第参話 儕輩(一)
1
渡辺蓮が路線バスから降りると、瞬間に視界が白く染まった。知らない間に、すっかりと夏の日差しになっている。
手廂して仰げば、蒼穹の向こう、遥か上空を鳥影が旋回していた。
日曜日である。
気が付けば、あれから六日が過ぎていた。
血と獣の臭いを纏った女怪に殺されかけ、――そして得体のしれない存在に取り憑かれてから、ちょうど一週間が経とうとしている。
この数日間、蓮は体調不良と称して高校を休んでいた。事実としては生まれてはじめてのずる休みだったが、そのような些事よりも心を砕くべきことがあった。
自身の肉体に取り憑いた悪霊――剣王鬼と名乗った鬼を、どうにか対処できないかと奮闘していたのである。
仮にもオカルトマニアの面目躍如というべきところで、蓮の手許には古今東西の呪いや心霊儀式に関する書籍資料は腐るほどあった。
蓮はそれらに載っていた除霊の儀式や呪いを、片端から悉く試していく。
数日かけて全てを試して――、結果としては、部屋が散らかっただけで効果は少しも現れることがなかった。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中には、奇怪な図像や文言が赤や黒のインキで書きなぐられた紙束や、呪符、人形、それだけでなくコレクションされていた各地の寺社仏閣の御守など、怪しげな品々が壁や床を関係なく散らばっていて、その様相は惨憺たるものである。
もしも唯一の家族であり、海外へ単身赴任中の父親がそれを目にしたとすれば、その常軌を逸した惨状に間違いなくひっくり返るだろう。
藁にも縋る心持ちでそれらの全てを試し終えたのが木曜日だった。
そして二日間かけて、もう一度全てを試しなおして――それでも効果は何ら得られず、妖しく怖ろしげな存在は未だに蓮の中に居座っている。
不幸中の幸いと言ってよいのか、その悪霊は、今のところは日没後の時間しか蓮の身体を乗っ取っていない。
朝に蓮の意識が目覚めてから、日が暮れるまでの間。
それが、彼が彼自身の肉体を自分の意思で利用できる時間だった。
と言っても、当然のことながら、これは別に剣王鬼が蓮に配慮しているという訳ではない。ただ単純に、未だ夜間のみしか十全に肉体を支配できない、ということでしかないようだ。
剣王鬼はこれを、「未だ馴染んでいない」と称している。
それが一体どのような意味合いを含む言なのかは蓮には推測しかできなかったが、この事実によって、彼は日中に限りどうにか自由にこの肉体を取りまわすことができ、無駄なあがきであったとしても除霊の真似事さえ行うことができた。
しかしこれは、いつか、より「馴染んだ」とき、つまり日中も肉体を剣王鬼が扱えるようになったとき、――そのときこそ、蓮の自由が消え去るということを意味しているのではなかろうか。
そもそもあの日、剣王鬼は「馴染む」までの期間をおよそ一年ほどであると口走ったが、文脈から察するにそれは「完全に蓮の魂が消え去る」までという意味でしかなく、曲がりなりにも蓮の自由意思で肉体を支配できる残日数というわけではないのだ。
もしやすれば、あと一か月、あるいは一週間、数日……、それほどの短時間のみしか彼には自由が残されていない、という可能性だってある。内側に蓮の魂が残ったまま、身体の支配権が完全に剣王鬼に掌握されるという可能性だ。
考えれば考えるほどに、なんだか気分が落ち込んでゆくが、蓮は頭を振って厭な想像を振り切った。
「……まだ諦めるときじゃない」
呟くと、顔を上げ、街の中へと足を踏み出す。
手応えのない一週間を経てなお、蓮は未だ己の人生を諦めてはいなかった。
だからこそこの日、彼は久方ぶりの外出をしている。
――蓮は隣町である神南町へと赴いていた。
自宅付近から路線バスに乗り、先ほどに駅前のバス停で降車した。
神南町や砂川町は、伊豆半島の付け根という立地もあって観光客も旅の途上で多く訪れる。新幹線の停車駅であるという点も大きい。
休日の昼下がり、人の混みあう雑踏をなんとか抜け出て、蓮は路地のほうへと歩みを進める。
十分ほども歩けば、やがて地方都市めいた喧騒が遠くなり、テナントビルの街並みから古い家々の並ぶ通りへと躍り出る。
そこでようやく、蓮は小さく息を吐いた。
昔の景観を残した、門前の街並みである。
石畳で舗装された通りには街路樹として枝垂れ柳が植えられており、その両側面には日本家屋の平屋が並んでいる。民家と公道の間には水堀があって遮られ、各屋の玄関や裏口からは小さな橋が渡っている。
道の端に寄って堀を覗けば、澄んだ水が清涼な音を立て、浅い川底を優雅な動作で鯉が遡っていった。
「やっぱり、ここはいい……」
感嘆する声を出すと、再び道程を進み始める。
時の止まったかのような穏やかなこの景観が、蓮はとても好きだった。
なにより、家の前に橋があるという点が素晴らしい。風情がある。なぜ自分はこっちの町の方で生まれなかったのだろうか……と子供の時分から悔しがっている。
ともあれ、やがて静かな住宅地からも抜け、交通量の多い大通りへと再び出る。
信号機で立ち止まった蓮が顔を上げれば、横断歩道の向こう側で大きな鳥居がそびえていた。
巨大な鳥居の額縁には飾り文字で「三浜大社」と彫られている。
鳥居の向こうには歩行者天国となっている門前通りが整備されていて、茶屋風の店構えをした休憩所や土産物屋が軒を連ねている。
