第拾肆話 緋崎(一)
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時は慶応四年――。
冷たく宵闇に沈む山中を、ひとり登る影があった。
齢にして三十を迎える男が、灯りも持たずに道なき道を往く。
時勢を映したかのような天は重く曇って月は無い。
夜の向こうで遠く獣の声が響いている。
春の終わり――弥生の夜暗は肌寒く、首元を撫ぜる風に彼はぶるりと身を震わせた。
――と、次の瞬間には瞠目、叱喝した。
「懺悔、懺悔、六根清浄……」
吠えるように唱えて、足袋で草を踏みしめる。
次いで握る錫杖が金の音を荒々しく鳴らすのだった。
額には頭襟、身を包むのは白装束の上に鈴懸と結袈裟、腰には法螺貝、背には笈……山伏が如き出で立ちの男は、事実修験の者である。
もっとも、己の本分は別であるが――。
心中で呟いて、男は前を睨む。
のっぺりとした暗幕のなか、薄らと不明瞭な輪郭が光る。
翡翠色に輝くそれが、男の視界を彩る灯である。
疎らに漂う精霊たちが照らす道行を、彼は慎重に進んでいった。
――折り入って頼みたいことがある。
幾日か前に掛けられた言葉が、脳裏に過ぎる。
――夜の山を知る君にこそ、是非願いたい……。
主君と仰ぐ老人に掛けられたその声が、甘い響きを伴って未だ彼の脳髄を浸していた。
強面の男の口元が、知らず上向きに歪む。
優越感と使命感、そして陶酔に塗れた笑みだった。
老人の願いを快諾した男は、その日のうちに江戸を出た。――それから五日、男は伊豆の下田街道は天城峠から道を外れると、山仕事のほかには余人の滅多に立ち入らぬ東の深山へと踏み込むに至る。
「懺悔、懺悔、六根清浄……」
身体の内外へと入り込もうとする寒気と邪気とを祓うように唱えながら、常人には一歩先すら見通せぬ闇の中を、森の奥へ奥へと進んでゆく。
男は思う。
そう、――邪気である。
夕の暮れに峠を越えた彼は、しかし幾許も歩かぬうちにその事実に気がついた。
この山は――夜が深い。
黒々とした闇色は、けれど尋常な宵闇よりもなお濃く暗く――男の研ぎ澄まされた感覚が、その奥に確かに漂う神代の匂いを嗅ぎ取っていた。
(当たりだ)
歓喜の声が胸中に溢れる。
これで男は、少なくとも依頼の半分は達成することが確定したのである。
勢い新たに森を潜ってゆくと、やがて彼の前で木々が開けた。
視界のなか霊視された精霊によって、一帯に広がる静かな水面が仄かに浮き上がる。
麓で聞き及んだところでは全周で八丁だと称される巨大な池である。
その池の直中に、遠く小島があるのが見えた。
男は真っ直ぐに島を見つめる……あそこに古い祠があるはずだ。
「着いたか……」
誰に言うともなく呟いて、そして水面を覗けるところまで歩みを進めようとし、――寸前で止めた。
男の喉元へ対の白刃が音もなく添えられていた。
「何奴か」
「何用か」
刀を握る異形の影が、男の左右で順に問いかける。
固まる彼は喉を鳴らすと、それらの存在を横目で確認する。
――天狗である。
猟師のような格好をした美丈夫が二人――けれどその瞳は闇の中にあってなお黄色く輝く猛禽類のもので、背中には鷲の如き翼が畳まれていた。
「重ねて問う――何奴か」
「――何用か」
交互に問いかける天狗は静かな声音であったが、有無を言わさぬ迫力があった。
男の口は知らず知らずのうちに答えていた。
「そ、某は……江戸咒師百家が宗家、七星礼二郎翁が使者……役太夫……」
そこまで語ると唾を呑み、今度は自分の意思で言葉を続ける。
「此方が霊峰に坐す天城王に御目通り願いたい……」
果たして最後まで聞き届けた天狗は、途端に剣呑な気配を強めた。
「ならん、ならん――」
「我等が主はお忙しい――」
目を細める天狗たちに「そこを……何卒御頼み申す」と食い下がる役太夫であるが、異形の二人は頑なに首を縦に振らぬ。終いに、これでは己の首が断たれてしまう――その危険を予知した男は問答を諦めた。
