第拾参話 陽炎(二)
3
「帰ってくるならさ、ちゃんと連絡してよね」
文句を言いながら麦茶のグラスを置く蓮に、
「いやあ、急に決まってねえ」
のんびりとそう答えて、中年男性――渡辺晃は冷たいグラスを傾けた。
「ああ、生き返る……やはり日本は暑いよ」
一息ついてから、目前のソファへと顔を向ける。
「君たちも、すまないね。勉強の邪魔をしてしまって」
それにぶんぶんと首を横に振るのは、蓮の友人たちだった。
「いえいえ、お邪魔しているのはこちらですから……」
答える慧に微笑むと、「改めて」と晃は名乗りを上げた。
丸眼鏡を掛けた穏やかそうな顔つきは息子に通じる作りだったが、刈り込んだ短髪と浅黒い肌は活発そうな印象で、スーツ越しの輪郭は鍛えていることが窺える肉体であった。
「僕は渡辺晃。ここにいる愚息の父親です」
「愚息扱い……」
微妙な表情の蓮を余所に、そのまま自己紹介が交わされる。
「不死川慧です。息子さんとは同じクラスで、同じ部活です」
「同じく、千田文太です」
「神谷葵です!」
軽く頭を下げる少年二人のその横で、ひとりだけ元気よく名乗るのは少女だった。
「不死川くんに千田くんだね。よろしく。……ああ、うん、もちろん神谷さんは覚えているよ。このアホと今も変わらず仲良くしてくれているんだね、ありがとう」
「いえ! そんな! わたしこそ蓮にはお世話になってますので!」
かしこまっている様子の葵に、隣に座る少年たちが驚愕の目を向けている。
二人の内心で重なる声は、誰だ、こいつ……。
神谷葵という少女は、尊大かつ横柄な態度がデフォルトである。学校の教師相手でも敬語を使わず、実の親すら名前を呼び捨てにする非常識な女だった。
それが、まさか人並に礼儀を気にすることがあろうとは……慧も文太も、これまで夢にも思ったことがなかった。
唖然とする彼らの傍に寄って、蓮が小声で囁いた。
「なんか知らんけど、父さん相手だと葵は前からこんな感じだぜ」
不思議だよな。と述べる少年の顔を眺めて、ふたりの胸の内で再び声が重なった。
(いや、それってたぶんお前の親だから……)
寸劇をする三人を横目に、晃が紙袋から大きな菓子の箱を取り出した。
「お近づきの印に、おやつにどうだろう……えっと鋏は」
「あ、わたしやります!」
「いやいや、神谷さんは座ってなさい。おい、蓮」
目を向けられた蓮が億劫そうに腰を上げると、その尻を晃がばしりと叩く。
「女の子にばかり働かせるな」
「……へーい」
鋏を取ってきた蓮が、父親に指図されるまま菓子箱を開封する。個包装の焼き菓子が整列する内箱をそのまま机上へと置けば、慧たちに笑みを向けて「遠慮なくどうぞ」と晃が促した。
「ありがとうございます」
「いただきます!」
各々に手を伸ばす友人に蓮が続いたところで、その肩を父親が掴んだ。
「まあ、待て。おまえには別にある」
言って、紙袋の底から更に取り出したものは奇怪な造形の仮面だった。
木彫りのそれは仮面としては小振りな寸法だが、薄眼を開く男の顔には山羊の角や蛇の頭などが豪勢に生えている。赤い塗料で塗られた表面は、重ねられたニスで鮮やかに照っていた。
受け取ってみれば大きさの割にずしりと重く、実際に被るようなものではなく外国人向けの土産物だろうと察した。
「悪魔の仮面だそうだ。こういうの好きだろ」
「……まあ、そうだね」
返事しつつ、こう明らかに観光客のウケを狙ったものよりは、地域に元々根付いている伝統工芸品だとか護符だとかのほうが好いなあ……と密かに思う蓮である。
予想よりも薄い反応に戸惑ったのか、晃は次々に袋の中身を出していく。
