第拾参話 陽炎(四)
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「……離してください」
流れ込む夕陽で満たされた喫茶店に、少女の声がか細く溶けた。
顔だけ振り向いた彼女は表情の読めない瞳で、掴まれた腕をジッと見下ろす。……その面持ちには一層浮き彫りになった陰があり、だから少年は衝動の促すままに口を開いた。
「俺っ……知ってます」
怪訝そうに歪む顔を熱く見つめて、
「実は見てたんです、あの日の柚葉さんの夢――過去の記憶」
少女の瞳が大きく見開かれた。
掌のなかの腕を通して、彼女の体が途端に強張ったのが少年へ伝わる。
「だから――少しは気持ちがわかる、だなんてことは言わないし、言えないけれど……でも」
困惑で固まる柚葉に、博司は逸る気持ちに突き動かされるまま、ただ口を動かした。
言いたい言葉が沢山ある――あの夢を覗いた夜から、これまでずっと考えていた言葉が、伝えたいことが多様にあって、ぐるぐると頭の中で渦を巻いていた。
「どうか、もっと周りを頼ってください……というか、安心してください……というか……その、少なくとも、お――俺はッ」
そこで思わず身を乗り出して、
「俺は、絶対にいなくならないからっ――だから、傍にいさせてください」
知らず引き寄せる形になっていた腕につられて、柚葉の顔が近づいていた。
真剣な表情の少年と、呆気にとられた様子の少女とが、至近距離で見つめ合う――二人の間に、静寂が降り落ちる。
(……あれ?)
ふと我に返った博司が固まった。
いったい自分は、いま何を口走ったのか――脳がぼんやりと記憶の遡行をしようとしたところで、目の前の少女の瞳が右へ左へと揺れて、
「……しばらく考えさせて」
「あ、はい……」
囁くような幽かな言葉に、自然と彼も同じような声音で返す。
明らかに動揺した様子の少女は、いつの間にか緩んでいた手からすっと腕を引き抜くと、そのまま代金だけ机上に置いて静かに背を向けた。
どこか遠い意識の向こうで、ドアベルの音がカランカランと鳴り響く。
数拍置いて、ようやく少年は再起動を果たす。
「――何やっちゃってるの、俺ェ!?」
勢いに任せて、言わなくてもよい事まで言ってしまった――その事実に遅れて気がついた博司は、頭を抱え込むと机に突っ伏すのだった。
一方で、店を出た柚葉は、人通りの減った商店街を帰っていた。
ひたすら黙々と歩いていると、抱きかかえられた鞄の内がもぞもぞと動く。――やがて開いたファスナーからそっと狐が顔を出した。
「やれやれ……それで、受けるのかい。あれは愛の告白だろう」
呆れたような、同時に揶揄うような語調のそれに、柚葉は即して一言零す。
「まさか」
博司が聞けば無慈悲に過ぎるその言葉は、けれど柔らかな音で響くのである。
狐はその横顔を、穏やかな眼差しで見上げた。
上の空な少女は視線に気づかず、暮れゆく空を仰ぐと目を細めた。
「でも、――そうやなあ。たしかに今のうちん周りは、……みんな変わり者ばっかりやけんね」
そう呟く彼女からは、ここ数日に張りつめていた険が取れている。
なぜか不思議と、心が軽くなっていた。
10
剣王鬼が一階へ下りると、晃は居間で缶ビールを一本、舐めるように呑んでいるところだった。
テレビのニュース番組へと向けていた視線を入口へと向けて、彼は「おっ」と声を漏らした。
「なんだい蓮、随分と洒落た格好してるじゃない」
普段通りに長襦袢を着流している剣王鬼はそれに「ああ」とだけ返して、台所がある奥のほうへと足を向ける。
言葉少ない息子に首を傾げる晃だったが、酒精も手伝ってそこまでの違和感は覚えなかったようである。
どころか、急須で茶を淹れ始める彼の後ろ姿を眺めているうちに、「もしかして」と声を掛けた。
「その背中の山岳図、天城連山かい」
ぴたりと手を止めた剣王鬼が、「ほう」と感心する声を漏らした。
「真ん中がちょうど万三郎岳で、馬の背で……万二郎岳だ、そうだろう」
得意げに語る晃はそこで一度、缶を呷る。
剣王鬼はその様子を横目に眺めながら、
「確かにその通り」
と肯いた。
口元を拭った晃は「ふふん」と鼻を鳴らす。
「やっぱりね。僕はこれでも昔はちょっとした登山家だったんだ」
嘯く酔っ払いは空き缶をテーブルに置いて、そして二本目の缶を開けた。
炭酸の軽い音が部屋へ響く。
「というか、天城山なら蓮も登ったことあるだろう。ほら、昔……母さんが生きているころに一度だけ」
ごくごくと水を飲むように缶を傾ける晃を余所に、剣王鬼は蒸らした緑茶を湯呑に注いでいく。
「……そうだったかな」
「うーん、覚えてないか。まあ、まだ小さかったからなあ」
晃は一気に飲み干した缶を握り潰すと、さて三本目へ……と手を伸ばしたところで、その手をそっと掴む手があった。
顔を上げれば、盆を持った少年がすぐ傍らに立っている。
「それよりも、そろそろ呑み過ぎだ。明日の昼には出立なのだろう……ほら、代わりに茶でも飲め」