仕方がない、ここは用件だけ伝えて退こう……そのように考えたそのときだった。
「――聞こうではないか」
声が、響いた。
「は……」
すれば瞬きの間に、男の喉元から刃が消えている。――刀を納めた天狗が二人、池の奥へと向いて膝をつき平伏しているのである。
池の奥では闇が深くなっていた。
精霊の明かりさえ呑み込むほどの濃密な夜が、目指していた島の辺りから一挙に涌き出ているかのように見えた。
夜を纏う何者かが――そこに居る。
数拍置いて、正気を取り戻した役太夫は慌てて腰を落とす。左右の天狗と同様に両膝をつき、掌を前へと置いて低頭する。
「れ、霊峰天城連山が主……古き夜の王……妖仙天城真君と御見受け致しまする……」
彼は震えそうになる声を懸命に抑えた――配下の天狗なぞとは比べようもない強大な妖気が池の向こうに座している。
「――して、用向きは」
促す声に息を呑むと、
「恐れ多くも申し上げます……我等は大倭維新会……真に憂国する者共で御座います」
ちらりと視線だけ前方に投げるが、暗黒に浸る深淵は沈黙をもって続きを許す。
「昨今の御国は荒れ果てております……人心は乱れ、侍はさぶらわず、御門は神力を闕失し……異国に政が左右されるという弱体の始末……」
男は懸命に声を張り上げようとするも、発声する端から闇の静寂に溶けていく……気づけば彼は、まるで大きな洞の奥にでも言葉を投げているかのような虚無感を覚えていた。
「我々は真なる復古を遂げんとする有志で御座います……この大倭を本来の在るべき姿に取り戻す……斯様な計画が御座いますれば……真君におかれましても、是非とも御参集を願いたく……」
ひとわたり語って言葉を切る。
一拍の間が空いて、闇の向こうから問いが投げられた。
「――然様な俗事、何故この我に聞かさんとするのか」
老爺のような青年のような不可思議な音は、冷たい響きで以て役太夫の心臓をざわりと撫ぜた。
瞬間、厭でも気がつく――己はこの妖王に、不快を与えたのやもしれぬ。両脇に控えている天狗たちが、地を這う虫けらを眺めるが如き視線を向けてくるのが肌でわかる。
役太夫は一層に平伏すると、慌てて言葉を紡ぐ。
周囲の闇がじりじりと濃くなっていくのを感じながら、必死で主君からの伝言を叫んだ。
「我等が主は仰ったのです!……真君なくして神武復古は成し得ない!――かつて棟梁臣と称されし王よ!……真君こそは誠に憂国の徒であると――」
――途端、男を囲んでいた闇が侵攻を停止した。
それどころか、地に伏せた目の先、両手の合間の草地を白銀の輝きが照らしていく……。
気がつけば遠く前方で響くのは哄笑だった。
「はっはっはっは……」
堪らず顔を上げた役太夫は、そして天より漏れくる月光の底、島の祠に腰掛けている怪老を見るのである。
「はっはっはっは……」
不気味な笑い声を上げているのは、白く輝く衣を纏った老人である。身を包むものはどこか神官の法衣を偲ばせるが、しかしその肌は墨よりなお黒く濃く――白く蓄えられた髭と眉、それらに飾られた顔で一際妖しく輝く両の瞳は血よりも鮮やかな深紅である――。
妖仙だ――その姿を一目して、役太夫は相対する存在を改めて理解した。
一頻りに笑った怪老は、「さて――」と息を継ぐ。
「古事を知っておろうが、興が乗らん事に変わりない――疾くと去れ」
すでに笑みの欠片も残らぬ彼が、間抜けに頭を上げる男を見下ろすのである。
細められた瞳が紅く輝いた。
只人の心胆を寒からしめるに余りある鬼気――濃密なそれが、瞬間に空間を塗り潰していく。
「し、失礼仕るっ……」
魔王と、そして側近たちの敵意を敏感に感じ取った男は、おざなりな礼だけ残すと脱兎の如く逃げ出した。
夜の森を麓へと真っ直ぐに駆けていく背が、やがて木々に隠れて消え去った。
「……無礼千万な男ですな」
「遁走にも品が無い……追いましょうか」
残った天狗がふたり、眉を顰めて森を見やる。
「要らぬ、要らぬ、捨て置けよ……」
言う妖仙が、古き祠から草地に降りた。
