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物怪伝 鬼の章  作者: 犬尾南北
大倭篇

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第拾参話 陽炎(四)




        9




「……離してください」


 流れ込む夕陽で満たされた喫茶店に、少女の声がか細く溶けた。

 顔だけ振り向いた彼女は表情の読めない瞳で、掴まれた腕をジッと見下ろす。……その面持ちには一層浮き彫りになった陰があり、だから少年は衝動の促すままに口を開いた。


「俺っ……知ってます」


 怪訝そうに歪む顔を熱く見つめて、


「実は見てたんです、あの日の柚葉さんの夢――過去の記憶」


 少女の瞳が大きく見開かれた。

 掌のなかの腕を通して、彼女の体が途端に強張ったのが少年へ伝わる。


「だから――少しは気持ちがわかる、だなんてことは言わないし、言えないけれど……でも」


 困惑で固まる柚葉に、博司は逸る気持ちに突き動かされるまま、ただ口を動かした。

 言いたい言葉が沢山ある――あの夢を覗いた夜から、これまでずっと考えていた言葉が、伝えたいことが多様にあって、ぐるぐると頭の中で渦を巻いていた。


「どうか、もっと周りを頼ってください……というか、安心してください……というか……その、少なくとも、お――俺はッ」


 そこで思わず身を乗り出して、



「俺は、絶対にいなくならないからっ――だから、傍にいさせてください」



 知らず引き寄せる形になっていた腕につられて、柚葉の顔が近づいていた。

 真剣な表情の少年と、呆気にとられた様子の少女とが、至近距離で見つめ合う――二人の間に、静寂が降り落ちる。


(……あれ?)


