿を追っている。


(すごい存在感だ……)


 騒めきの中で目を丸くする蓮を余所に、座敷の前方で座布団に腰を下ろした老人が片手を挙げて彼らを制した。


「我が同志たちよ、よくぞ集まってくれた。私の声に応えてくれた貴君らに感謝する。江戸咒師百家が宗家、七星礼二郎である」


 静かな声音と視線で、座敷に詰める顔ぶれを眺める。

 そんな彼には、対にして五十を越える熱い眼差しが三方より注がれている。


「さて……諸兄が御存知の通り、御国は今大きく揺れている。人心が幕府から御門に還り向き、神武復古の時が来たという。世間は御一新なぞと標榜する輩で溢れているが……されど我々はそこに、ある疑問を抱かざるを得ない。確認しなければならぬ――そこで私は、先日にみやこへ赴いた」


 じっと老人の瞳が周囲のそれを見つめ返す。


「我らが天皇命すめらみことへ拝する機を得たのだ……」


 座敷中から「おお」と感嘆の声が漏れた。

 老人は瞑目すると吐息し、「そして私は確信した」と呟いて、


「――()()()()()()()()()()()()()()


 開いたその瞳は、ひどく冷たい炎で揺れていた。

 天皇を指して「あれ」と吐き捨てたその迫力に、数多の人間が息を呑む。


「神力も記憶も……無き只人よ。あれを天に据えたとて、それは大倭の形骸に過ぎん。神武復古なぞとは到底言えぬまやかしよ。人が人を統べる限り、浮世に過ちはけして消え去りはしないのだ」

「では、如何すれば宜しいのか」


 聴衆の一人が問えば、礼二郎翁は鷹揚に頷いた。


「そも、この国は今。国という體に流れるが枯れている」


 問いかけた若い男の瞳を覗き込み、彼は言う。


「我々は知っている。人の影があやかしで、人の鏡が神であり――神の在る地が国である。されどいま、この国を見るがいい。地は揺れ、海は荒れ、風が家を壊す。確認するまでも無かった筈だ……ずっと以前から天皇は神力を闕失している」


 語り掛けられる青年は魅入られたように固まっていた。瞬きすらせずに、ひたすら礼二郎の顔を見つめ返している。

 ――否、彼だけではなかった。

 知らぬうちに、座敷中の人間が翁の顔を食い入るように見つめている。

 それは蓮も例外ではなく、静寂のなかまったく目を離すことが出来ないでいた。

 まるで老人の瞳が底無しの引力を放っているかのようだった。その黒曜石のような輝きの奥に、紅い星々が散り煌めく白昼夢さえ覚えた。


「我等の内からも見鬼は減る一方だ。精霊は数多が姿を薄め、神霊も妖怪も衰弱の一途である」


 礼二郎がすっと掌を向けると、座敷の隅から先程の少女がおずおずと寄っていく。

 その頭頂に手を置いて、老人はゆっくりと撫で始めた。

 少女は吃驚とした顔をするも、次第に気持ちよさそうに目を細め、……やがて髪の合間からぴょんと。着物の裾からが現れ、ぐったりと身を伸ばし始めればみるみるうちに縮まって、気がつけば撫でられているのは一匹の子狐だった。


「見給え、かつては野山のあらゆる獣が持っていたはずの力だが……しかし今や変化へんげするのはごく少数に過ぎない」


 穏やかに狐を眺めながら、


「実に――憐れだと思わないかね」


 零れる声音は氷のように冷たかった。


「人も獣も、妖も神も……力を失い続けることが正しい道理な訳があるまい……故にこの国はいま、血が枯れている――」


 老翁が貌を上げれば、瞬間、聴衆たちは雷に打たれたように身を震わせた。


「血を取り戻すために、誰かが――否、我々が立ち上がらなければならない……」


 やおら腰を上げた礼二郎がそう続ける。

 そのままぐるりと周囲を睨みつけ、途端、年齢を感じさせぬ覇気を湛えて怒鳴る。


まつりごとかたちを改めるだけでは足りぬのだ! 皇が、国が、我々の総てが本質を取り戻さなければならぬのだ!」


 一拍の間を置いて、座敷中が野太い声で爆発した。

 男たちが口々に「応!」と叫んで、飛び上がるように起立する。


「我々が為すべきは真なる維新――大倭維新やまといしんである」


 一転して声音を落ち着かせると、礼二郎は鋭い眼差しで彼らの顔を見つめていく。


「巷に聞けば、近く幕府が江戸城の明け渡しをするという。時代の節目だなぞと騒いでおる……丁度よかろう。我々も其処に参列しようではないか。真実が見えぬ愚物どもの目を醒まさせるのだ――そうとも。我々が其処で黄泉への道を開いてやろう。旧き道を通じて、国土全体へ瘴気と神気を取り戻させる……」


 騒いでいた男たちは口を閉じ、誰もが一言も聞き漏らすまいと耳を澄ましている。

 もはや場に居る人間のほぼすべてがこの老人ただひとりに心酔していた。


「失った血を戻すことで、人を――、獣を――、妖を――、神を――、全ての真実を回帰する。――この一大事業の完遂によって、我が国は再び神国大日本おおやまとへと至るのだ」


 感激した声で震える座敷のなかで、蓮と緋崎少年の二人だけが人影に隠れて隅で座り込んでいた。


(えっと、つまり……)


 急転直下の座敷の様子に呆気にとられていた蓮の頭がようやく回り出し、漏れ聞こえてきていた情報を彼なりに整理していく。

 江戸城の明け渡し……は歴史の授業で習ったはずだ。たしか幕府側と新政府側との交渉の場で、そこで横槍を入れるということは……。

 数秒経って、理解が追いついた。


「テロリストじゃねえか!」


 他人には聞こえぬ渾身の叫びが響き渡った。



(四年八月三十日、後半に加筆)

(四年九月二十六日、加筆)

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