「こういうのもある。ズールー族の人形に、スワジガラスの置物、……あとこいつはカリンバだな」
そうして机の上には先ほどの焼き菓子に加えて、ビーズ細工の人形が三体に、ガラスを削った獅子、豹、象、犀、水牛と、そして親指ピアノが並んだ。
これらには食指が動くのか「おっ」と蓮が声を上げ、晃は我が子ながら興味の範囲がいまいちよくわからんな……と思った。
ついでとばかりにルイボスティーの袋も置いたところで、
「えっと、……今は海外にいらっしゃるんですよね」
手元の菓子の包装――英文が印刷されている――を指で広げながら文太が問うた。
「そうだね。南ア……南アフリカ共和国のヨハネスブルグという都市だよ。まあ、これらは大体ケープタウン辺りの露店で買った物だけれどね」
頷く晃に、カリンバを矯めつ眇めつしながら蓮が補足する。
「前にも言ったと思うけど、三年間の出張中。年に一度しか帰ってこないという育児放棄ぶりさ」
「――おいおい、外聞が悪いな。それなら付いてくればよかったじゃないか」
「いや、それは英語喋れないから勘弁……」
じゃれ合う親子を前に、慧の口元に自然と笑みが浮かぶ。
「仲がいいんですね」
言われた蓮に晃は顔を見合わせて、お互いなんだか照れ臭そうに頬をかく。
「まあ、そうかな。……さて、そろそろオジサンは退散するよ」
席から立ち上がった彼は「シャワーを浴びて仮眠する」と蓮に、そして慧たちには「ごゆっくり」と残すと、キャリーケースを手に居間を去った。
4
街の路頭で、学生風の少女らが三人連れ立って歩いている。
「――それでね、そこで振り返ると……見たなあッ……!」
「ちょっと、それ古典的すぎ!」
「聞いたことあるよォ!」
騒々しい雑踏のなかで、周囲に負けず姦しい声が響き渡る。
彼女らは各々が手にアイスクリームを持っており、どうも買い食いしながらの雑談らしい。内容は、季節柄に定番の心霊話である。
「うーん、古すぎたか」
ぺろりと舌を出す少女に、笑いながら一人が言う。
「もっとさ、最新の話はないの?」
「そうねえ……」先の少女が悩ましく唸ったところで、残る一人が「あっ」と思い出したように言った。
「そういえば、この噂は聞いた?」
隣に並ぶ二人の視線が集まり、少女が続ける。
「なんかね、最近この街でドッペルゲンガーを見たって人が……」
と、言い掛けたそのとき。
突然、――その少女の肩を勢い掴む手があった。
ぎょっとして彼女たちが振り返ると、そこには見知らぬ少女がひとり立っている。
同性で同年代であることに――大人や男性でなかったことに、少しだけほっとすれば、その少女が硬い声で詰問した。
「今の話をくわしく聞かせてくれませんか――」
戸惑いながらも見れば、彼女の目はなんだか据わっている。
「えっと……」
困惑に固まる友人を助けようと、二人の間にほかの少女らが割り入った。
「ちょっと、あなた誰よ!」
「いきなり何なんですか!」
道端で睨み合う少女たちに、何だ何だと周囲からも注目が集まり始めた。
しかし、闖入してきた少女は気にする素振りを一切見せることなく、ただ繰り返す。
「あの、今の話を――」
彼女の視線は、最初からずっと一人に注がれて外れない。
なまじ端麗な顔立ちの少女であるだけに、ちっとも表情の変わらぬその様子の異様さが際立っていた。
「ねえ、ちょっとこの子おかしくない……」
気圧された少女たちの目に脅えが混じり始めて――
「おおっと、すみません!」
――そこに、さらに飛び込む影が一人。
「え……」
少女の――柚葉の表情が、僅かに、けれど初めて変わる。隠せぬ困惑で瞳が揺れた。
乱入してきた少年が、ぺこりぺこりと周囲に頭を下げながら、彼女の腕を強く掴んだ。