 ふと我に返った博司が固まった。

 いったい自分は、いま何を口走ったのか――脳がぼんやりと記憶の遡行をしようとしたところで、目の前の少女の瞳が右へ左へと揺れて、


「……しばらく考えさせて」

「あ、はい……」


 囁くような幽かな言葉に、自然と彼も同じような声音で返す。

 明らかに動揺した様子の少女は、いつの間にか緩んでいた手からすっと腕を引き抜くと、そのまま代金だけ机上に置いて静かに背を向けた。

 どこか遠い意識の向こうで、ドアベルの音がカランカランと鳴り響く。

 数拍置いて、ようやく少年は再起動を果たす。


「――何やっちゃってるの、俺ェ!?」


 勢いに任せて、言わなくてもよい事まで言ってしまった――その事実に遅れて気がついた博司は、頭を抱え込むと机に突っ伏すのだった。


 一方で、店を出た柚葉は、人通りの減った商店街を帰っていた。

 ひたすら黙々と歩いていると、抱きかかえられた鞄の内がもぞもぞと動く。――やがて開いたファスナーからそっと狐が顔を出した。


「やれやれ……それで、受けるのかい。あれは愛の告白だろう」


 呆れたような、同時に揶揄うような語調のそれに、柚葉は即して一言零す。


「まさか」


 博司が聞けば無慈悲に過ぎるその言葉は、けれど柔らかな音で響くのである。

 狐はその横顔を、穏やかな眼差しで見上げた。

 上の空な少女は視線に気づかず、暮れゆく空を仰ぐと目を細めた。


「でも、――そうやなあ。たしかに今のうちん周りは、……みんな変わり者ばっかりやけんね」


 そう呟く彼女からは、ここ数日に張りつめていた険が取れている。

 なぜか不思議と、心が軽くなっていた。




        10




 剣王鬼が一階へ下りると、晃は居間で缶ビールを一本、舐めるように呑んでいるところだった。

 テレビのニュース番組へと向けていた視線を入口へと向けて、彼は「おっ」と声を漏らした。


「なんだい蓮、随分と洒落た格好してるじゃない」


 普段通りに長襦袢を着流している剣王鬼はそれに「ああ」とだけ返して、台所がある奥のほうへと足を向ける。

 言葉少ない息子に首を傾げる晃だったが、酒精も手伝ってそこまでの違和感は覚えなかったようである。

 どころか、急須で茶を淹れ始める彼の後ろ姿を眺めているうちに、「もしかして」と声を掛けた。


「その背中の山岳図、天城あまぎ連山かい」


 ぴたりと手を止めた剣王鬼が、「ほう」と感心する声を漏らした。


「真ん中がちょうど万三郎ばんざぶろう岳で、馬の背で……万二郎ばんじろう岳だ、そうだろう」


 得意げに語る晃はそこで一度、缶を呷る。

 剣王鬼はその様子を横目に眺めながら、


「確かにその通り」


 と肯いた。

 口元を拭った晃は「ふふん」と鼻を鳴らす。


「やっぱりね。僕はこれでも昔はちょっとした登山家だったんだ」


 嘯く酔っ払いは空き缶をテーブルに置いて、そして二本目の缶を開けた。

 炭酸の軽い音が部屋へ響く。


「というか、天城山なら蓮も登ったことあるだろう。ほら、昔……母さんが生きているころに一度だけ」


 ごくごくと水を飲むように缶を傾ける晃を余所に、剣王鬼は蒸らした緑茶を湯呑に注いでいく。


「……そうだったかな」

「うーん、覚えてないか。まあ、まだ小さかったからなあ」


 晃は一気に飲み干した缶を握り潰すと、さて三本目へ……と手を伸ばしたところで、その手をそっと掴む手があった。

 顔を上げれば、盆を持った少年がすぐ傍らに立っている。


「それよりも、そろそろ呑み過ぎだ。明日の昼には出立なのだろう……ほら、代わりに茶でも飲め」


 盆の上には湯呑がふたつ載っている。その一方を晃へと手渡した。


「……いやあ、やっぱり一度は一人暮らしをさせてみるもんだね。気が利くようになった」


 まったく疑問を浮かべずに受け取ると、彼はぼんやりと笑ってそれを飲む。


「それに、なんだろう――まるで、歳上みたいな感じすらする」


 剣王鬼は鼻で笑うと、残った湯呑を持ってソファへと座る。そばに置いてあった読み掛けの本を取ると、紅い瞳を紙面へ落とす。


「ぬかしおる。さっさと床に就くがいい」

「……うわ、やっぱりクソガキはクソガキだったかあ」


 男はけらけら笑うと、「よっこらせ」と腰を上げた。


「それじゃあ、言われた通りもう寝るよ。おやすみ、蓮」


 空返事の息子を気にするでもなく、晃はそしてのそのそと居間を出る。欠伸を噛み殺しながら階段を上っていくその背中を、紅い瞳が少しの間だけ追っていた。




        11




 東京都千代田区千代田――皇居の一角に所在するは日本咒術協会本部の地階、その一室で、密談が行われようとしていた。


「遅れてすまない」


 薄暗い部屋に廊下の明かりが差し込んで、またすぐに暗くなった。

 電子ロックの厳重な扉から入ってきたのは筋肉質の大柄な青年で、彼――土御門つちみかど晴基はるもとが低く抑えた声で謝罪する。


「いや、気にするな」


 この薄暗い書庫――天井の電灯は消されたままに、紫外線を抑制した特殊な非常灯だけが要所で青白く灯っている――で待っていた細面の男、大津おおつ浦木うらきは片手を払う仕草をする。


「なにしろ、つい先程に幸徳井こうとくいの兄弟を揃って見かけたからな。腰巾着の奴らが居るってことは、だ……」


 心底うんざりとした様子でそう言うと、浦木は友人へと憐憫の目を向けた。


「晴基、また勘解由小路かでのこうじに絡まれたな」

「……ああ」


 言葉少なく頷く晴基も、苦みのある表情である。

 辺りに妙な空気が漂ったところで、浦木が気を取り直すように咳をする。


「まあ、あんな奴らのことなんかどうでもいい。それよりも――」


 抱えていた書類鞄から、ひとつのファイルを取り出した。


「例の第三種――天城王てんじょうおうに関する調査報告が、昼に資料室から上がってきた」


 まずは目を通してみろ――そんな言葉と共に渡されたそのファイルを、晴基は眉一つ動かさず受け取った。

 そして、ぺらり――ぺらりと頁を繰っていくうちに、眉間にどんどんと皺が寄っていく。

 やがて最後まで目を通し終えると、厳しい面持ちで呟いた。


「これは……」


 顔を上げた彼に、浦木も頷いてみせる。

 そして彼が持つファイルへと改めて目を落とす。


「天城王――妖仙天城真君。大陸では南宋なんそうの頃に志怪小説の記述あり。野州やしゅう奥地の天城てんじょう山に居する道力強力の妖仙であると。……そして」

「わが国では文化八年の随筆に記述あり。伊豆半島の天城あまぎいただきに居する神仙であり、大天狗万次ばんじ万三郎ばんざぶろうを家来とする――」


 晴基が継いだ言葉を、最後に浦木が再び継いだ。


「――また、伊豆天城山の神仙に関しては、三号に比定する見解あり。添付資料をよく参照の事……」


 いやな沈黙が室内に満ちた。

 ややあって、


「魔王録――七星しちせい文書とは……」


 そう述べると、晴基は重い息を吐いた。


「想定以上の大物が出てきたな。それで、この部屋というわけか」


 浦木も疲れた声音で肯く。


「ああ……この特別室には、一般書架には置いていない禁書の類も保管してあるからな」


 鍵はある、こっちだ――と先導する彼に、晴基も続いてゆく。

 やがて二人は部屋の最奥までやってきた。浦木が書架の鍵を開けると、桐材の棚に整然と並んだ、中身の詰まった中性紙封筒やボックスが顔を見せる。

 それらに割り振られている整理番号を確認しながら、人差し指を滑らしていき――


「あった。これだな」


 ひとつの封筒を浦木が抜き取った。

 A4サイズの角封筒は古く色褪せ、中の冊子で分厚く膨らんでいる。

 彼は読書台にそれを置くと、慎重な手つきで中の和綴じ本を取り出した。

 ごくりと、知らず晴基も喉を鳴らす。


 七星文書と呼ばれるそれらは……戦後に禁書と指定された呪術資料の一群だった。


 第二次世界大戦時――今もなお悪名高い関東軍呪術部、その第一部隊を率いた男が、かつて内地で行った仕事のひとつである。

 大日本帝国内の伝承伝説、とりわけ神霊や妖怪、そして大魔縁――魔王の記録を調査し、統合的に整理した文書だった。


 そのうち魔王録と称される箇所は、一号から八号までの番号が振られている。


 一号「崇徳院」から始まり、……三号の数字のもとにその名はあった。

 二人の男が、どちらともなく読み上げる。


「剣王鬼――」


 薄暗い書庫に、その名がどこか不穏な響きで波紋し、物陰の暗闇に溶けてゆく。

 その存在に関する記述は殆どが黒塗りで検閲されており、読解できる部分は非常に少なかった。


 曰く、ある時は老爺であり――。

 ある時は青年であり――。

 ある時は童子の姿で現れる――。

 正しく千姿万態の魔王であり、――そして他の怪が人ある故に怪であるを余所に、彼は怪ある故に怪である。



第拾参話 陽炎 /了。



(六年十月二十日、一部改稿)

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