第拾参話 陽炎(三)
5
ドッペルゲンガーとは、ドイツ語の名称である。
直訳すれば「二重に歩く者」であり、ほかに英名では単純にダブルとも呼ばれ、日本の書籍では複体や重複者などといった呼称も存在する。
呼び名だけでなく、それらは精神の疾患による幻視であったり超能力による作用であったりと、古今東西で様々な解釈が与えられているが、とかく「もう一人の自分」を見かけてしまう――という怪異であることに変わりない。
そんな存在が出没した……そのような噂が、付近一帯で仄かに流れ始めていた。
この世界における流言飛語とは、低くない確率で妖怪の前兆である――そのような観測結果が事実知られている以上、今回の噂話も空言で済まない可能性を秘めている。
「そのため私は、現況を調査しなければなりません」
「なるほどです。つまり祓い屋としてのお仕事なんですね」
「ええ、――災厄が起きてからでは遅いんです」
そう述べる柚葉に、博司は神妙そうに頷いた。
少年の脳裏で、つい先日に追体験した夢中の世界が過ぎる。
思い返せばあの世界でも、似たような噂が前もって街に流れていた……。
(だから柚葉さんは、こんなにも思い詰めた様子なのか)
赤い……あまりにも赤い悲劇の世界……あの世界が、おそらく柚葉の過去の記憶であろうということは、博司は確信に近い予感で察していた。
ゆえに、目の前に立っている二つだけ歳上の少女の、その硬い表情の理由が、深く聞かずとも共感できてしまった。
「……はい! そうですね!」
少年の元気よい返事に、僅かばかりたじろいだ様子を見せつつ、柚葉は気持ちを入れ替えるように咳をする。
「それでは、また一時間後にここで落ち合いましょう……」
6
「じゃあ、また明日ね」
「うん」
夏なので空は未だ青かったが、時計は午後五時を回っていた。
外が明るいとはいえ夕方であることに変わりなく、渡辺家における勉強会も本日は引き上げとなった。
「やり残したページも、少しはやっとくのよ」
玄関口で釘を差してくる葵に「あいよ」といい加減な返事をして、蓮は手を振った。
自転車を駆る友人達の背が、通りを曲がって見えなくなったところで戸を閉めた。
「はあ……疲れた」
慣れない勉強で凝った肩をほぐしつつ、居間へと戻る。
するとそこで、二階から階段を降りてきた父親と鉢合わせた。
「おや、お友達は帰ったのか」
寝起きらしいラフな格好の彼に頷いて、蓮は「夕飯どうする?」と聞いた。
「うーん、食材はあるかい」
「ぜんぜん」
「それじゃあ、出前でも取るか……」
欠伸を噛み殺しながら「チラシとかある?」と歩き出す晃に「新聞のところ」と返しつつ、蓮も後ろへ続く。
しながら、「そういえば」と尋ねた。
「父さん、今回はどのくらい居るのさ」
前回の帰国は、およそ半年前……昨年の年末年始だった。そのときは二週間ほど過ごして、また海の向こうへと渡っていた。
「そうだなあ」
新聞とチラシを放り込んであるボックスを漁りながら、晃は思案げに呟く。
「東京の本社にも顔出さなきゃだから……明日の昼には出るかな」
「……そっか」
いささか残念そうな声音の蓮に、「すまん」と振り返って頭を掻いた。
「今回は本当に急な用事でね……」
「いや、いいよ。気にしないで」
頭を振る息子を見て、「まあ、元気そうでよかったよ」と笑むと、
「それで、……どれがいい」
カラフルな印刷のチラシを広げた。
7
最近にドッペルゲンガーの噂を聞かなかったか――そのようなことを商店街中で尋ねてまわってみたものの、これといった成果は得られなかった。
博司は首元の汗を拭うと、古びた構えの喫茶店へと戸を潜る。
ドアベルが乾いた音を響かせ、エアコンの効いた涼しい空気が肌を撫ぜる。
広くない店内をぐるりと見回してみたものの、半分も埋まっていない席に柚葉の姿は未だ見えなかった。
「まあ、ちょっと早く来たもんな」
ひとりごちつつ、案内された席へと座る。
ちょっとだけ見栄を張って冷やしコーヒーを注文し、待ち合わせが後から来ることを店員に告げる。
愛想よく去っていく背中を見送ると、博司は改めて店内を見渡した。
椅子や机、壁紙などは深い茶色が目立ち、艶の曇った調度品も相まって、端的に言うと古臭い……良く言えばレトロな雰囲気が全体的に漂っている。さらに掛けられている音楽が、聞き覚えのあるような無いような、という塩梅の昭和の曲なのがそれら印象を加速させていた。
(なんていう人の曲だっけ……)
思いつつ見回していると、「あっ」と気がついた。
店内の隅にさりげなく置いてある機械は、よく見てみればジュークボックスであった。