「ご迷惑おかけしました、すみません。すみません……」
そしてそのまま、グイッと少女を引っ張って歩き去る。
「ちょっと、君っ……」
抗議の声を上げるも、彼に聞き入る素振りはない。
二の腕を握る少年の手は予想外に力強く、結局振りほどけないまま柚葉は道を一本曲がり、さらにその先でもう一本曲がるまで引きずられるように付いていくしかなかった。
「……この辺りまでくればいいか」
呟き、ようやく足を止めたところで柚葉が言う。
「ねえ」
それに、ハッとした様子で少年が飛びずさった。
「あっ、えっと……突然すみませんでした!」
ばっと体育会系張りに頭を下げる彼の頭頂を見降ろしながら、
「たしか……佐藤君でしたか」
はたして少年――佐藤博司は、「はい」と肯いた。
柚葉は小さく息を吐く。
博司は先日に知り合った中学生であるが、正直なところでそれほど記憶に残っている存在ではない。
「なぜ突然……」
自然と硬くなる声の彼女に、けれど博司は被せるように問い返した。
「それを言うなら柚葉さんこそ……さっきは、なんだか様子がおかしかったですよ」
顔を上げた少年の瞳は澄んでいて、その奥にはどこか心配そうな色さえ滲んでいた。
柚葉は我知らず目を逸らすと、
「それは……そういえば、なぜ君はここにいるんですか」
動揺のあまり、杜撰な態度で話題を変える。
彼の瞳の向こう側に、自分の濁った瞳が映ってしまうのが怖かった。
「どうしてって……近所ですから」
急な話題逸らしに気づきながらも、博司はそう返す。
というのも、……彼としては薄らとストーカー予備軍のような自覚があったため、これには密かに弁明の意味も込めていた。
二人がいるこの仲見世商店街は、駅前であると共に学園通りからもほど近い。
中高が幾つか並ぶその大通りには博司が通う学校もあり、だからつまりここは彼の生活圏内なのだった。
実際にこの日、博司が柚葉を見かけたのは完全なる偶然である。
ただ、……見かけてからその後、しばらく声を掛けようかどうしようかを悩みながら追いかけていた事実は、受け取り方によって大分印象が変わることではある。
「……そうですか」
興味の薄そうな声音で頷くと、柚葉は数秒、考えるように中空を見つめて、そして、
「それでは……」
言って、踵を返し歩き出す。
「あっ、ちょっと待ってください!」
慌てて追いすがる博司に、面倒くさそうに柚葉が半身振り返る。
「……まだ何か?」
その明らかに素っ気ない態度に少年は心へ浅くない傷を負うも、なんとか気合で口を開いた。
「えっと、あの……俺手伝いますよ!」
静かに目を見張る彼女をしっかりと見つめて、博司は言った。
「なんか噂について調べてるんですよね! 俺手伝います! やっぱりこういうのは、人手はあったほうがいいですよね!」
見つめ合う二人の間に、数拍の間が下りた。
「……なんで……」
少女が零せば、少年は気恥ずかし気に笑む。
「そりゃ……俺は柚葉さんに、助けられましたから!」
あまりに真っ直ぐなその感情に、彼女は再び目を逸らしてしまう。
けれど、落とした先の視界に彼は飛び込んできて、
「どうでしょうか!」
注がれる目の熱に、思わず、
「わかりました……」
脇に抱えた鞄の内で、「ほう……」と狐が感心するような吐息を漏らした。
○南アフリカ共和国
凡そ現実世界と同様の歴史を持ち、作中世界でも公用語は十一言語が定められている。ただし、現実にヨハネスブルグ近郊で三年間ほど居住していた筆者の経験からすると、通常日本人の活動圏は殆どが白人社会圏なので、英語さえ話せれば不自由はしない。
(四年七月十二日 あとがきにTIPS追加)