盆の上には湯呑がふたつ載っている。その一方を晃へと手渡した。
「……いやあ、やっぱり一度は一人暮らしをさせてみるもんだね。気が利くようになった」
まったく疑問を浮かべずに受け取ると、彼はぼんやりと笑ってそれを飲む。
「それに、なんだろう――まるで、歳上みたいな感じすらする」
剣王鬼は鼻で笑うと、残った湯呑を持ってソファへと座る。そばに置いてあった読み掛けの本を取ると、紅い瞳を紙面へ落とす。
「ぬかしおる。さっさと床に就くがいい」
「……うわ、やっぱりクソガキはクソガキだったかあ」
男はけらけら笑うと、「よっこらせ」と腰を上げた。
「それじゃあ、言われた通りもう寝るよ。おやすみ、蓮」
空返事の息子を気にするでもなく、晃はそしてのそのそと居間を出る。欠伸を噛み殺しながら階段を上っていくその背中を、紅い瞳が少しの間だけ追っていた。
11
東京都千代田区千代田――皇居の一角に所在するは日本咒術協会本部の地階、その一室で、密談が行われようとしていた。
「遅れてすまない」
薄暗い部屋に廊下の明かりが差し込んで、またすぐに暗くなった。
電子ロックの厳重な扉から入ってきたのは筋肉質の大柄な青年で、彼――土御門晴基が低く抑えた声で謝罪する。
「いや、気にするな」
この薄暗い書庫――天井の電灯は消されたままに、紫外線を抑制した特殊な非常灯だけが要所で青白く灯っている――で待っていた細面の男、大津浦木は片手を払う仕草をする。
「なにしろ、つい先程に幸徳井の兄弟を揃って見かけたからな。腰巾着の奴らが居るってことは、だ……」
心底うんざりとした様子でそう言うと、浦木は友人へと憐憫の目を向けた。
「晴基、また勘解由小路に絡まれたな」
「……ああ」
言葉少なく頷く晴基も、苦みのある表情である。
辺りに妙な空気が漂ったところで、浦木が気を取り直すように咳をする。
「まあ、あんな奴らのことなんかどうでもいい。それよりも――」
抱えていた書類鞄から、ひとつのファイルを取り出した。
「例の第三種――天城王に関する調査報告が、昼に資料室から上がってきた」
まずは目を通してみろ――そんな言葉と共に渡されたそのファイルを、晴基は眉一つ動かさず受け取った。
そして、ぺらり――ぺらりと頁を繰っていくうちに、眉間にどんどんと皺が寄っていく。
やがて最後まで目を通し終えると、厳しい面持ちで呟いた。
「これは……」
顔を上げた彼に、浦木も頷いてみせる。
そして彼が持つファイルへと改めて目を落とす。
「天城王――妖仙天城真君。大陸では南宋の頃に志怪小説の記述あり。野州奥地の天城山に居する道力強力の妖仙であると。……そして」
「わが国では文化八年の随筆に記述あり。伊豆半島の天城山頂に居する神仙であり、大天狗万次万三郎を家来とする――」
晴基が継いだ言葉を、最後に浦木が再び継いだ。
「――また、伊豆天城山の神仙に関しては、魔王録三号に比定する見解あり。添付資料をよく参照の事……」
いやな沈黙が室内に満ちた。
ややあって、
「魔王録――七星文書とは……」
そう述べると、晴基は重い息を吐いた。
「想定以上の大物が出てきたな。それで、この部屋というわけか」
浦木も疲れた声音で肯く。
「ああ……この特別室には、一般書架には置いていない禁書の類も保管してあるからな」
鍵はある、こっちだ――と先導する彼に、晴基も続いてゆく。
やがて二人は部屋の最奥までやってきた。浦木が書架の鍵を開けると、桐材の棚に整然と並んだ、中身の詰まった中性紙封筒やボックスが顔を見せる。
それらに割り振られている整理番号を確認しながら、人差し指を滑らしていき――
「あった。これだな」
ひとつの封筒を浦木が抜き取った。
A4サイズの角封筒は古く色褪せ、中の冊子で分厚く膨らんでいる。
彼は読書台にそれを置くと、慎重な手つきで中の和綴じ本を取り出した。
ごくりと、知らず晴基も喉を鳴らす。
七星文書と呼ばれるそれらは……戦後に禁書と指定された呪術資料の一群だった。
第二次世界大戦時――今もなお悪名高い関東軍呪術部、その第一部隊を率いた男が、かつて内地で行った仕事のひとつである。
大日本帝国内の伝承伝説、とりわけ神霊や妖怪、そして大魔縁――魔王の記録を調査し、統合的に整理した文書だった。
そのうち魔王録と称される箇所は、一号から八号までの番号が振られている。
一号「崇徳院」から始まり、……三号の数字のもとにその名はあった。
二人の男が、どちらともなく読み上げる。
「剣王鬼――」
薄暗い書庫に、その名がどこか不穏な響きで波紋し、物陰の暗闇に溶けてゆく。
その存在に関する記述は殆どが黒塗りで検閲されており、読解できる部分は非常に少なかった。
曰く、ある時は老爺であり――。
ある時は青年であり――。
ある時は童子の姿で現れる――。
正しく千姿万態の魔王であり、――そして他の怪が人ある故に怪であるを余所に、彼は怪ある故に怪である。
第拾参話 陽炎 /了。
(六年十月二十日、一部改稿)
 