そしてそこを更に五十メートルほど行った先に、立派な拵えの神社が見えた。
名神大社として延喜式に載る式内社であり、他に社格としては伊豆国一宮、伊豆国総社。
少なくとも千三百年以上の歴史を持つ、この地域で最も大きな寺社である。
この三浜大社こそが、この日の蓮の目的地であった。
「……なんだか緊張してきたな」
素人呪術のことごとくが失敗となった末、ようやくにして実際の宗教者に頼るという選択肢に気が付いたというわけである。
本日は六月三十日。
全国の神社で、夏越の大祓が行われる。
2
「清々しい気分だ」
青空を眺め、蓮はぽつりと呟いた。
場所は三浜大社の裏である。すぐそばでは幼い子供たちが、金網で囲まれた中に放し飼いにされている神鹿に嬌声を上げてはしゃいでいた。それを微笑ましい気持ちで眺める。
この日、蓮は大祓式に参加した。
大祓式とは、夏越を含めた大祓における中心神事であり、この日に蓮が頼みの綱として縋った儀式でもある。
神社では一年に二度、半年間に身体へ溜まった罪や穢れを落として清浄にする「大祓」が行われる。その内の六月晦日のものが夏越の大祓と呼ばれる神事である。
その意義の大きなところは祓い清める事であり、厄落とし……いわゆるお祓いである「祓」と行使する内容に然程の差異はない。対象が個人か大勢か、という程度である。
むしろ通常の祓式が短文な祓詞を奏することに対して、大祓では長文の大祓詞を奏上するのであるから、より効果が高そうな気持ちがする。
大祓式に参加するにあたり、蓮はまず人形を準備した。人の形に切られた形代に姓名、性別、年齢を記入し、それで体中を撫でて、最後に息を三度吹きかける。
これで蓮の身に存在する穢れが身代わりたる人形に委譲されるという。
その人形を初穂料と共に受付に提出する。
そしてこの人形が、大祓式の儀式において祓い清められるわけである。
大祓式の後の茅の輪くぐりも含め、全てが終わったときには思っていた以上に時間が経っていた。
学生の財布には少々厳しい面もあったが、こうして終えてみれば、なんだか肩が軽くなったような気がする。
あの鬼の声も聞こえてこない。
といっても、もともと昼間に関しては干渉されることがなかったので、だからといって無事に憑き物が落ちたのかどうかは、厳密には未だ定かではない。
この後に日が落ちても蓮が意識と自由を保っていたとき、ようやくこの一週間の悪夢から解放されるわけである。
……そういう訳なのだが、おそらくもう大丈夫だろう――と、とくに根拠なく蓮は浮かれていた。
渡辺蓮とは、生来的に楽観的な視点を誇る男であった。
そのうえで神事の間、蓮はどことなく深く清浄な気配を感じてもいた。
人生初のその感覚経験は彼の神秘趣味を大いに刺激し、そして結果として、この大祓の効果を信じる心へと繋がるのだった。
「いやあ、しかし不思議と終わってみれば、案外に楽しかった気がしてくるなあ」
広大な境内の中、大通りへと続く砂利道を歩みながら蓮は暢気な声を出す。
喉元過ぎれば熱さを忘れると諺にあるように、蓮もまた解放感から阿呆なことを考え出す。
剣王鬼の声が放つ重圧や、本能的な恐怖を覚えるその暗い気配、そして実際に肉体を連日に乗っ取られ、幾ばくもわからぬ余命。
それらの事実は、楽天家である蓮ですらも悲観的にさせ、強いストレスの中に放り込んでいた。
それらが解決したとなれば、反動もあって浮かれることも仕方がないことではあった。
なにより、蓮はもともとオカルトマニアだったのだ。
この一週間、すっかりと忘れ去っていたその気質が、今更になって動力を吹かし始める。
「へへ……これを機に僕も霊感が覚醒していたりして」
儀式のなかで感じていた気配を思い出し、不気味な笑みを漏らす。
そして鼻歌すら歌い出しそうな気分で参道を歩いていると、背後から掛けられる声があった。
「蓮?」
呼び声に振り返れば、そこには私服姿の友人――不死川慧の姿がある。
慧は相手が友人であると確認できるや否や駆け寄った。
「どうしてこんなところに……もしかして神谷に会いに? いや、それより体はもう大丈夫なのか?」
心配げな彼の姿に、浮かれ調子一本だった蓮の気分も一気に沈静する。
この一週間、仮病で高校を休んでいたことを思い出した。
さらに言うのならば、身を案じる内容の友人たちからのメールや電話……それらにまともに返信をしたような覚えがあまりない。
いくら切羽詰まっていた精神状態だったとはいえ、今になって思えば非常に薄情に過ぎる。
どっと冷や汗が背中に浮かぶ。
「えっと、その……」
視線が泳ぎ、斜め上の空間を行ったり来たりする。
しばらくそうしてから、ようやく蓮も腹を決めて慧に向き直る。若干に訝し気な様子ながら静かに待っていてくれた彼の目を見つめ返し、
「このあと時間あるなら、少し歩かない?」
どうせ終わったことである。先週末にこの身に起きた怪異、そのすべてをありのままに話してみよう――蓮はそう考えた。
○夏越の大祓
現実世界においても例年で行われる儀礼である。六月の晦日になれば大社も小社も例外なく執り行い、地域の人々や、あるいは遠方より訪問する人々まで多くの顔ぶれが並ぶ。
しかし作中描写と同様の期待で参加することが果たして良いのか否かは、意見の分かれるところである。
(四年七月十一日 あとがきにTIPS追加)