立ち上がり近づけば、ガラス張りの天板の向こうに格納されているレコードが見える。レコードの上には各々の曲名と番号が書かれており、機械上部には番号を入力するキーボードと硬貨投入口がある。傍に貼られたシールには「三曲百円」と印字されていた。
「すげえ、初めて見た」
物珍しさからレコードを覗きつつ、なにか記念に曲を流してみようかとも考える。
「あ、でも知ってる曲が無いや……」
呟いたところで、カランコロンと戸が鳴った。
振り向けば、ちょうど入ってきたのは柚葉である。
「柚葉さんっ、ここです!」
慌てて席に戻ってアピールすれば、一言二言店員と話してから少女も寄ってくる。
「お待たせしました」
「いえいえ!」
机を挟んで向かいの椅子を引きながら述べる少女に、首をブンブンと勢い振って否定する。
「俺も、ついさっき来たばかりですから!」
注文はしましたか……と机上のメニューを開こうとする博司に、柚葉は掌を向けて制すると、
「大丈夫です、先ほど頼みました。……それよりも、結果はどうでしたか」
肩に掛けていた鞄をゆっくりと隣の席に置き、目前の彼へと目を向けた。
「さっそく聞かせてください」
「わ、わかりました」
促され、そうして話しているうちに両者の頼んでいたドリンクも届き、話し終わるころには博司の前に置かれたコーヒーは、グラスの半分ほどまで減っていた。
カラン、と氷が音を立てる。
「……なるほど」
小さく頷く柚葉に、博司は恐る恐ると問う。
「あの、ここまで話が全然出てこないってなると、……今のところは噂もあまり広まっているわけじゃないってことではないかと」
「そうですね……その可能性はあります」
先ほどの話では柚葉のほうでも、収穫は殆ど無いということだった。
この一時間、二人合わせて百人近くの人間に聞いたが、実際に噂の覚えを答えた者は五人に満たなかったのである。
「この程度の流布状況ですと、妖怪の前兆として捉えるには……」
「はやい?」
それに柚葉が肯いたことで、博司はほっと溜めていた息を吐いた。
つまり取り越し苦労であったわけだ。
まさか故郷で惨劇が起きるような、そんな未来はなかった。――そのように安堵する少年の前で、「けれど」と少女は少しも緩まぬ表情で呟いた。
「最悪の事態は常に想定しなければ。この調査は、今後も私のほうで続けます」
どこか虚空を睨む視線は微塵も揺るがず、そう言い切った彼女はいよいよ執念染みたものに憑かれていた。
濁った気配は傍から見てわかるほどで、当てられた博司は息を呑む。
と、そこで彼らは気がついた。
二人は窓際の席だったので直ぐにわかる――知らぬ間に、外からの明かりが薄らいでいる。
窓の先を見れば、空の端が遠く暮れ始めていた。
(もう、こんな時間か……)
驚くと共に、ふと夕陽の赤があの光景と重なった。
あの日の……あの夢の世界の色である。
動揺を吹き飛ばすように博司は頭を振ると、改めて前を見て――ようやく覚る。
「……柚葉さん?」
先までの博司と同じように窓の向こうを見つめている少女は、けれど様子がおかしかった。
呼吸は大きく乱れ、見開かれた瞳は微かな震えで揺れている。
窓から差す夕陽で染まる彼女の顔は、正しく恐怖の色だった。
「柚葉さん、あの、大丈夫ですか」
再三の呼びかけに、ハッと柚葉が正気に戻る。
「嗚呼……」と一瞬間だけ呆けた後、少年の眼差しからサッと目を逸らすと、
「それでは、これで――」
慌てた様子で、がたりと席を立つ。
「あ――」
咄嗟に動いた体が、彼女の腕を引き留めるように握っていた。
8
久方ぶりに親子揃っての夕食も終えて、蓮は自室へと戻っていた。
窓の外は薄暮である。
ずっと遠くの峰の縁に僅かな夕陽が引っ掛かっているだけで、家の周辺はすっかりと夜の匂いで包まれていた。
学習机の上に居間から運んできたテキストをどさりと置くと、「ふう」と吐息して椅子に背を預ける。
開け放たれた窓からは、涼しげな風と共にヒグラシの鳴き声が流れてくる。
「今日は疲れたな……」
改めてそんなことを呟いて、目を瞑る。
日が昇ってから暮れるまでが蓮の時間で、夜間が剣王鬼の時間である――と、そのように取り決めた生活は早くも習慣として根付いていた。
普段ならば、このまま蓮は眠りに落ち――と、そこで「あれ」と初めて事実に気がついた。
「……しまった! 父さんがいる!」
バッと立ち上がろうとしたところで、ぐらり……と視界が揺れて椅子に再び背をぶつける。
身体に力が入らず……五感が遠ざかり……魂が、退かされる。
そして今宵も、新たな支配者が身体を手に入れた。
「――さて、己の時間だ」
 