纏う衣がふわりと舞って――内の肌が夜の闇に白く映えた。黒木を削った翁の面を弄びながら、そこには若い男が立っている。
黒い長髪は羽のように広がって、額には三本の角が生え――紅い瞳を細める男は、けれど先程までその場に居たはずの怪老と同じ声である。
「しかし……一度確かめるべきではあるか」
星々の現れた空を仰いで、彼は小さく呟いた。
尋常ならざる聴力でそれを聴き取った天狗が二人、臣下の顔つきで恭しく尋ねる。
「お出掛けですか」
彼は頷くと、
「ああ。江戸へ――」
振り返ったその影の遥か向こう、夜を背負う霊峰には天に聳え立つ城郭が見えていた。
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ふと気がついたとき、蓮は喧噪に包まれた道端に立っていた。
「ここは……」
ぼんやりとした頭で辺りを見る。
土が丸出しの路面に、背の低い木造家屋が軒を連ねている。よく見ればそれらは町屋風の店舗であり、表には看板だろう木の板に墨書で何やら書かれてある。がやがやと通りを歩き去る人々は、皆が皆、時代錯誤な着物姿で……。
「……いやいや、えっ、どこココ?」
ハッと気を取り戻した蓮が慌てて見渡す。
その目の前を颯爽と駆け抜けていくのは半裸の男――飛脚である。
呆然とそれを見送って、
「まるで時代劇……」
呟いてから、気がついた。
「これ、まさか夢の世界――?」
自分の体を見下ろせば、彼自身もまた時代遅れな着物姿である。長着に袴……そのうえ腰には大小二振りの日本刀が差してある。
ふらふらと路傍の天水桶に近寄り覗き込むと、凪いだ水面に侍風の格好をする蓮自身の姿が映った。
眼鏡こそは掛けていなかったものの、その顔は慣れ親しんだ自身のものである。
「ということは……また自分の精神体で潜り込んだ感じかな」
脳裏に過ぎるのは、先日に体験した夢境での記憶である。
夢の辻で怪物に襲われた蓮は柚葉の夢中へと迷い込んだが、しかしそこで彼は自分自身の精神体を維持していた。
同一の肉体に剣王鬼と同居する影響か、あるいは剣王鬼による侵蝕の影響か……。
ともあれ、そのような経験があるので蓮はあっさりと納得した。
それに何よりも――。
「ここが夢なら、つまり剣王鬼の記憶ってことじゃないか!」
蓮と近しい存在で、ほかにこんな時代を知っている者はいないのである。――白夜も化け猫なのだから古い存在であるかもしれないが、唐突に夢中へと迷い込むような出来事が、果たして蓮と彼女との間で起こるとも思えない。
やはり、同じ身体を共有する剣王鬼の記憶と何かしらの要因で同調した――そのような推測のほうが立てやすく、ずっと尤もらしかった。
これまでも剣王鬼の記憶らしき夢は見ていたが、まさか直接的に夢境にまで這入り込める日が来るとは思いもしていなかった蓮である。
「こいつは楽しい夜になるな……」
出会ってから早くも一か月が経ち、四六時中を共に過ごす肉体の同居人であるにも関わらず、蓮にとって剣王鬼は未だ謎だらけの存在だった。そんな彼の過去に、まさか一端でも迫れるやもとあっては、元来旺盛な蓮の好奇心は最早擽られるばかり――。
そのように期待で胸を高鳴らせているところ、彼の背に掛かる声があった。
「もし。七星を尋ねまわっとる若武者というんは、貴公でよろしいか」
振り返れば、少年がひとり立っていた。
笠を被って杖を突き、笈を背負う姿は旅の途上という背景を思わせる。背丈は蓮よりも頭一つぶんくらい低い。自然と見上げる笠の内側には、未だ幼さの残る顔つきが、屈託のないにこやかな笑みを浮かべている。
歳の頃は蓮と同じかそれより下か……美少年と言うべき容貌の彼は、艶やかな黒髪が垂れさがったその奥に宝石のような赤い瞳を輝かせていた。
「儂も七星に用向きがあってなあ。同道如何やろうか。ああ、なに、しがない呪い師よ……祓い屋緋崎じゃ、よろしく頼む」
少年期特有の柔らかな高音で話し掛けてくる。そこでさらりと飛び出たその名前には、さすがに蓮も開いた口が塞がらなかった。
(四年八月三十日、末尾に加筆)




